雑記:抽象との戦い。身勝手な正義感へのいらだち。

カミュのペストを読んだ。ペストがアルジェリアのオランの町に蔓延する。感染拡大を防ぐために、町は閉ざされる。突如日常に降り掛かった不条理の中で人々はどう生きるのか(あるいは死ぬのか)。
以前読んだ時はペストが流行するという設定が非現実的で、SFかのように読んだが、今読み返すとコロナ禍に置かれた状況とリンクすることが多く、没頭して読み終えた。

読み終えた今なお、物語の中で感じてきたこととこちらの世界との折り合いがうまくつけられないので、思うまま書いてみたくなった。

戦争が 勃発 すると、人々はいう──「こいつは長くは続かないだろう、あまりにもばかげたことだから」。そしていかにも、戦争というものは確かにあまりにもばかげたことであるが、しかしそのことは、そいつが長続きする妨げにはならない。

いみじくもペストの中で語られていたが、コロナとの戦いも長期化すると思ったほうが良さそうだ。

ところで、今「戦い」という言葉を用いたけれど、果たして僕は何かと戦っているのだろうか。

実際、コロナの影響をもろに受け、売上はしゃれにならないほど激減している。長期化するコロナ禍を生き抜くためには、ビジネスの根本的な見直しと新たなチャレンジをスピード感をもって取り組むしかない。とても余裕をぶっこいていられる状況ではない。そして、それについては(Stay homeしながらではあるが)ない知恵絞って動き回っている。

ただ、それでもなお、「コロナとの戦い」という最近よく耳にする言葉がしっくりこない。

日中はほとんどダイニングテーブルで仕事をしている。インターネットで世界中に繋がっている。朝はシアトルと、昼食前には秋田と、昼過ぎにはバリ島と、夜はカンボジアの遺跡とつながっている。自分が今いる場所が東京であり、また出張もなく毎日同じ場所に居続けていることを除けば、コロナ以前と大きな違いはない。

ちょうど我が家の窓の前には高いビルがなく、家々の屋根が連なっていて、その先に桜並木が見える。自宅にとどまる暮らしを始めた3月頭には家々の屋根の向こう側に見える桜はまだ花も葉もつけていなかった。ところが、いつしか満開の桜が見え、そして緑が混ざり始め、今ではすっかり青々とした葉が生い茂っている。
窓の外の景色は季節とともに、天候とともに、時間とともに移ろいでいる。その中でいま僕はコロナと戦っている、という。

暑さと沈黙のなかで、しかも市民たちのおびえきった心にとっては、元来あらゆるものが普通以上の重さをもつようになっていた。空の色や土の香など、季節の移り変りをなしていたものが、初めてすべての人々に感じられるようになった。

治療の最前線に立つ医療関係者の人々には頭が下がるし、その方々が相手にしているものは紛れもなく具体であり、戦場そのものだろう。そこに苦しみ悶える人間が居て、また自身も感染への恐怖を感じ、肉体的精神的にも極限の状況で「戦って」くださっている。感謝しかない。

ただふと、日に日に春めいてくるおだやかな景色を眺めている自分自身に目をやってみると、どこをどう探ってみても「戦って」いる実感も感触も、なんにも見当たらなかった。

日々の暮らしが劇的に変化し、戦時とも言うべき状況にも関わらず、ウィルスという目に見えない掴みどころのないものを「敵」だと捉えることが出来ない僕は、想像力が貧弱で平和ボケしたバカヤロウなのだろう。
いっそ、ゴジラとか、サノスとかわかりやすい形で顕現してくれればよいのにとさえ思う。不謹慎かもしれませんがね。

コロナへの感染者数は世界全体で250万人を越えている(4月22日現在)。途方も無い数字ではあるが、世界人口77億人(2019年)に対する感染率でいうと、0.03%である。僕も含め、世界中の99.97%の人はまだ感染していないのだ。

─「まったく、こいつが地震だったらね! がっと一揺れ来りゃ、もう話は済んじまう……。死んだ者と生き残った者を勘定して、それで勝負はついちまうんでさ。ところが、この病気の畜生のやり口ときたら、そいつにかかってない者でも、胸のなかにそいつをかかえてるんだからね」

ただ、ウィルスには罹っていなくても、僕の中にはもうコロナは巣食っている。世界中ののこり99.97%の人の中にも、コロナは巣食っている。
抽象としてのコロナが。

胸の中に抽象としてのコロナを抱えている僕。社会。人々。

それはつまり、天災ほど観物たりうるところの少ないものはなく、そしてそれが長く続くというそのことからして、大きな災禍は単調なものだからである。みずからペストの日々を生きた人々の思い出のなかでは、そのすさまじい日々は、炎々と燃え盛る残忍な猛火のようなものとしてではなく、むしろその通り過ぎる道のすべてのものを踏みつぶして行く、はてしない足踏みのようなものとして描かれるのである。
市民たちは事の成行きに甘んじて歩調を合わせ、世間の言葉を借りれば、みずから適応していったのであるが、それというのも、そのほかにはやりようがなかったからである。彼らはまだ当然のことながら、不幸と苦痛との態度をとっていたが、しかしその痛みはもう感じていなかった。

果てしない足踏みを続ける群衆の中に僕はいるのか。自宅に閉じこもりながら、それでも何と戦っているか分からないなどととのたまっている僕は、痛みを感じなくなっているに過ぎない、のか。

「どういうわけってことはないがね。あの人は、しゃべっても意味のないことはいわなかったね。とにかく、わしにゃ、あの人が気に入ってたんでさ。だが、まあ、そういうもんだね。ほかの連中はみんないいまさ──《さあ、ペストだ。ペストにかかったぞ》なんてね。もう少しで、勲章でもほしがりかねない始末でさ。だが、いったい何かね、ペストなんて? つまりそれが人生ってもんで、それだけのことでさ」

いや、違うな。「コロナだ、コロナがきたぞー」と大声で報じ、「世界はこれからこうなっていく!」と深刻な顔をして警鐘を鳴らす識者たちの態度に白々しさやいらだちを感じているんだ。

国連が定める貧困ラインを下回る貧困層の人々は世界中で13億人、実に世界人口に対して23%にのぼる。またユニセフによると2019年の世界の5歳未満児の死亡者数は530万人を数えるという。世界はとっくの昔に深刻な事態に陥っている。自分の身に降り掛かって来た途端、「緊急事態宣言」や「誰も経験したことのない事態」などと急に色めきだって、これからの社会はとかなんとか言い始める識者達の声にうさんくささを感じ、白けてしまったのだと思う。(これまでも声を上げたり行動してる人ももちろんたくさんいるでしょうけど)

これまでもそこら中で戦いはあった。それなのに、急に「戦う」などとよく言うなあ。窓の外の景色がコロナ前と変わらずに移ろいゆくように、世界はこれまでも有事だったし、それが平時だった。

これまでも、この先も何度でもペストは、コロナはやってくる。あるいはゴジラやサノスが。

ただ、そうした突発的な災厄によって引き起こされる不条理の前に、社会構造や定常的に不条理が生まれ続けていて、その中で痛みを感じ続けている人や社会があり、それらが再生産され続けているということから目を背けてはいけない。

それこそ理想論かもしれないな。それでもそう書いておきたくなった。コロナが巣食った自分がそう言っている。

事実、 市中から立ち上る喜悦の叫びに耳を傾けながら、リウーはこの喜悦が常に 脅 やかされていることを思い出していた。なぜなら、彼はこの歓喜する群衆の知らないでいることを知っており、そして書物のなかに読まれうることを知っていたからである──ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや 反古 のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその 鼠 どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうということを。


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