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「クルイサキ」#27

千絵 4

 さくらと別れたあと、そのまま千絵は公園に居残り、ベンチに座っていた。すでに公園には千絵しかいない。
 さくらに伝えたことで、亮太との関係は消滅してしまうだろう。そう思うと生きる希望も見失い、気力が一斉に消え失せた。暮れていく景色が、まるで自分のリミットを知らせているかのようだ。いまはまだわずかに残っている光は、ただ亮太がもたらした残光で、それももうすぐになくなり、千絵の心は程なく闇に支配されてしまうのだろう。その予兆に千絵は恐ろしくなり、体の震えが止まらない。
 できれば亮太に虐待のことは知られたくなかった。亮太はそれを知ったとき、失っていた記憶を思い出してしまわないだろうか。幼き体に暴行を受け、小さき体に痣ができ、体中の痛みにどうしようもなく苦しんでいた辛い過去が、虐待の事実を伝えられたことで、そのときの記憶がよみがえってしまわないだろうか。
 千絵は虐待のことは亮太には知られてはならないと思っていた。だけどさくらを前にし、さくらが亮太のためにしていることを否定するわけにもいかなかった。刃物を純粋な彼女の前に出すことは、無垢な子供に、両親の不仲を知られてしまうかのようで、決して交わってはならないものだと思った。
 鞄のなかには、使うことのなかったナイフと共に十年前にさくらが書いた小説がある。亮太に渡す前に千絵がコピーをしたものだ。
 千絵はそれを何気なくめくる。十年前に千絵が決意したときのことがよみがえってくる感覚がした。あのとき、千絵は記憶がよみがえらない亮太をどうやって守ればいいのか思い悩んでいた。十年の月日が過ぎても、あのときに下した決断が正しかったかどうかもまだわからない。
 思えばさくらと出会ったことも、この小説のおかげなのだ。最後のページに残されていた再会の約束を知った千絵が、亮太とこの作者との関係を知るために亮太に渡した。過去の亮太を知る者との面会は亮太の記憶を呼び起こさせる可能性があったが、いざ二人が出会うと、作者であるさくらは亮太のことは知らず、その心配は杞憂に終わった。
 ただ、いまの亮太に必要なのは千絵ではなくさくらなのは確かだ。過去の虐待を亮太に知られてしまえば、千絵は亮太に会う資格はない。ましてや母親なのだと主張することもできない。亮太が記憶をなくしてしまった原因を作り出したのは千絵であり、しかも記憶を失ったことをいいことに、過去を隠蔽しようとしたのだから。
 亮太はきっと千絵のことを恨む。決して許しはしないだろう。虐待をし、自分を自殺まで追い込み、そして記憶を失わせたのが千絵だと伝えられれば、千絵にはどんな言い訳もできない。しかも十年もの長い時間、嘘をつきつづけていた。
 千絵は亮太を裏切り、彼から憎悪されているということを認識しながらこれから生きていかなくてはならない。そこまでして生きる価値がこの世界にまだあるのだろうか。
 さくらの小説を裏返し、空白の真っ白なページを千絵はしばらく見つめた。十年前に書かれた再会の約束のつづきは亮太とさくら、二人のこれからだ。千絵はペンを取り、二人の空白(つづき)を少しだけ汚す。
 亮太が成長していく過程に一緒にいれたことが、これまで千絵の生きる力となり希望であった。日に日に大人に近づいていく亮太の姿に、亮太の父親の姿も重ねた。千絵が生きてきた証はたしかに亮太の成長であった。
 そして亮太は大人になった。
 記憶がなくても、父親がいなくても、亮太は大した問題を起こすこともなく、心優しい人間になってくれたと思う。千絵はそのことを誇りに感じている。
 あの人の約束をしっかりと果たせたと、思う。
いまは会えないその人に、いま会えたとしたらどんな言葉を千絵に掛けてくれるだろう。少しくらいは褒めてくれるだろうか。
 いなくなる前に約束したことを、千絵はこの十年間忘れなかった。もはや破綻しかけているのかもしれないけれど、最後の砦だけは破られないよう、策は講じてきた。すべてはあのときの約束を守るためだ。
 そして、あのときの約束を果たせたとしたら、もう千絵は生きる必要はないのではないか。この世界に留まる理由はすでに失われてしまっている。
 これから亮太を残して消えてしまうとしても、亮太はきっとさくらから伝えられた亮太にとっての過去と向き合い、強く生きてくれると信じている。まだまだ亮太は若く、可能性は限りなくある。これからは疑うことのない、偽りのない記憶を残していけばいい。
 ただこれからの亮太の人生に自分はいない。それだけだ。
 ベンチの後ろの植え込みからガサガサと音がした。振り返ると一匹の猫がいた。
 猫はベンチの下を潜り、千絵の足元に来た。野良猫であろう身なりが不恰好で首輪もつけていない。鋭い眼光を向け、千絵は敵意を感じ取った。
自分と同じで誰にも必要とされていない、猫のやさぐれたい気持ちがいまの千絵には痛いほどわかる。
 猫の視線が千絵の瞳を捉えて離れない。千絵は視界が歪んでいくのを感じた。猫の瞳を中心に渦を巻いているようにして、頭が回り出す。
 一体自分の身に何が起きているのだろうか。気がどんどんと遠くなっていく。
 これは亮太を騙してきた報いなのだろうか。それとも千絵の役目が果たされたことで、もう生きる意味をなくした千絵に迎えがきたのだろうか。失いつつある意識で、できれば後者であってほしいと願った。そうならばこんな千絵にだって生まれてきた意味があったのだ。亮太を守るというために自分は生まれてきた。あの人との約束を果たせたのだ。
 十年前、目を覚ましたときの亮太の瞳を思い出した。亮太の瞳は生まれたての赤ん坊のように汚れていなかった。あのとき千絵はその瞳に自分が映ってもいいのかと疑問を感じた。
 あれから十年間、亮太に嘘をつづけた。だけど千絵は後悔をしていない。達成感さえある。千絵は誇りを纏いながら、直前まできている無の世界の訪れに備えた。
 ついには視界が暗転し、そして頭がひっくり返った。


#28へつづく

「クルイサキ」#28

「クルイサキ」#1 序章 花便り

「クルイサキ」#2 一章 花嵐

「クルイサキ」#16 二章 休眠打破

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