「クルイサキ」#5
死神 2
今回のターゲットは特殊な能力を授かっていた。その能力は人間世界においては砂上の楼閣である。まったく、神様はヘマをやらかしちまったわけだ。
その特殊な能力とは、人間が愛情表現で用いる唇を重ねる行為で、死の運命を引き継がせることができるということだ。つまりその能力で、その人間は、宿命づけられた死から永遠に逃れられる可能性を秘めている。その地上に放たれた禁断の箱が開かれる前に、それを回収しなくてはならない。
死神は普段は魂のままでいて、肉体を持っていない。下の世界に降りて仕事をするときには、適当な生き物の肉体を拝借することになる。ターゲットとなる人間の近くで生活していて、肉体を奪っても支障がない生き物を探して、憑依をする。
そのため死神の任務を完遂するためには、最低二つの魂を消滅させなければいけなくなる。ターゲットになった魂と、その魂を操るための肉体を提供する魂とだ。ターゲットに催眠を掛けるときには、下の世界で暗躍する肉体が必要なのだ。
死神の仕事は、まず標的の身近にいる生き物の体に憑依し、そこから標的にアプローチをして、催眠状態に掛け、体を操作し、標的を肉体ごと死に送る。
わざわざそんなまわりくどいことはせずに、直接ターゲットとなる人間に憑依し、自害すればいいのではないかと思うかもしれない。しかし、死神にも避けることができない摂理がある。本来、魂だけの死神でもひとたび肉体を持てば、命を落とす危険が他の動物同様に発生してしまう。魂が憑依した肉体の命が絶たれれば、魂も共に消滅してしまい、もとの世界に戻ることができなくなる。肉体が死に追いやられる前に、離脱を終えていなければならない。死んでから離脱することは不可能で、そのまま死を迎えることになる。病気や事故、もしかして人間に殺されることだってあるかもしれない。肉体を持てば、死というまったく無の世界に導かれることだって有り得るのだ。
死に向かわせる死神にだって、死ぬことはいまだに理解できていない。
死神も肉体を持てば痛みを恐れ、死に怯える。死ぬことを想像すれば、訪れてくる切迫感に耐え切れなくなる。永遠の生の存在を知っているぶん、おそらく人間たちよりも何倍に生に執着している。
死とはなにか。無とはなんだ。永遠にそれがつづくのか。
想像すれば、その想像さえも許されていない世界に気づき、愕然とする。無を考えること自体が不可能で、心のなかで無の恐怖だけが巨大になっていく。
死の運命を授けられた、肉体を持つ生き物たち、こうやって下の世界で仮の肉体を借りて死に怯える魂、おそらくこれらの存在は、永遠の命を持つ神々が、自分の権力を顕示するための、欲を満たさせる犠牲でしか過ぎない。
有と無の狭間にはなにがあるのか。境界線で死を迎える者はその場でなにを見るのだろうか。神々の嘲笑か、はたまた有にしがみつく己の姿か。
その答えをいま知ろうとする者がいる。死神に狙われた憑依される生き物である。
憑依が完了すれば、本来の魂は抹殺される。罪悪感はもちろんある。
はじまりの作業のためだけに犠牲になる生き物は、肉体と魂が剥離され魂のみ消える。追い出される魂は経験のない死に、これまで慣れ親しんだ肉体を、侵入してきた魂をも道連れにしようとする。そこでもうひと押しする。
抵抗をみせながら、去り行く魂は断末魔の叫びを肉体に反響させて、死の概念を置き去りにし、消える。
憑依を完了し、名前のない猫になった。
新しく手に入れた肉体で今回のターゲットが通う学校へ向かった。その特殊の能力を持つ標的は日本の女子高校生だ。車の往来に気をつけながら、慎重に足を運ぶ。もしも不注意で車にでも轢かれてしまえば、死神のままで死を迎えてしまう。
死神の仕事をしながら神の住む上の世界を目指している。上の世界に行けば人間の世界で肉体を持つこともなくなり、死の運命から回避できる。
死神の他には、キューピットと呼ばれる人と人とを結びつける役割を担う者、カリスマと呼ばれる神の資質を表現し、人間たちを熱狂させる者たちなどがいる。彼等も人間の世界で任務を担っている。
もうひとつ上の世界へ行けば、もう仕事をするさいに肉体を持たないで済み、つまり死の運命からは逃れられ、永遠に魂は存在できるのだ。
そのためにはこの世界で死なないように気をつけて行動しなくてはならない。そして死神にはその死への能力の乱用を防ぐために掟がある。標的以外の人間を殺めてしまったら、憑依した肉体から戻れなくなるのだ。そうすれば肉体からは離れなくなってしまい死の運命からは逃れなくなる。
ターゲットが通う学校に到着してから、かなりの時間が経過していた。教室に忍び込むには猫の姿では目立ってしまうので、彼女が出てくるのを校庭で待つことにした。彼女の情報では部活動に入っていないのですぐに下校すると予想していた。
しかし下校時間が過ぎても彼女はまだ姿を見せない。すでに学校にいないのではないかと思いはじめた。学校を休んだということも考えられる。その可能性が皆無ではないことに、なぜもっとはやく気づかなかったのだろう。
校庭でスポーツする集団たちが帰り支度しはじめた。明日の登校時間までこの周辺で一日を過ごすことも考えはじめた頃に、校舎から彼女が姿を現した。
跳ねるように歩きながら、こちらに向かってくる。彼女の姿が大きくなっていく。猫の体の中央のあたりがズキズキと疼きだした。この痺れるような感覚は不慣れな肉体をさらに不安定にさせる。肉体がもたらしてきた、未知の現象だった。
その現象のあいだ、死神の任務の存在を忘れていた。死へ導かせる切迫した事情や、人間たちに対する嫌悪感や優越感、思いが軽いものから深いものまで、思惟していたもののすべてが、風にさらわれたかのように吹っ飛んでいった。変わって魂と肉体が再び剥離するかのような高揚感が沸き上がってくる。沸点に達すれば気を失い、肉体は主を落としてしまうのではないかと危惧するほどの強い気持ちだ。
肉体がわずらわしい。体を上手く操作できない。完全に憑依ができているはずなのに、何度も予想外の感覚が肉体を襲ってくる。
答えを探しても、意味を求めても、この現象の正しい説明ができない。この感情が理解できず、体全体がストレスを抱えている。
ただ、なぜだろう。彼女に生きてほしいと、無意識に思っていた。
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