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筒井康隆「遠い座敷」 少年の心細さとファンタスティックな座敷の道

 筒井康隆の「遠い座敷」は一九七八年に中央公論新社の文芸誌「海」に発表された作品です。筒井康隆といえば、SFから始まって多種多様な作品を生み出してきた多面的な作家ですが、この作品は文芸誌に発表されたということで、純文学的な格調のある文体を持ちながらも、非常に幻想的な短編に仕上がっています。
 主人公である宗貞という少年が、兵一という友達の家で遊んでいるところから物語は始まります。彼は兵一と遊ぶうちに帰り時を逃してしまい、彼の 
家で夕飯をごちそうになります。しかし、

大人たちが誰ひとり送ってやると言い出さないからきっとひとりで帰らなければならないのだろうと思い暗い山道のことを考えて宗貞は気が沈んだ。

と、帰り道の心配をして食事もろくにのどを通りません。
 そして宗貞が家に帰ろうとするとき、兵一の父親から山道を通らずとも座敷づたいに歩けば自分の家に帰れる、ということを教えられます。

(前略)山腹の斜面の勾配に応じて座敷と座敷の間は奥の座敷がそれぞれ五寸から一尺低くなっていて次第に降下していくその座敷の連なりはどこまで続いているかわからぬほどだった

という具合に、二人の家が連なる座敷によって繋がっているというのです。
 そうして宗貞は座敷から座敷へ、家に帰るために進むのです。座敷はそれぞれ異なった広さや内装を持っていて、客を招き入れられるような体裁を整 えている。薄暗い部屋にある置物に恐れを抱きながら宗貞は座敷を渡っていく…… 家まで連なっていく座敷の描写、そこを行く少年の心細さを描いたところが実に素晴らしい作品です。また、「座敷」が象徴するものとは? と考えると様々な解釈が可能な実に深みのある小説であるともいえます。
 ところで家から余所に出かけた少年が帰るタイミングを逸して暗い中を心細い思いを抱えながら帰らなければならなくなる、というこの小説、あの有名な芥川龍之介の「トロッコ」を思い出しませんか?

もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途みちはその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そう云う事が一時にわかったのである。良平は殆ほとんど泣きそうになった。

芥川龍之介「トロッコ」

この「トロッコ」の少年の心細さ、冒頭に引用した「遠い座敷」の宗貞の心境と共通点が見られますよね。そして「トロッコ」では

 やっと遠い夕闇ゆうやみの中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。
 彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気ゆげの立つのが、彼自身にもはっきりわかった。

芥川龍之介「トロッコ」

とあって、心細さを抱えながら家路を駈けてきた果てに、電燈の光を見てそこに帰ってきたことの安心を得るというふうに描かれています。
 そして「遠い座敷」では宗貞が無数の座敷を通り抜けた先に

板の間を駈けおりながら宗貞は部屋の内部に点いた八十燭光の電灯の明るさとあたたかさを映し出しているその障子越しに、かすかに聞こえてくる家族のほとんどさんざめくような話し声や笑い声を捕えていた。

筒井康隆「遠い座敷」

と、こちらも電灯が照らす明るさに自らの帰還を知るという描写がなされています。
 この「遠い座敷」は筒井版の「トロッコ」ともいうべき作品なのかもしれません。そして走り抜けるのが坂道ではなく無数につながった座敷であるというところに筒井康隆の幻想小説の書き手としての真骨頂が表れているといえるのではないでしょうか。
 主人公である宗貞が駈け抜けるあまたの座敷の描写が幻想的でかつリアリティに満ちていてじつに素晴らしく、わたしなどはぜひアニメ映画化など映像化してほしい、という気持ちと、いやいやこれは文章だからこそ輝く作品なんだというせめぎ合いがあるのですが、ぜひその想像力とそれを描き切る文章を堪能していただければ幸いです。
 「遠い座敷」は新潮文庫の『エロチック街道』に収録されています!

筒井康隆 『エロチック街道』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)



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