漫才批評の難しさ 〜M-1グランプリ問題についての一考察〜 後編

ニ、基準がないということ

 漫才には明確な基準がない。曰く、受ければ勝ちであるし、受けなきゃ負け。そして、審査員に気に入られるか、どうかである。 

 今回の回では上沼恵美子や立川志らくの価値観というもの、基準というものがやたらに問題になっている。

 まず渦中の人物である上沼恵美子。この人は如何にもかしましい大阪のオバハン、というキャラクターを全面に押したがるので、話が厄介な方向に拗れたがる。

 言い方が悪くなるが、彼女は豊富な芸歴と価値観を持っていながらもそのアクの強いキャラクターが論理を邪魔しているような気がしてならない。同じ意見でも、これが今くるよや内海桂子だったらどうだったろう、と思う。

 だが、腐っても元は海原千里万里の片割れである。そして、漫才ブーム以前から天下を取った人物である。彼女がデビューした時分、大阪には様々な芸種の漫才が居た。

 その中には都枝七五三、多比良おせんなどと珍芸と呼ばれる他愛ないものから、それこそダイマルラケット、やすしきよしのような今日のしゃべくり漫才の引導をしてきた人物たちもいた。

 当然、この中には戦前人気があったけどもその頃には落ちぶれていた人、逆に全く受けていなかったのがある日突然受けるようになった人、批判だらけの芸を突き通して自家薬膏中の物にした人もいる事だろう。

 そういう芸能界の厳しさを見ているが故に上沼恵美子は、様々な事をいうし、そういう審査もやる。だが、それをあのキャラクターが変に拗らせているとなると惜しい。女傑の大いなる欠点であり、かつキャラクターの立っている人が審査をやる事の難しさを考えさせる。

 そして、上沼恵美子の煽りを受けるように炎上した立川志らく。こちらもクセのある発言と前々から知られた人柄のせいで、話がこじれる。

 人徳の致す所、とは言いたくないが普段から喧嘩を売りまくっている志らく氏だから、またかの関という感も無くはないけれども、彼もまた談志イズムという価値観に心酔しているからややこしい。こちらもまたキャラクターと審査の両立がそう簡単には成り立たない事を考えさせてくれる、難しさがある。

 グランプリ終了後、賛否両論を突きつけられた立川志らくが公式アカウントでこんな事を言っていたので引用。

私の漫才の基準はダイマルラケット。これをキャラクターで突き抜けたのがやすきよ。そして魅力の塊プラス現代的毒で突き抜けたのがツービート。漫才のスタイルを変えたのが紳助竜介、そしてダウンタウン。
23:54 - 2018年12月2日
https://twitter.com/shiraku666/status/1069500166808326145

 この漫才の選び方は、志らくらしい、の一言に尽きる。なぜならこの漫才たちは、紳助竜介を除いて師匠の立川談志が評価を下した面々だからである。詳しくは『談志百選』に書いてある。

 師匠を模倣する所から弟子は始まる訳だが、談志イズムを継承すると自負する志らくにとって、この漫才を欠かす事はできないだろうし、イズムを口にする以上、この漫才を判らなければ嘘になる。

 ここで注目すべきは、基準をツービートでもダウンタウンでもなくて、ダイマルラケットに定めている事である。この漫才こそ談志が敬愛した芸であると同時に、彼の唱える狂気を兼ね備えた漫才師でもあった。それさえも志らくは模倣し、自分のものにしようとしているのだろう。

 談志のダイマルラケットに対する心酔ぶりは凄まじいもので、「黄菊白菊その外の花はなくもがな……ダイマルラケット、エンタツアチャコ……この二組だけいればいいンです」とか、CDの解説の中に語っている。今残っている音源を聞いても、ダイマルラケットの漫才には奇想天外な笑いーー談志いう所のイリュージョン的な部分がある。

 そういう意味で志らくがこの漫才師を尊敬し、基準に置く事は何も不思議な事ではない。

 私個人としてはこの二人に対する批判的な意見も見方もあるけれども、さりとてこの二人を無碍に「老害」「物がわかっていない」と切り捨てる事もできない。むしろ、彼らは審査員向きなのかもしれない。二人の身体にある価値観や基準という意味では。

 この二人は自分の中に課せられた価値観や基準が強いが故に、ねじれ現象を引き起こす事が多い。曰く、分かる人には分かるが、分からない人にはまるで分からない、ということだ。

 変な書き方をしてしまったが意味はすこぶる簡単で、馬が合わない。これである。

 立川志らくや上沼恵美子を批判している人々の中に「ぱあぱあ言ってるだけ」「もったいぶって言っているけど中身はない」という意見を見かけたが、これもすべて誤り、というわけではない。これは価値観のベクトルが違うが故に起こり得る悲劇、というべきか。

 かつてバベルの塔を作っていた人間は、ある日突然全く違う言葉と価値観を与えられたが故に、人々は共通の目的を疎通する手段も意味もなくなってしまい、遂にバベルの塔は完成しなかったーーではないが、基準がない漫才ゆえの特徴であり、そして当然の現象といっても、言い過ぎではあるまい。

 いくら、立川志らくや上沼恵美子が正論を吐いてみせた所で、聞こえない人には分からないのだ。逆にそれを正論だと捉えなくても間違いではない。上沼、志らくの意見もまた全能の意見ではないからである。

 審査員の一人、オール巨人が先日のデイリースポーツで「人間だから間違いはある」 というような取材を受けていたが、これに尽きる。大体、審査員批判は今にはじまったことではない。

 今年も審査員席にいた松本人志は、若き日の著書で、当時、漫才コンクールなどに携わっていた藤本義一を名指しで「物が分からないやつ」「さっさとやめろ」みたいなことを書いている。こちらは今のようにSNSが発達していなかった事と、藤本義一が特に問題にしなかった事によって、有耶無耶になってしまったが、こういう事例なぞ探り当てればいくらでもあるのだ。上沼恵美子だって人の事は言えるまい。

 かつての価値観を否定した反逆児が、今では新たなる価値観を定めようとする審査員の席にいる。皮肉といえば皮肉であるが、価値観も基準もない、ただ人気が一つの正義という世界ではこういう結末になっても仕方ない事、なのかもしれない。

 基準も価値観もない以上は、自分の信念や良心に託すしかないのだ――それが嫌な結果をもたらしたとしても。

 それに文句があるならば、漫才に価値観や基準を作らねばならない。しかし、それに賛成できる漫才師が何人いる事だろうか。求められるのは先人と同じネタ、師弟関係の復権、行動の制約等々。

 これも後述するがかつて受けたネタを後進がやった所で受けるかといえばそうでもない。むしろ空振り三振という惨状を極める可能性もある。歌舞伎や落語のように完成された型があるならともかくも、何もない中で制約だけ定めたってしようがない。

 多分こんなことをしたら半数近い漫才師が廃業せねばなるめえよ。

三、グランプリ是非

 今回の件を受けて、グランプリ自体に問題があるのでは、とか、審査員を変えろ、などという意見やツイートも度々目の当たりにした。

 しかし、これはよろしくないと思う。こういう悲劇を無くすためにグランプリを無くせという意見こそ、前から問題になっている、「みんなでゴールみんな一位」というような平等主義に見せかけた暴論である。たとえ吉本が先陣を切っていようとも、出世の緒をそんな理由で奪うのか。

 それこそ悲劇ではないかしら。みんなが争わなくなる、ということは一見平和そうであるが、裏を返せば誰か売れる事さえも許さない、という圧迫されたディストピアである。

 人生が左右されている!――という意見もあった。そりゃ賞金が出る、人気が出る、という意味では優勝しなければ価値が無い、と見えないこともないが、しかし何千組という中を勝ち残ってきて、あのようなゴールデンタイムで堂々と演じられる事だけでも栄冠とおぼえるべきではないのか。不平不満を言うのは自由であるが、だから無くせというのは凄まじい暴言である。

 こういうコンクールやグランプリを無くしたとして、若手が売り出すにはどうしたらいいか、となると、もうこうなったら大御所に可愛がってもらうか、会社に気に入られて売り出されるしかない。そうなると当然、つまらなくても大御所に気に入られるようなタイコ持ちがのさばるだろうし、会社側は会社側で、若手は一切出さず安定して金になる輩にしか頼らなくなる。

 こちらこそ日本人の有識者と名乗る面々が名乗るえこひいきであり、酷い世界ではないのか。

 売り出すという事は、他の人や椅子を奪ってそこに居座るという事である。それが芸人の宿命であり、プライドであり、許された特権ではないのか。

 ただ金をくれ、地位をくれ、差別をするな、などとほざそくなら芸人を辞めるべきである。こんな芸人のレースで困憊するくらいなら、他の職につくべきだ。それを承知で芸人になったのはないだろうか。そう考えると、最近の発言や有識者もどきの啓蒙は、実におかしいものだらけだ。安全地帯からだといくらでもいえる理論、かしらん?

 しかもこういうグランプリやコンクールで人生を左右された例は、昭和の御世から存在する。特に一九五六年よりはじまったNHK漫才コンクールなどは、その魁的な存在であるが、これなんざもっとひどい。私の専門分野故、色々な暗い部分を知っている、という事なのかもしれないが、M-1グランプリの比ではない程、人生を左右されたという。もっとも時代が違うといえば、それまでかもしれないが。

 いくつか事例を上げてみよう。まず昭和三十六年に優勝した東まゆみ・大和わかばという女性コンビ。今でこそ若手の女性コンビなど、有名無名問わず、それはそれはごまんといるが、その当時、若手同士の女流漫才というのはヒジョーに珍しかった。

 彼女たちと大体同年の、言うなれば昭和生まれの若手コンビが、後年地下鉄漫才で一世を風靡した三球照代の片割れ、春日照代・淳子、香川染團子・染千代くらいなものであった。後は母娘だとか、師弟だとか、老年同士のコンビなどが殆どで(例外に内海桂子好江がいるけれども、桂子さんの年齢から考えると母娘みたいなものになる。好江さんからすれば絶対嫌だろうけど)、そういう若い花というのは貴重であったのはいうまでもない。

 しかし、彼女らの漫才が優れていたか、というと少々疑問の残る所で談志なども「今一歩」と述べている所を見ると味はあったが、まだ若くて成熟していない所もあったのだろう。

 そのコンビが一位をとった。然し、コンクール終了後、関係者であるコロムビアトップは散々愚痴っていたそうだ。

「本当はウチのうれしたのしが一位だったんだ。それを点数を交換して、まゆみわかばが一位、うれしたのしが二位になってしまったんだ。なんだこりゃ」と。

 これは、当の青空うれし氏から聞いた話なので、嘘ではないだろう。現にこのうれしたのしのコンビはコンクールでも最右翼とされていた。それがこのような形になってしまったのだから、当人たちは怒ったのはいうまでもない。

 また、こういう例もある。

 先日も徹子の部屋に出ていた泉アキの旦那、桂菊丸。名前の通り、元々は桂米丸の身内で兄の高丸と音曲漫才やコミックバンドをやっていた変わり種である。こういうと菊丸氏に悪いが、漫才としては異色で、寄席や劇場よりもキャバレーや歌謡大会向きの芸であった、という。

 このコンビがコンクールに出るために暫定的に漫才協団へ入会し、出場した。そこまではよかった。当然、この時には強豪と呼ばれるメンツがうじゃうじゃと居た。そこそこ知られた存在を上げると、大空みつるひろし、東京二京太、青空月夫星夫、榎本晴夫志賀晶、南順子北ひろし――これは後年あした順子ひろしとして大輪を咲かせた記憶はまだ新しい。

 彼らのキャリアと比べてみると、菊丸高丸は新人同然であった。が、蓋を開けてみたら彼らが優勝してしまった。しかも周りが新作ネタを演じる中で、彼らは十八番のネタ『西部の兄弟』を演じて優勝したのだから、師匠連がおさまるはずがなかった。

 結局ゴタゴタがあったものの、特別賞に師匠連と同期である老芸人、丸の内権三・助十というコンビが選出された事や、関係者の暗躍でこの優勝は決まってしまった。

 と、まあ、このような悲劇やてんやわんやを上げれば実にきりがない。この手の話はまた別の機会に譲るとするが、勝っては泣き、負けては泣き、コンクール故に狂った人も、コンビを解散せざるを得なかった人もいる。何もこれは古い人ばかりではない。かのビートたけしも、昭和のいるこいるも、おぼんこぼんも、辛酸を舐めた。さぞ嫌な事も多かった事であろう。

 しかし、このコンクールのおかげで売り出した面々の数を考えると、残酷ながらもこういうものがないと若手は起爆できないような気がしてならない。これは漫才のみならず、創作にしたってそうだ。

 考えてほしい。もしこれから先すべての公募や賞が廃止され、金になる人かコネのある人だけが作家になれる時代が来たとするならば、誰が得をするか。答えはいうまでもなく、有名人であり著名人である。先日の又吉直樹の例ではないが、露骨に売り出したいばかりに、あのような醜態を晒すこととなる。コンクールが残酷だからとて、そのような事を許すべきなのか。私としてはそちらのほうが残酷だと思う。

 残念ながら、グランプリやコンクールとはそういう価値を持ったものなのだ。M-1グランプリだって当てはまる。

 もっとも、それを評価するのが難しい、というのは前提条件である。再三繰り返してきたように、漫才にはテンプレート性がなく、先人と比べるにはあまりにも難しい性質のもの故に、その解釈の違いが生まれてしまう。今回の事例は、その解釈の違いや残酷性が一層露見した回、とでもいうべきであろうか。

結論?

 と、まあ偉そうになんやかんや、申してみたものの、結局、私の意見は糸目の切れた奴凧と同じで、あっちへフラフラ、こっちへフラフラと漂うばかりで、これという話もないわけである。そして、語ることもこんがらがってきた。

 どうでもいい話であるが、ふしぎなくすりを聴きながら書くとこうなる。あれは洗脳ソングである。竹下通りでポールダンスを踊りたくなるし、渋谷で海を見てしまうかもしれない。

 価値観のすれ違いがこの悲劇を生み出したように思えるのだが、真相や如何に。

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