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「クルイサキ」#25

千絵 3

 千絵は体の震えを抑えることができないでいる。
 さくらの生の力を目の前にし、千絵は圧倒されていた。太陽の光を浴びて、動かない植物が生命力を醸し出すように、さくらは立ち止まってはいるが千絵の目を離さずに、充分すぎるほど瞳の奥に秘められている生命力を千絵に訴えている。
 死を意識している千絵には、さくらの身に纏うその力を敏感に感じ取ることができた。
 千絵だけにしか感じられていないのかもしれないが、対面する二人の間には交わることが許されていないような、禁断の雰囲気が醸し出されている。彼女の明るさが千絵には眩しく、まるで自分のあくどい部分が周知にさらけ出されているようで、目眩を覚えるほどだ。
 彼女のその生きる力を目の前にし、千絵は迷いが芽生えていた。
 井口からクラスメイトをさくらに紹介したと聞いたとき、千絵は目の前が暗く感じた。まるで雨を降らせる雲が発生して、それがどんどんと大きくなっていき、光が遮られているような予感だった。
 このままでは、闇に支配されてしまう。千絵はもう一度自分に光が射し込むためにも行動に移すしかなかった。井口からさくらとクラスメイトが会う場所と時間を聞き出し、さくらを待ち伏せた。
 さくらがファミリーレストランを出てその後を追った。
 さくらを追い掛けているときは、すでに覚悟を決めていたはずだった。亮太を救うためには他に方法は残されていない。そう思っていた。
 鞄にはナイフを忍ばせてある。胸には決意が込められている。あとは決行するだけで、千絵の頭には何度も想像して鮮明になった映像が映し出されていた。
「千絵さん」
 千絵の存在を認めたさくらが近寄って来る。まだ千絵は震える体を制御できない。頭のなかが混乱しはじめ動揺を隠しきれず、ついにはナイフが入っている鞄を落としてしまった。
「どうかしました」いつの間にかさくらがすぐ側にいて鞄を拾い千絵に差し出した。千絵は素直に受け取ることができずに、彼女から一歩遠ざかる。自分の醜さが彼女の前だと際立ってしまう、そんな気持ちからか、反射的にさくらを遠ざけたくなった。
 なおもさくらが歩み寄って来る「様子がおかしいですよ」
「そう、ちょっと走ったら頭がくらくらして。普段運動しないと駄目ね」恐る恐るさくらに近づき鞄を受け取る。千絵はさくらと視線を合わせるのが怖くて、つい俯きがちになってしまう。
「大丈夫ですか?」とさくらは心配した様子で、覗き込むようにして千絵の顔色を窺った。さくらと視線が合い、彼女のまなざしが真っ直ぐに千絵の瞳に映し出された。
 純粋な彼女の瞳と合わさると、千絵の邪念や後ろめたさがすべて彼女は理解しているのではないかと感じた。超越した存在に彼女はいて、千絵の不義をすべて知っている。それでも彼女はまだ千絵を罰することはしない。
 鞄に入っているナイフを彼女に向けても、彼女はまだ千絵をその瞳で受け入れてくれるだろうか。千絵の勝手な都合だけのために彼女の生の源泉を汚していいのだろうか。千絵は神にでも問うかのように、心のなかにある正義に免罪を得ようとする。すべては亮太のためなのだ。亮太が千絵の心の正義であり、絶対的な指針でもある。
 覚悟はぶれてはいない。だけど、なぜ体が震えているというのだ。その手で鞄のチャックに手を触れるが、チャックを何度も掴み損ねてしまう。
 さくらの手が千絵の左肩に触れた。心配そうにさくらはなおも千絵の目を覗き込んでくる。千絵は自分の正義と、はたまた悪意の混沌としていた意志が、さくらの手のひらから伝わる熱で徐々に穏やかになっていき、さくらからの視線が千絵の偽りの正義を教え諭すかのように、心に侵入してくる感覚がした。
 亮太のためにさくらを止めるしかない。それができるのは自分だけだと思っていた。千絵はさくらにナイフを使い脅迫する。どうにか亮太の過去を調べるのを止めて欲しいと懇願する。それでもさくらが調査を継続するというのならば、もはや残されている道はひとつしかなかった。
 何度も想像してきた映像を頭で再生をする。痛みや恐怖の感情は、何度も繰り返し、イメージしたことで完全に取り払ったと思っていた。それがいざ現実にその場面が迫ってくると、巨大な恐怖が迫ってくる。ひとつの生命を途絶えさせることはやはり簡単なことではないのだ。それが亮太のためだと言い聞かせても、鮮明に頭のなかで映し出されていたはずの場面が、直前になってぼやけてしまっている。
 千絵は目を閉じ、その映像にしがみつくように意識を想像に集中させる。
 さくらに向けていたナイフを自分の体に向ける。さくらが千絵の願いを受け入れなかったからだ。刃先は千絵の胸を貫く。きっと自分の体から迸る鮮血に彼女はぞっとするだろう。自分の命は亮太のためだと思えば我慢できる。亮太に数奇な運命を背負わせてしまったのは千絵の責任だ。だからこの命は亮太のためにある。尽きそうな細胞を声に集中させて、さくらに伝える。どうかこれ以上亮太を苦しめないでほしい、と。そして千絵は膝から崩れ落ち、さくらの目の前で生涯を終える。何度も想像してきた。なのに、実際は体が震え、鞄を開けるのさえ手間取っている。
 肩が手で揺らされ、千絵は目を開けた。さくらが「大丈夫ですか」と何度も千絵に声を掛けている。千絵は「ごめんなさい」とようやくさくらに返事をした。
 さくらと視線を重ねると、千絵の波打っていた感情が、すっと引いていくような感覚がした。何度も想像していた場面が急に現実的ではないと思った。この純粋なさくらの瞳に禍々しい刃物を映し出すことがどうしても非現実的だった。千絵が想像していたことは、いまとなってはさくらの瞳のなかで浄化され、形を成さなくなった。
 狂っていた。千絵は自分が想像していた狂気の出鱈目さに愕然とした。なぜにそんな思考に行き着いてしまったのか。ナイフの光の魔力に狂わされたのだろうか。さくらの前で千絵は正気に戻らされ、ようやく彼女との間に人間同士の生きている時間が流れているように感じられた。
 心から戦意を排除すると、体の震えが止まった。さくらは千絵の肩から手を放す。千絵は後ずさり、さくらから適当な距離を置いた。
「さくらさんに伝えたいことがあったの」声は震えていない。千絵は正気を保っていると自分に言い聞かせる。
「わたしに」さくらは首をかしげ、目を大きく瞬かせた。その仕草があまりにも無邪気で、千絵はついさっきまで想像していた悪意に、底無しに自己嫌悪に陥ってしまう。


#26へつづく

「クルイサキ」#26

「クルイサキ」#1 序章 花便り
「クルイサキ」#2 一章 花嵐
「クルイサキ」#16 二章 休眠打破


 

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