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金を払って休みを買い働かないという贅沢

私は時折機会のある有償での創作系の取り組みを除けば、簡単な内容の事務系管理業務をリモートワークでこなし収入としている。雇用形態は契約社員で、給与は大卒初任給程度にボーナス無し、勤めてからもうすぐ3年目に入る。

正直、もう毎日出勤して働ける気がしないし仕事内容もこのままでよい。周りを見渡せば(といってもSNSのフォロワーが数十人程度の私の周りにはサンプルとなる同年代の母数が少ないが)どうやら平均的な正社員というのはもう少しお金を貰っているようである。

給与がいくらかを友人と詳細に話し合う機会がないため厳密にはわからないが、インターネットで検索してみると同い年の平均年収はやはり私のそれより高い(あくまで平均であり、達していない人間が半分いて当たり前ではある)。

しかし多くの正社員には昇給制度なるものが存在し、10年後20年後の給与はより多くなっているのだろう。それもまたよし。一方の私は生来のものぐさかつ向上心のないばかで、今の給与ですら貰いすぎていて怖いと感じてしまうのだから始末に負えない。根っからの貧乏性が染みついている。

なぜ私はそうなのだろうと考えると、まず根本的にお金を使わないからだという理由が思い浮かぶ。ありがたいことに両親の育児の方針としてある程度欲に対する我慢を教えていただき私は幼い頃から贅沢志向の外で暮らしてきた自覚がある。

旅行は国内のみで数年に一度、外食はほとんどなくマクドナルドやサイゼリヤが非日常、買い与えられるゲームも最新式ではなく専ら中古ショップの2〜3世代前。その分の余剰資金は教育費等に使って頂いたようで、お陰様で学びの楽しみに関してはよく理解して育つことができた。

そのまま成長したものだから、周りの大人たち(今でも自分とは違う世界すぎて「大人だな」と思うのだ)が煌びやかな夜の遊びに興じてみたり海外旅行に行ってみたりしているのを見ても全く食指が動かない。育児・教育としては大成功と言える(少なくとも私は私自身をこう育てて頂いたことに大変感謝をしている)。

今でも日々の食事は土井善晴流の一汁一菜よろしく栄養を安く適切に取れるものを選択できれば質的に大満足するし(なんならコストを度外視してよいのであれば完全栄養食の類で生活できるくらいに食のレパートリーに無欲だ)、ひとたび外食ともなれば(それがどんな価格帯の店であれ)ごちそうの選り取り見取りに映る。

知見や好奇心の快楽は本やインターネットに無限の量が溢れているからそこで満たせるし、学びの楽しみも知っていればたとえ近所を散歩しているだけでも世界が多層的に知識の源を携えていることを感じられ忙しない。海外に行く間も無く、国内ですら観尽くせない景観にあふれすぎている。

若者の消費離れなんて叫ばれることもあるが、無料でこんなに面白いものが溢れている現代においてお金を使う機会が減るのは真っ当だと感じる。

それに加え私は喧騒と狂乱の若者文化への辟易からミニマリスト的生き方に快楽を感じる体質になってしまっており、輪を掛けて物質的(≒金銭的)充足への渇望を感じにくい。

先日した引越しはリュックサックに手提げを持ち布団を担いで実家の車に載せるだけで完了。家具資産は全くないため快適であれば広い部屋は要らず、ファストファッションで同じ服を消耗品的に買い続けることで選択コストとブランド志向的金銭欲から脱却している。この「人生に無駄な金がかかってない感」が気持ち良すぎて、不便だと感じたことは全くない(むしろ物質資産が増えると管理コストが増え不便だ)。

また将来を見通しても私はお金を使うイベントがことごとく少ないと予想される。まず自分の遺伝子を後世に伝える行為が全く魅力的と感じないため養育への欲求が一切ない。

そしてパートナーと生活をする楽しさや種々のリスク回避のための婚姻のメリットは理解しているが「結婚式」なるイベントに数百万円払うくらいなら生活への投資に回せばよいと考えている。ブライダルイベントは業界のビジネスと消費欲、承認欲求と自己顕示欲で構成されている"趣味"の範疇だととらえていて興味がない。また幸いにも絵に描いたような夫婦の佇まいが幸福の指標であるという価値観には懐疑的な視点を持つことができている。

そんな私が平均的な同年代以上にお金をかけたいと思う数少ないものは下記の通りである。

  1. MacBook
    娯楽・趣味・クリエイトを担ううえでコストパフォーマンスが最高

  2. 美容
    自信を金で買う

  3. 貯蓄・投資(NISA)
    経済の当事者になり知見を深め、老いるリスクに備え不安を減らす

私の支出は生活費を除けばほとんどがこれらの要素に割かれており、現状で十分足りてしまっている。これでは稼ぎたいと思う隙がない。

二つ目の理由として、私は「必要以上に稼がない」ことを最高の贅沢だと考えていることが挙げられる。

前述の通り努力の二文字に全く才能がなく、右往左往する好奇心とどうしようもない付け焼き刃の器用さで人生をやり過ごしてきた私にとって、まさか1日8時間以上も継続的に何かを毎日し続けるということは負担が大きすぎる。究極の飽き性で、睡眠ですら続かない(私はこの文章からもわかる通り常に精神が落ち着かず眠るのが大の苦手だが、一方で睡眠を人一倍取らないと体調を崩す軟弱体質を併せ持っており非常に難儀である)のだから、これはもうそういう人間だとういうことなのだろう。

思えば高校生の頃からうまく時間割を組んで登校日を減らし(特殊な単位制の学校だった)、大学は言わずもがな自由に生き、その後は就職せずフリーランスという名のニートをしていた。一念発起して一般職に就くも職場と自宅の往復が続く毎日に耐えられず3ヶ月で挫折、流れ着いた先の現在の職場が辛うじて続いているが、その実態はとてもではないが人前に明かせないほどの為体で実働はかなり短い。

そうでなければ続かないのはもう変えようのない事実であり、仕事の方を合わせていくしかない。そうなった場合には大抵がアルバイトやパートなどの雇用形態となり収入も必然的に低くなる。

しかしこう考えてみてもよいのではないか、「働かないことに金を払っているのだ」と。

フルタイムと残業で月収換算30万円の仕事に従事していたとする。どっと押し寄せる日々の疲れを癒すのは短い土日の48時間、ほとんどを休養に費やし、ほかに気力はないので快楽の捌け口は本来必要のないものも含む消費行動。ベッドにいながら通販で服を買い、行かないジムに会費を払い、超高性能カメラがついた最新のiPhoneでやることといえばYouTuberの流し見。

しかし私の場合は生活費や税金等で必要経費の10万円ほど(節約や控除等で切り詰めることも可能だが一旦この通りとする)を超えた分は多くが余剰となる。休みを増やしたり時短勤務をして仮に月収が13万円ならば前の例で余計に働いて稼いでしまった分をもらえないが、その分精神的負担は限りなく小さくなる。

それならば私は「差額の17万円を払って心の余裕を買う」という贅沢をしたい。余る体力や気力で散歩をして好きな時間に外の空気を吸い、図書館で本を読み早めに寝る。これ以上の優雅な暮らしがどこにあるというのだろうか。

その生活の途上でいつの間にか人生を終えられれば本望だ。宝籤は当たらず、実家が資産家でもない。働くという行為が付き纏い続ける人生であることは確定しているから(無職は無職で得体の知れぬ絶望感に悩まされることをニート時代に学んだのでそれでよい)幸福度を高めるためには極力働く量を最低限にする。

恐らくモーレツ社員の皆様はある程度仕事で充実感や生の実感、生きる意味ややりがいを得ていると思うが(あるいはそう自己洗脳することでしか過酷な労働を乗り越えられないのか)私は何かを知ったり、音楽を作ったり、このnoteに文字を書いたりすることで十分自己実現欲求をかなえてしまえるのも理由だろう。そしてそれらは往々にして金がかからない。

消費ではなく吸収や創作に愉しみを見出すことができれば、お金に左右されない豊かさを手に入れることができる。社会は自己維持のための血液たる経済を循環させるべく構成員に消費を求めるが、その誘いに乗るか乗らないかで幸福を感じるかどうかの閾値が段違いになる。

もちろん、例えば多くのソーシャルゲームは課金に勤しむユーザーがいてはじめて無料プレイが成り立つモデルを採用しており、それと同じく消費層がいなければ私のような人間の生活が成り立たない。世の数多あるビジネスを決して卑下せず、その経済の中に片足だけフリーライドさせていただいている感覚は忘れないようにしたい。

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