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「クルイサキ」#23

千絵 2

 千絵が居酒屋『とんちんかん』に入ると、すでに井口の顔面は紅潮していた。入って正面にいた井口のテーブルには、何種類もの食べかけの料理が並べられていて、井口はジョッキを持ちながら、咀嚼をし、箸を宙で動かしながら次の料理の狙いを定めている。
 さっきまで込み入った話をしていたはずだ。それなのに彼は赤ら顔をしてすでにできあがっていた。千絵の都合の悪いことまで二人に話していないかと不安が一気に込み上げてきた。
 立ったままでいた千絵に店員が声を掛ける。それで井口は千絵の存在に気づき、罰が悪そうに、箸を置いた。
 井口の向かいの席についた千絵に、井口は千絵の機嫌を伺うような言い方で「飲み放題にしますか?」と訊いた。千絵はそれを無視して、さっそく本題を切り出す。
 実際に井口と顔を合わせて話すのは十年前まで遡る。
 亮太が病院に運ばれたあと、井口は何度も見舞いに来た。ただ、記憶喪失の亮太に井口を会わせるわけにはいかなかった。まだそのときは千絵は記憶の戻らない亮太にどうにかして真実を隠しきれないかと悩んでいたときで、亮太を井口に会わせることで、亮太の記憶に余計な刺激を与えたくなかった。
 そして退院の日が決まり、記憶を失っても少しだけ千絵との会話もできるようになり、千絵の心に芽生えていた考え、つまり亮太に過去を知らせず失った記憶はそのまま眠らせておこうと、そのことを実行しようと決断したころに、井口は再び亮太の見舞いに来た。千絵は病院に亮太に会い来た人は先に自分に知らせてほしいと伝えていた。記憶喪失になった亮太を混乱させたくないと理由を述べると了承してくれた。看護師から井口の面会を伝えられた千絵は亮太には内緒で、院内の喫茶店に井口を連れ出した。
 覚悟をすでに決めていた千絵は、そのときに自分勝手なお願いをした。そのためには井口に千絵のことも話す必要があったが、それよりも亮太の過去を隠したい気持ちが勝った。井口に自分の考えを伝え協力を依頼した。
 だけどいま思えば、もしかしたら千絵一人では抱えきれなかった重い荷物を誰かに手伝ってほしかっただけなのかもしれない。これから先、亮太に嘘をつきつづける後ろめたさを感じ生きていくことが怖かった。その覚悟がそのときに充分にできていなかった。井口に話すこと、井口と秘密を分け合うことで、千絵の主張は肯定され、罪の意識を軽くしたかっただけなのかもしれない。千絵は必死に井口に自分の正当性を訴えた。
 井口はそれを受け入れてくれ、連絡先を交換し別れた。
 それから十年が経ち、あのときに聞いた電話番号に千絵は自分から連絡をした。
 亮太が過去を知りたがっている。そして田畑さくらという女性が亮太の協力をしていて、その女性に井口の連絡先を教えた。おそらく二人で会いに行くことになるだろうと伝えた。
 千絵は井口に電話の際にあのときに交わした約束を引っ張り出し、井口に釘を刺した。亮太に知られてはいけない過去を隠し、二人が納得できるようにうまく伝えてほしい、と。
 だからその結果を知る必要があった。実際に井口は千絵にとって都合の悪いことまで話した可能性がある。さくらと亮太が亮太の過去に決着を着けられたかを知る必要もあった。千絵は井口に連絡をしたとき、さくらとの面会が終わったら会う約束を取りつけていた。そして、いまこうして井口といる。なぜか居酒屋というとんちんかんな場所だが。
「二人はどこまで知りました?」千絵の問い掛けに、井口はビールを口に運んだあと「来たのはさくらさんだけでした。彼女に当たり障りのない昔話をしただけです。亮太に伝わっても、それから亮太があのことを思い出すきっかけになるとは思えません」井口の息からアルコールの匂いがした。
 それから井口が話したことは、千絵が亮太に隠しておきたいことには触れられていなかった。千絵は安堵した。しかし、井口の視線はまだ鋭く千絵に注がれていた。
「彼女からいじめがあったのではないかと訊かれました。もちろん否定しました」
 落書きされたアルバムの存在は、井口は知らなかったはずだ。いじめがあったという可能性を井口はついさっき初めて聞いたのだろう。
「あのクラスで実際にいじめなんてものは存在するはずがない」
 声は小さかったが、井口はしっかりとした口調で言った。より一層眼光が鋭くなり、まるで教師の時代に戻ったかのようだった。その視線は過去を隠そうとしている千絵に対して非難しているかのようだった。
「それでも彼女はまだいじめの存在を疑っていたようだったから、当時のクラスメイトを何人か彼女に紹介しました」
「どういうことですか?」井口の言葉が一瞬理解できなかった。千絵の期待と悪い予想のどれにもなかった選択肢だったからだ。
「さくらさんに当時のクラスメイトと会ってみることを勧めました。そして当時の話を聞けばいいと」
「その人たちは大丈夫なの?あのことを話すことはないの」千絵の心は乱され、声が落ち着きをなくしていた。
「一応口止めはしておきます。さくらさんにあのことは伝わりません」
 当時のクラスメイトをどれだけ信用していいものか。千絵は話したこともない人間と亮太の過去を調べているさくらと会わせたら、これまで千絵が必死に秘密にしてきたことが亮太に知られてしまうのではないかと、不安が込み上げた。 
 小説の存在を知っていた千絵だったが、さくらと亮太の関係まではわからなかった。さくらは亮太の過去を知っているのかもしれない。だから『約束の日』に千絵も同じ場所へ向かった。
 ところがさくらは亮太のことを知らなかった。それは千絵にとって幸運なことだった。さくらが亮太の過去を調査することは予想外だったが、井口がさくらに当たり障りのない過去を与えて、それで決着が着くことを望んでいた。
 だけど、今度はまた千絵の知らない登場人物が現れた。そしてさくらと接触するという。
 まだ調査はつづいている。
「亮太はこの十年間で大人になったでしょう。彼にはまだ会ってはいませんが、私にはわかります。先ほどさくらさんと会い、話をしました。すごく楽しい時間でした。彼女の人間性にほれました。彼女と亮太との関係は私にはわかりませんが、彼女が意志を持って亮太に協力しているということは、亮太にも立派な人間性が養っているということだと、そう思いました」
 井口の顔が真剣味を帯びていた。赤い顔が教育者独特の熱さから発するものなのかと信じてしまうほどだ。
「私は教師を退いた、いまでも教育者としての自覚があります。彼女たちが必死に問題に挑んでいるときに、その問題を取り上げることはできません」
 それ以上、千絵は井口を説得することはなかった。千絵は再度知られてはいけないことを確認し、それを当時のクラスメイトに必ず伝えてほしいと井口に注文して席を立った。井口はまた店員にオーダーをして、まだ飲みつづけるつもりだ。すでに先ほどに垣間見た教師の威厳はなく、ただの酔いどれ親父に成り下がっていた。ただ、その表情は教え子の卒業に立ち会っているかのように満足気にも見えた。
 
 井口と別れた千絵は足取りが重く、目についたガードレールに腰を掛けた。街灯が千絵を照らし、なにか自分がしていることを否定されているように思える。罪悪感が心を支配し、胸が重苦しい。
井口は十年前の約束を覚えていてはくれた。ただ、この十年のあいだに人は考えを変化させていくし、そのときの思いも色褪せていく。彼は結局のところ亮太とは教師と生徒の関係だから、本当に亮太のことを思っているのではなく、井口の教育者としての正義がそうさせているだけなのかもしれない。千絵はそのことが歯がゆく思えた。
 彼の言う通りたしかに亮太は成長し、もう子供ではない。成人にもなったし自分のことは自分で何事も乗り越えていかなくてはいけない。いままで秘密にしていたことだって亮太に教えてもいいこともあり、それもいまの亮太なら受け止められるだろう。
 ただ井口だってすべてを知っているわけではない。亮太に絶対に知られてはいけないことがある。その絶対に知られてはいけないことが、ひとつの綻びから芋づる式に知られてしまう可能性がある。もしもあのことが亮太に知られてしまったら。
 千絵はこの十年の亮太の成長を思い出した。記憶は色あせることなく、ずっと千絵の体内にある。
 この十年間は思い返せばあっという間だった。
 千絵よりも小さかった少年が、いまでは千絵の身長よりも頭ひとつ分ほど大きくなり、声変わりをし、優しい表情をするようになった。
 亮太の成長は千絵の生きがいであった。だけど、実際に亮太が成長していく姿を見ていると、少しだけ寂しい気持ちも感じていた。それはきっと亮太が大人になって遠くへ行ってしまうと心のどこかで想像してしまっているからなのかもしれない。
 千絵は鞄を開け、中身を確認する。そこには亮太が記憶を失うきっかけとなったナイフがある。千絵の迷いはこの刃物で切りつけ、破壊するしかもはや残されていないのだろうか。
 そうすれば、もう亮太との関係も完全に消えてしまうだろう。想像すると千絵はこの十年間の幸福が失われる喪失感が襲ってきて、体を支えることも難しくなってしまう。
 ついにはガードレールから滑り落ち、道路に腰を打ちつけた。その反動で空を見上げる格好になった。街灯の不自然な明かりを通して見える夜空は、決して暗闇ではない。もしも転がっている石を投げつけ、街灯を割ってしまったら、空は千絵にどんな表情を見せるのだろうか。両の手のひらでなんとか体を支え、そのまま空を眺める。
 闇は空のなかにあるのだろうか。この場所から星は一粒も千絵の視界には確認できない。人工的な街灯を設えるように、嘘を重ねてしまった自分にはもう星光も消えてしまい、千絵が見る空には光が存在しなくなってしまったのだろう。
 このまま目を閉じれば、そこまできている闇を待たずに眠ることができるかもしれない。それはそれで千絵にとって、いまできる最良の選択だとも思えてしまう。
 空から視線を下ろすと、道路に千絵の鞄が落ちていた。鞄の口からナイフが顔を覗かせていて、人工的な街灯の光を反射していた。千絵はその鋭利な刃先に心の奥底で眠っている犯意が開かれる感覚を覚えていた。


#24へつづく

「クルイサキ」#24

「クルイサキ」#1 序章 花便り
「クルイサキ」#2 一章 花嵐
「クルイサキ」#16 二章 休眠打破


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