見出し画像

「クルイサキ」#22


前回までのあらすじ
さくらと織田は10年後の再会の約束をしていた。しかし、その約束をした直後に織田は他界する。10年後叶わない約束の場所で、さくらは織田に渡した自作の小説を持つ亮太と出会う。亮太は10年前までの記憶を失っていて、その小説を持っていたことも覚えていないらしい。
さくらは亮太がなぜ自作の小説を持っているのか、亮太の過去を調べるのを手助けする。

 

さくら 14
 
 待ち合わせ場所の『とんちんかん』という店は、その名の想像した通り居酒屋であった。
 店内はカウンター席が十席ほどあり、壁際にボックス席が四つあるくらいで、手狭な印象をさくらは受けた。オリエンタルな雰囲気に店内はシックな色調で統一されていて、隠れ家的な印象を受ける。店員にボックス席に案内してもらい、メニューを見た。そこで確信した。飲み放題が千五百円で生ビールを三杯飲むのであればコースにしたほうがお得ということが大きく演出してある。本日のおすすめは『昔ながらのハムカツ』で、メニューを見るとかなり油っぽい。もはや疑いようがない、この店に来る人々はアルコールを欲している人ばかりで、決してコーヒーを飲みながら、素敵な時間を過ごす場ではなかった。
 昨日、千絵から教わった井口の番号に連絡を入れ、会う約束を取りつけた。亮太の名前を出し、当時のことを聞きたいと伝えたところ、井口は了承し、待ち合わせ場所を指定してきた『とんちんかん』という、威勢の良いその店の名前に違和感を覚えながら、到着した店はさくらの予想通りの居酒屋で、これから会う相手を不安に思った。彼はただ昔話を肴に飲もうとしているだけではないのだろうか。
 店員がオーダーを聞きに来た。先に飲み放題にするのかと尋ねられた。店内の醸し出す雰囲気から飲みたい気分が高まっていたが、これから少々込み入った話になると思い我慢してウーロン茶を頼んだ。もちろん飲み放題にはしなかった。店員は少し不思議がった表情を浮かべ「喜んで」と、引き上げていき、程なく、それは届けられた。
 まだ夕方の六時前で店内に客はさくらだけだった。平日のこの時間では客はまだ来ないかと思っているところに、店内に二人連れのサラリーマンがネクタイを緩めながら入って来てカウンター席に座った。彼らは注文してすぐに出された生ビールを一気に飲み干し、その日に溜め込んだストレスを一気に吐き出すように、うまいと声を弾ませた。さくらはウーロン茶で沸き起こった生ビールへの欲求をごまかし、グラスを一気に空けた。
 ドリンクのメニューを確認しているところに「いらっしゃいませ」と何人もの店員の声がやまびこのように繰り返し響いた。さくらは背後にある入口を振り返った。
 入ってくる男は首すじにタオルを巻き、速乾性の高いランニングシャツ、ハーフパンツに蛍光色の黄色のランニングシューズという出で立ちであった。顔いっぱいに汗をかき、タオルでそれをぬぐいながら迷った様子もなく、さくらの向かいの席に腰を下ろした。
「君が電話で約束した田畑さんですね」と言った。確認せずにこの場所に座ったのかと、さくらは思った。
 彼は万歩計を出して歩数を確認した。一万歩歩いたから三百五十キロカロリーは消費したぞ、とさくらに自慢げに報告する。店員がオーダーに来ると迷わず生ビールを頼んだ。やはり飲み放題にした。
 そして料理も何品か頼んだ。すでに井口が先ほど申告した消費カロリー分よりは頼んでいる。
「ウォーキングですか」とさくらは尋ねると、井口はその質問を待ち構えていたかのように、誇らしげな表情になり、咳払いして、のどを整える。
「ウォーキングは脳にいいですよ。前頭葉が活性化され認知症の予防になります。あとダイエットにもなりますからね」とお腹をさすってみせた。だが残念ながらそのお腹は出会って数分のさくらにもビール腹だろと確信できるぐらいに膨れていた。
 井口にビールは届けられ、美味しそうにグラスに口をつける。
「亮太はまだですか」
井口は視線を巡らし、さくらに尋ねた。昨日の電話のときには亮太が来ないとは伝えていない。井口は亮太が来るものだと思っていたのだろう。
「申し訳ございません。どうやら体調が優れないみたいで今日は来られなくなってしまいました」さくらは亮太が来る予定だったということにした。そうすることで亮太が井口に会うという意志はあるということになり、井口に妙な勘ぐりをされないで済む。
「体調が悪いってもしかしてあの事故の後遺症でしょうか」心配そうに井口は尋ねる。
「いえ、決してそんなわけではないです。本当に体調が悪くなってしまって。どうやら久しぶりに遠出をしたら体を悪くしたみたいで。井口先生は事故のことはご存じですか」
 亮太が事故に遭い記憶をなくしたのは、小学校の卒業式の日だった。おそらくは井口の元にもすぐに連絡は入っただろう。井口はその日のことを思い出したのか、ずっと手放さなかったジョッキを静かに置き、まるでそのときに味わった悲しみの記憶を逃がすかのように、薄いため息を吐いた。
「亮太の事故の知らせを聞いたときはショックでした。まさか卒業式の帰りに事故に遭ってしまうなんて。意識不明と聞いて、すぐに亮太の入院する病院に駆けつけました。手術が終了しても意識が戻らず、その日、亮太に会えずに家に戻りました。それから何日しても亮太の意識は回復せず、私が病院に行っても亮太に会うことはできませんでした。そしてある日亮太のお母さんに言われました。意識が戻ってから連絡するのでそれまでは来なくていい、亮太が話せるようになったら来てください、と。それから数週間ほど過ぎたころでしょうか。亮太のお母さんから連絡がありました。亮太の意識が戻ったと聞き、私は胸を撫で下ろしました。しかしそのあと、事故の後遺症で記憶が戻っていないことを知らされました」
 そのときのことを思い出したのか、井口は望みを絶たれたかのように肩を落とした。目に力がなくなり、うつむき加減で話しをつづける。
「見舞いに伺ってもいいかと尋ねると、亮太のお母さんにやんわりと断られました。記憶が戻るまでは誰にも会わせたくないということでした。面会に来る人たちを思い出せなくて困る様子の亮太を見るのがつらいということでした。亮太のお母さんは亮太が意識を戻し話し掛けたとき、亮太が怪訝そうな表情を浮かべ、まるで亮太から自分の存在を否定されたように感じたと言っていました」
 亮太が生まれてから千絵の生活は母親という立場になり一変したはずだ。そうして亮太とそのときまで共に過ごした時間が、亮太が記憶を失ってしまい、一瞬で崩壊したかのような気持ちになったのだろう。それが本人にとってどれほどの苦痛だったのか、まだその立場になっていないさくらには想像もつかない。
「それから記憶が回復したという知らせをずっと待っていました。春休みが終わっても連絡がないので亮太の入院していた病院に問い合わせると、すでに退院したということでした。結局、事故以前の記憶は戻らなかったと聞きました。引っ越し先を尋ねても、教えてはくれませんでした」
 おそらく母親から病院に頼まれたのだろう、あの親子はまるで身を隠すかのように、ひっそりと引っ越しを行っている。
「この十年、亮太に会うことはできませんでしたし、手紙も送りませんでした。それは亮太の居所がわからないからだと、心のなかでしょうがないことなのだと決めつけていました。しかし、あなたが私に会いに来た。そして亮太もまだよみがえらない記憶を取り戻そうと行動を起こしている。それを聞いたとき、私は甘えていたことに気づきました。本当に亮太のことを気にしていたのなら、どんな手を使ってでも亮太の居所を調べるべきだった。行動を起こすべきたった。この十年のあいだ自分は当時の亮太の担任としてなにをしていたのだろうと後悔しています」  
 井口の言葉がさくらの胸に響いた。それは偽りのない後悔で、彼がずっと溜め込んでいた正直な思いだったからこそ、さくらの元へ何物にも妨げられることもなく届けられた。十年という長い時間、彼の体内に留まっていた気持ちは、さくらが味わうには少し熟していて、涙腺を少々刺激した。
「あなたから電話があったときは待ちわびていた瞬間がついに来たのだと喜びました。そして亮太に会えるのを楽しみにしていた。もしも亮太が私のことを忘れてしまっていたとしても全然気にならない。ただ亮太に会って謝罪したかった。申し訳ない」
 頭を下げた井口にさくらは言葉を返すことがしばらくのあいだできなかった。彼の謝罪の対象ではさくらは違っていたし、年配のまっすぐな謝罪を初めて目の前にした戸惑いもあった。こんな状況には慣れていないし、ましてや大人の対応の術をさくらは持ち合わせてはいない。井口との間の空間には、わずにしか酸素が残されていないのだろうかと感じるくらいに、息苦しい時間がつづいた。
 井口が頭を上げると、無音の時間は終わった。なにか晴れ晴れとした表情を彼は浮かべていた。ジョッキを重ねる音や入り乱れる話し声、店員の挨拶、それらの周囲の喧騒がさくらの耳に脈絡なく届き、そういえば居酒屋にいるのだったと気づかされた。井口は残り半分くらいになっていたジョッキを手にして一気に飲み干した。長いあいだの禁酒をたったいま解いたかのように、解放感に包まれた表情をしていた。それがすごく美味しそうに見えて追加のビールを頼む井口に、さくらも便乗してビールを注文した。
 すぐに運ばれてきたビールを、井口とグラスを重ね、飲んだ。なにか喉につまっていた物体が流されたかのような感覚がした。
「まだしばらく彼はここに滞在するので、体調が戻ったら二人で伺いますね」
「ぜひ、そうしてくれ。三人で飲もうじゃないか」
 そう言ってすごくうれしそうにビールを飲む井口を見て、さくらもうれしくなった。そして亮太はお酒を飲めるのだろうかと思った。 
「今日は亮太の小学校時代のことを話せばいいんだったね。これでもウォーキングをしているから記憶力はいい方だ。しっかりと記憶しているよ」と言って、井口は亮太の小学生時代のことを話しはじめた。
「私が受け持ったのは五年と六年の二年間です。五年のクラスがそのまま繰り上がりました。そのときのクラスは私にとって、自慢のクラスであり、また心優しい生徒ばかりでした」
 彼の頭のなかでそのときの場面が思い起こされたのか、井口の顔つきが変わる。さくらへの口調も変化し、それは教師に戻ったかのように、仕事をしている緊張感をまとった男の顔に見えた。ただ手にはジョッキを持ってはいるが。
「もちろん亮太も優しい生徒でした。飼育委員に入っていて、夏休み中も、動物たちの世話をしに学校に来ていました。私は彼が暑い小屋で汗を流しながら掃除している姿をいまでも思い出します」
 亮太の話を聞くのに、なぜか恥ずかしい気持ちが湧き上がった。身内が社会生活を行っているのをふいに見たときに感じる違和感と似ていた。
「授業態度はいたって真面目で、どの教科でも興味を持って授業に耳を傾けていました。したがって成績も優秀でした」
 勉強で得られた記憶は、亮太が記憶を失ったときにも同時に損失したのだろうか。さくらは疑問を感じた。
「彼は子供らしくはめを外したりすることがなく、常に落ち着いて行動するタイプでした。体育でサッカーをしても、みんながボールに集まるなか、自群のゴール前で守備をしていました。決して運動神経は悪くなく、ボールが来ればドリブルしてゴールも決めていました。自分の出番をわきまえ、きっちりと仕事をする。おかしな言い方ですが職人気質の子供だったと記憶しています」
 それからも井口は亮太の小学生のエピソードを語っていった。
 それらをさくらはすべてノートにメモをする。どれが亮太の記憶を刺激し、記憶をよみがえさせるきっかけになるかわからない。
 それからも井口は亮太のことを語った。あらかじめ準備していたのだろうか、亮太のことを語る井口は能弁で、昨日のことのように淀みなく話す。やはりウォーキングは脳に良いのだろう。ただこのまま井口のペースに合わせていると、いじめのことに触れないままで終わってしまう。井口がひとしきり亮太の小学生時代の話を終えると、さくらは口を開いた。
「亮太さんの様子がおかしかったときはなかったですか」
 井口は目を閉じてしばらく考える仕草を見せたあと、特に思い当たらないと答えた。
「卒業する直前あたりの時期ですが」
「事故が起きる前ですね」
「いじめはなかったですか」と、単刀直入にさくらは尋ねた。その瞬間、井口は虚を突かれた表情をし、さくらに険しい視線を送った。
「そんなことは決してない」と、少し逡巡したあと、井口は言い切った。
「実はいじめがあった形跡があります」
 さくらは亮太から預かってきた卒業アルバムを井口に渡した。それを彼は広げ、目で追っていく。徐々に険しい顔つきになり、湧き上がってきた怒りを押し込むように、重厚な表紙をパシリと閉じる。  
「信じられない。まさかあのクラスに限ってそんなことがあったなんて……」 
 井口はすっかり落胆してしまっている。
「たしかにこのアルバムを見るとひどい落書きがされています。そこから亮太がいじめを受けていたということが推測されます。ただ、私は受け持った担任としてあのクラスでそんなことはなかったと断言できます。私も長いあいだ教師をやってきました。たしかにいじめがあったクラスもありました。しかし、当時のあのクラスはそんな陰険な行動を起こす生徒は誰ひとりいなかった。ましてや、亮太はいじめを受けるような子ではなく、当時のクラスの雰囲気からもそんな様子はまったく受けなかった」
 井口は納得できないことをアピールするように、頭を数回振った。
「もしも、いじめを受けていたと亮太が、あなたが思っているのなら、当時の亮太の友達に話を聞くといいでしょう。亮太と仲良かったと思う子を何人か教えますよ」
 井口は先ほど手渡した卒業アルバムを再び広げた。彼の表情が険しくなる。自分の受け持ったクラスの邪悪な部分に触れるのが苦痛なのだろう。
 それから井口は亮太のクラスの顔写真が並べられているページをさくらに見せながら「山倉健二と清田さやかの二人は当時のクラス委員長と副委員長です。特に山倉健二は亮太と仲が良かった。二人は同窓会の幹事もやっているから連絡先はすぐにわかります」
 井口はその二人にさくらのことを伝え、会う約束も取りつけてくれるという。 
 次の段取りもつき、さくらは広げていたノートを閉じる。気がつけばテーブルは料理でいっぱいになっていた。店内の時計を確認すると時間は一時間ほど経過していた。さくらに釣られるように、時計を見た井口は「このままでは元が取れないからペースを上げていきましょう」と、二時間に設定されている飲み放題を気にして、自らを鼓舞した。
 さくらもビールを頼んでいたが、とてもアルコールを飲む雰囲気ではなくなっていたので、ほとんど口をつけていなかった。ただ飲み放題にしていないので「私は飲み放題じゃありませんからゆっくりと飲みますよ」と言った。すると井口は視線を宙に浮かべ、首を傾げる素振りを見せた。
「いや、先ほどビールを頼んだとき店員にお連れ様も飲み放題にするかと訊かれたので、もちろんと、答えてしまいました」
 井口は舌を出し照れてみせる。その仕草はまったく似合っていなかった。
やはり井口は昔話を肴に飲みたかっただけなのだ。よし、付き合ってやろうとさくらは決心し、ジョッキに残っていたビールを一気に飲み干した。
 
 それから井口と飲み放題を一時間延長してまで一緒に飲み、店内を出た。すっかり陽は沈んでいる。それでも立ち並ぶ店の明かりが夜空の存在を無視するかのように、煌々と人工的に辺りを照らす。
 井口は最後の方には記憶力がいいと何度も言い、そのたびにその自慢を何度も自分の口から否定する形になっていた。なかなか楽しい人だったと思い出して、なんだか楽しい気分になる。酔いが回った独特の浮遊感も悪くない。
 さくらはまるで自分のために導かられているかのようにつづく明るい道をおぼつかない足取りで、体を右に左にと傾かせながら進んでいると、背後から異様な殺気を感じた。振り返ると、視界の片隅で光が遮った。その光は明るい周囲でも異質に感じ、反射的にその光を追い掛ける。歩道の隅の植え込みからざわざわと音が聞こえた。いまはもうその光りは見つけることができない。さくらは気味悪く感じながら、音がした植え込みを注視する。
 その植え込みの枝が揺れている。近づいて行き植え込みを覗くと、小動物が通った形跡があった。猫がいたのだろうと見当をつけるが、それにしてもあの殺気はなんだったのだろうと首をひねる。
 あの光は禍々しさに満ちていた。視界が歪み、二つの光の玉が視界のなかでさまよっていたように見えた。なにか不吉な感覚を覚える。それとも急にお酒のペースを上げたせいで、深く酔っぱらってしまったのだろうか。
 しばらくのあいだ、さくらはその場で足を止めていた。ようやく植え込みから視線を外し、頭を振る。結局、お酒のせいだとして気味悪さを無理に追いやり、飲みすぎたと自分を戒め、さくらは家路を急いだ。


#23へつづく

「クルイサキ」#23

「クルイサキ」#1 序章 花便り
「クルイサキ」#2 一章 花嵐
「クルイサキ」#16 二章 休眠打破


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?