ビー玉になった日③(冬)
冬
11月20日にはじめて雪が降った。それが冬の到来のサインであったかのように、その後気温は急速に下がり、天気のすぐれない日が増え、日は目に見えて短くなっていった。留学前や初期に嫌というほど聞かされ、半ば脅されていた「北欧の冬」のはじまりだった。僕は他の多くの人がするように近所の薬局でビタミンDの錠剤を買って、だいたい毎朝飲んだ。冬に関する憂鬱な話題が友人との間で増えた。一方で、僕の精神的な状態はむしろ徐々に向上していた。不定愁訴にうまく対応できるようになったからというのもあるし、個人的に冬の到来を望んでいたからというのもあったと思う。なぜなら、僕は何にも振り回されない、徹底的に静かでゆったりとした内省的な時間を求めていたからだ。その時間はきちんとやってきた。12月の頭に学期末試験が終わったあと、僕は本当に何もすることがなくなった。サッカークラブもオフシーズンに入っていた。僕は規律の正しい生活を続けながら、頭を内省的なモードに切り替えていった。留学中に答えを出したいと思っていた将来の進路に関する悩みにも向き合った。具体的にいえば、就職なのか、大学院進学なのか、といった問いだ。情報をインプットすることよりも、内省的に考えることにフォーカスした。外部からいろいろなものを取り入れすぎると、また前のように頭の中が洪水のようになってしまうとわかっていたからだ。自分はどういう人間で、何がしたいのか。頭の中でひたすら考え続ける経験はむしろ新鮮で、じわじわと浸透していくような驚きに満ちていた。ある日の朝考えていたことを次の日の朝に疑い、さらに次の日の朝には別の考えを持っていた。そんなことが日々続いた。夜は部屋の明かりをすべて落としてキャンドルを灯し、ギターを爪弾いた。向上心はまったくなかったから、最初に覚えたエド・シーランの「Thinking out loud」と「Perfect」を永遠に弾いていた。さすがにちょっとチルかった。
僕の生活の規律を何よりも保つ役割を持っていたのは、ランニングだった。サッカークラブがオフシーズンに入ってからも、毎朝と毎夕のランニングはほぼ欠かさず続けていた。気温が下がってからも、ランニングのときに着ていく服装は変わらないままだった。半袖のトレーニングシャツに、薄手の長袖のジャージ。12月の半ば、1週間ほど凍えるような寒さが続いた時期があった。最低気温はマイナス15度を下回り、最高気温も氷点下だった。でも不思議と、同じ格好でランニングに出ても身体にまったく問題は感じなかった。むしろ気温が下がれば下がるほど、凍えて時間が止まったみたいになっている街と、僕の内面の静けさが共振するような気がして、心地が良かった。そんな朝のランニングは、いつにも増して思考回路がくっきりとしていて、考えが進んだ。ランニングを終えたあと近くの公園のハンモックみたいなブランコでしばらく物思いにふけるのが日課だった。
ボタニカルガーデンにも触れておくべきだろう。寮から歩いて10分くらいのところにあったボタニカルガーデンは、僕がルンドで最も頻繁に訪れた場所だ。毎朝そこまでランニングして、ボタニカルガーデンの中を歩きながら目を覚ますのが僕の日課だった。だいたいどんな気分のときも、何が起こったときもそこに行っていたから、必然ボタニカルガーデンは僕の留学を象徴する場所になった。僕の様々な思いが詰まった、大切な場所だ。
僕の内省モードは年末の「オーロラ旅行」で頂点に達した。オーロラを見にいくことは、北欧に留学することが決まったときから僕の中で決めていたことだった。結局一緒に行く人が見つからなくて一人旅になったのだけれど、それで本当に良かったと思う。自分で一から百まで旅程を全部計画した、自分のためだけの旅行だった。1週間ほどの旅。目的地はノルウェーの北のほうにある「ロフォテーン諸島」に決めた。『アナと雪の女王』のインスピレーションとなった地ということだった。年末のその地域は極夜の時期、つまり1日中太陽がのぼらない時期にあたっていた。それも僕の求めていることだった。内面の闇に目を凝らそうとするときは、光は少ない方が良いのだ。
この旅行について語り始めるとそれだけで1つの記事になってしまうので詳細は省くけれど、それは最高の旅だった。丸1日をかけてひたすら北へ向かう列車の中で、僕は今までとこれからの人生についていろいろなことを考え、記し、じっくりと本を読んだ。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の短編集や、ストア派の大家セネカの記した『生の短さについて』が旅の共だった。ちなみに、旅のインスピレーションは僕の大好きな本でもある村上春樹の『海辺のカフカ』から一部得ていた。主人公の一人である少年が「世界の果て」を求めて旅をするその姿に、僕は自分を重ねていたのだ。
ちなみに、ランニングをしているときや電車や飛行機に乗っているときなど「移動をしているとき」に思考が進みやすいというのは新たな発見だった。その理由について考えるのもなかなか面白そうだけれど、本筋から逸れること請け合いなので割愛する。
ロフォテーン諸島は、列車の終点で一泊してからさらにバスで数時間西に向かったところにあった。諸島の間をうねるように続く一本道をひた走るバスの車窓から見える景色は、言葉を失うほどの美しさだった。波一つ立たない凪の入江と、そのすぐ向こうに迫る小さいけれど険しい雪山を伴った小島の数々。バスがカーブを曲がるごとに、同じようだけれどまったく新しい景色が姿を現した。
きちんとした一人旅は日本で富士山に登って以来人生で2回目だけれど、とても楽しかった。宿や現地で出会った人たちと語り合ったり、一緒にサウナに入って極寒の海に飛び込んだりするのはこの上ない体験だった。
オーロラはロフォテーン滞在の最終日にようやく現れてくれた。おそらく今回は見られないだろう、きっとオーロラを見るには若すぎたということだ、と自分をどうにか納得させていたときのことだったから、余計に嬉しかった。オーロラを求めて夜の町を上を向きながら彷徨い歩いていたときは一筋たりとも見えなかったのに、半ば諦めたときに不意に現れてくれるのだから、面白いものだ。求めるものは、求めるときに、求めるかたちではやってこない。オーロラはそこまで強いものではなくて、揺らめく白い雲、のように見えなくもなかったけど、紛れもなくオーロラだった。いちど、地平線から伸びてきた2本の帯が僕の真上で円を描き、さぁっと降りかかるように動いて儚く消えていった。腰が抜けるかと思うほど綺麗だった。
オーロラを見たら死んでもいいかも、と思っていたくらいだったが、オーロラを見たくらいでは人生は簡単に終わらなかった。確かにあの旅行が僕の内面的なものに与えた影響はあったと思うけれど、短期的に目に見えてわかりやすいような変化はなく、僕は日常生活に戻った。皆に訪れるのと同じように、僕にも2022年の暮れはやってきて、2023年が始まった。年末年始はストックホルムで過ごしていた。留学当初に仲良くなった子たちのグループの一部と、日本人の友達とで旅行に行っていたのだ。ストックホルムの夜景と街のあらゆる場所から打ちあがる花火を眺めて迎える年越しも悪くなかった。一緒に旅行をした子たちの多くは1学期のみの留学だったので、この旅行をもって彼らとはお別れ。僕の留学生活も一区切りを迎えた。
僕の留学生活における大きな転機は、その直後に訪れた。もともと冬休みの最後は友人と南欧に旅行に行く予定があったが、その旅行が直前にキャンセルとなってしまい、僕はまた新たな一人旅を計画することにした。せっかくだったら友人とはなかなか行かない場所に行きたい、と思いながら安いフライトを調べるなどして出発3日前に決めた行き先が、イスラエルとパレスチナだった。もちろん治安などは良い印象がまったくなかったので最初は半信半疑だったが、観光も可能な場所であると知って俄然楽しみになった。また、せっかく行くのであれば現地の紛争の現状などもしっかり目に焼き付けておきたい、と思った。
比較的軽いモチベーションで行ったが、そこで得た経験はあまりにも強烈なものだった。ルンドの街で10ヶ月をかけて僕に起こった変化が、悠久のときを経て徐々に形成されていったアルプス山脈のようなものだとしたら、イスラエルやパレスチナの経験が僕に起こした変化は、一昼夜にしてポンペイの街が火砕流と火山灰の下に埋れてしまったときのようなものだった。特にパレスチナでの具体的な経験については、別の記事で連載の形で非常に詳しく書いたので、よろしければそちらもお読みいただきたい。
その体験はいろいろな意味で僕に変化をもたらした。まず、内省的な時期を経て落ち着いていた精神が再びざわめき出した。まさに休火山が再び活動を始めたといった調子だった。これについては、落ち着いていて余裕のある精神状態で行ったからパレスチナでの経験をなんとか受け止められたのだろうと思うので、ある意味ではラッキーだったと言えるかもしれない。 それでも、このときに端を発する不調はその後の留学生活を通じて続いた。
そして、僕の将来の進路に対する考えにもその体験は強く影響している。特にルンドに帰郷した直後は、何をしているときもそのときの体験やそこで人々が言っていたことが頭から離れなかった。ルンドの街でのうのうと暮らしている自分を呪いたくなったりもした。そのような時期が過ぎて少し精神状態が落ち着いてからは、パレスチナの体験を客観的に捉えて、自分がそれに対してどういうスタンスを取りたいのか建設的に考えるようになった。アクティビストでありたいのか、アカデミアで学びを深めたいのか、など。もちろんそういったことを考えるにあたっては、内省的な時期の僕が考えていたことが強く影響を与えた。その意味では思考と実践のバランスは取れていたらしい。
2学期目に入って、コリドーの様子には変化が生まれていた。静かだった何人かの人が去り、活動的な人たちが代わりに入ってきた。そのような人たちに影響されて、最初の学期からいた人たちの何人かも活動的な人たちのグループに入り、頻繁に話したりイベントが開かれたりするようになった。僕もその一人だった。キッチンは、コリドーメイトたちが(大抵の場合は偶然に)会って仲を深める場所になった。僕の部屋はキッチンのすぐ隣だったから、コリドーメイトたちの話し声や笑い声がよく聞こえてきた。特にはじめのうち、それは少しストレスの種になった。単に話し声がうるさかったとかそういうわけではなく、部屋に一人でいて他のコリドーメイトが楽しそうに話しているのが聞こえるとなんとなく仲間外れになったように感じてしまうのだ。あるいは、その仲間に加わればいいのに部屋から出ようとしない僕の臆病さを糾弾されているように感じてしまうのだ。別にそこまで闇が深い感情ではなく、留学生であればありがちな悩みだったとは思うが、いずれにせよ僕にとってはむしろそういうコリドーの方が少々ストレスを感じたりもしたのだ。
とはいえ、新しいコリドーメイトたちはとても優しく、思慮深く、良い人たちだった。英語で話すということには依然として抵抗を感じていたので多少気後れはしつつであったが、僕と彼らも少しずつ打ち解けていった。
英語といえば、英語力にうれしい変化を感じたのもこの時期だった。留学生活の前半は、レポートや試験、日頃のリーディングなどをこなす中でリーディング力とライティング力は一定上がったなと感じていたが、肝心のリスニングとスピーキングはこれといって上達した気がしていなかった。まあこんなもんかと思いつつ密かに残念に思っていたが、年末年始ごろから急にスピーキング力が向上した実感を持てるようになった。はっきりした理由はわからないが、それまでの積み重ねに加え、この時期に旅行でたくさん英語を使い、逆に日本語から遠ざかったことは原因としてあり得そうである。もちろん他の英語が流暢な非ネイティブの人たちに比べればまだまだ道のりは遠いが、英語力の向上は留学の大きな目的の一つでもあったので、少しずつ総合的な英語力も向上した実感が持てたのはよかった。年末年始以降も、英語力は停滞期を挟みながらも、伸びたと思える瞬間が何度かやってきた。だんだん授業などで英語を使って意見を表明することに抵抗がなくなったり、出来事を説明したり自分の意見を表明したりするのに比較的長い英語の文章を即興で喋ることができるようになったりもした。完璧には程遠いけれど、良い兆候だと思う。
この頃に、印象深い一冊に出会った。アルベール・カミュ著『シーシュポスの神話』。タイトルにもなっているギリシャ神話に寓して、カミュが己の根本思想である「不条理の哲学」を徹底的に語り尽くすという本だ。カミュにとっての「不条理」とは、簡単にいえば、人間の生に意味などないという事実と、それでも人間は生に意味を求めることをやめられないという欲求の絶え間ない衝突がもたらす絶望だ。こんなことを考え詰めるとなんだか病んでしまいそうだが、カミュのすごいところは、その命題に対する徹底的な思考の結果として読者に勇気を与える結論を導き出したことである。すなわち彼は、そのような絶望の中を生き続けることにこそ人間の生の本質があり、美しさがあると力強く結論づけたのである。カミュの主張をすべて理解できたとは思わないけれど、僕はこの本をとても気に入った。それは一つには、内省的な冬を経て自分なりにたどり着いた結論と、カミュの展開する「不条理の哲学」に、相通じる点があったからだと思う。そしてカミュは、僕が自分の力ではたどり着けなかったさらに先の結論まで、見事に言語化し、僕を導いてくれた。「人生は無意味だ。だからこそ美しい。」この圧倒的な力強さを持つメッセージを忘れたくないと思った。
留学期間を通じて、読書は他にも僕にさまざまなインスピレーションを与えてくれた。数を読むよりも、古典と呼ばれるような名著に一冊一冊じっくり向き合うことを意識した。ヘッセ、カミュ、ハイデガー、村上春樹、宮沢賢治、岡本太郎らの語ったことが僕の中でリンクし、僕のものの見方や考え方にダイレクトな変化をもたらしていく過程はなかなか興味深く、豊かに感じられた。まだまだ未熟だけれど、読書というものの奥深さに少し気づけた気がした。
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