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『シブヤで目覚めて』という橋を渡って

 『シブヤで目覚めて』はプラハと渋谷という2つの都市を舞台にした作品だ。プラハには日本文学を専攻し、謎多き大正~昭和初期の作家、川下清丸に魅せられその研究を進めようとするヤナがいて、渋谷には彼女の分身が誰からも見えない幽霊として存在している。

 読む前にあらすじを知って、わたしは遠い海外の地で幽霊になって過ごすなんてきっと異国情緒あふれるファンタスティックな物語なんだろうな、と思っていた。けれども、実際に読んでみるとその印象が間違いであることに気づいた。

異国で幽霊として過ごすということ

 友達と旅行で日本を訪れたはずが幽霊として渋谷に閉じ込められたヤナは、警官に質問してもいつも決まった次の4つの答えしか返ってこないと嘆く。

1.ルールとマナーさえ守ってれば、警察の厄介になることはないですよ。
2.君たちが日本食を評価するのは無理。寿司しか頭にないんだから。
3.その金髪、染めてるんでしょう。
4.サムライを探しに来たんでしょ。ほんとうはいないと知ってびっくりし   たでしょ。

彼女は自分が「日本に残っていたいと全力で願っていた」その想いそのものになってしまったのだと悟り、警官がいつも同じ答えを返すのを「外国人の考えていることにイライラするので、外国人を見た時に思うことを口にしているのだ」と断じる。

 わたしはこの部分に触れて幽霊、あるいは想いになって異国を彷徨うという設定が決してファンタスティックなものではなく、嫌になるほどの実感を伴っているのだと感じた。彼女は日本という異国の地で幽霊=「存在しないもの」として扱われているのではないだろうか? 警官の言う「1.ルールとマナーさえ守ってれば、警察の厄介になることはないですよ。」は、あなたとはかかわりたくない、という意思表示のようだし、2.3.4.は外国人へのステレオタイプな偏見に基づくセリフであって、ヤナという個人を認めない態度のように読める。
 ヤナが幽霊として渋谷にいる誰からも見えない、ということは渋谷にいる日本人が彼女を見ようとしないということ、もっと踏み込んでいえば彼女が日本から排除されているということを寓意的に表現しているのではないか? とわたしは感じたのだった。

「日本文学」という橋

 けれども、彼女はそんな孤独と疎外にへこたれずに日本語学習に精を出し、ビジュアル系バンドをやっている男の痴話げんかを覗き見したり、彼のピンチを救ったりと、しぶとく渋谷を彷徨い続ける。
 一方でプラハにいるヤナは日本文学の研究にいそしみ、特に謎の作家、川下清丸に夢中になる。この川下清丸なる人物は実は作者の創作なのだけど、実在の作家や出来事とリンクさせることで、あたかも実在したかのようなリアリティがある。(わたしも「もしかしてわたしがしらないだけで実在する……?」と思ってググってしまった)
 プラハにいるヤナには日本という対象に対して明確な目的意識を持っている。彼女は日本人にも顧みられることの少ないマイナー作家を通じて日本文学という奥地へ、より深く分け入っていくのだ。そして渋谷とプラハの出来事は後半でリンクししていき、物語の佳境で幽霊として渋谷で過ごすヤナはプラハにいるヤナの川下清丸への想いに巻き込まれていく。
 ヤナはただぼんやりと日本への憧れや異国情緒を求めるだけではない。日本、そして日本文学に対する強い想いがあるからこそヤナは渋谷に閉じ込められ、誰にも認識されず、警官に不躾にあしらわれても挫けることはないのだ。たとえ誰からも見えない幽霊として遇されてもそれは彼女にとっては本質的な問題にはならない、なぜならヤナには日本でやるべきことがあるのだから。わたしは日本文学という燃料を得て自分のやりたいこと、やるべきことに深く入り込んで日本文学を冒険する彼女の姿を心から応援したいと感じた。

 日本文学を通じて日本に引き寄せられる彼女の活躍を読み進めるうちに、わたしには日本文学、あるいは川下清丸という存在がヤナにとって渡るべき一本の橋であるようなイメージを思い浮かべた。それは渋谷のスクランブル交差点が車道にかかる橋のように見えるからかもしれないし、作中で川下清丸が遺した未完の作品のタイトルが「川を越える」だからかもしれない。ヤナは日本文学という橋を渡ってプラハから遠く日本までやってきたのだ。
 それは簡単に渡れる橋ではないのかもしれない。作中にもヤナが男友達のクリーマと交流しながらに川下作品の翻訳に四苦八苦する様子が描かれているように、強い情熱と根気をもって外国語、外国文学を理解しなくてはいけないのだし、そして橋を渡った後も幽霊のヤナが苦労したような事態も乗り越えなくてはいけない。
 けれどその橋を渡って見える日本の、渋谷の景色はきっと特別なものだと思う。それはきっと観光で訪れる人々のみならず、いつも渋谷を歩いている日本人が見る日本ともまた違った輝きを放っているに違いない。

いつかプラハで目覚めて

 もしかするとプラハから渋谷に日本文学という橋が架かるとすれば、その逆もあり得るのかもしれない。日本からチェコにかかる橋。その橋の名はクンデラだったり、フラバルだったりするだろう。そしてアンナ・ツィマの『シブヤで目覚めて』も日本とプラハの間に横たわる川にかかる橋の一つに違いない。
 ヤナの熱い想いと活躍に突き動かされて、読んだ後にチェコへの一歩を踏み出させるだけの力強さを持った一冊、それがわたしの『シブヤに目覚めて』を読んだ感想だ。もしわたしがプラハで目覚めることがあったら、本書を携えてヤナとクリーマが通う〈太ったコアラ〉でビールとスープを頼んで二人の文学談義に耳を傾けてみたいと思う。

#読書の秋2021 #シブヤで目覚めて

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