「ヨガが上手」とは?(その3)

神聖なる愛しい自分の肉体は、決して自分一人で培ってきたものではありません。
両親をはじめ、その父母、またその父母…が綿々と受け継いできた生命があったからこそ、今、この肉体があるのです。

そして、その肉体をあーだこーだと「ああしたい」「こうしたい」とアーサナ(ヨガのポーズ)の型にはめ込めようとしていると、思うようにいかない自分の肉体が疎ましくなったりしていませんか?
最近のヨガ事情から見ると、アーサナ至上主義になりがちで、ポーズに自分や自分の体を合わせようと苦悩したり、その結果、怪我をするヨギが多いように見受けられます。

ポーズに自分の身体をはめ込む。
そんな方法がヨガ上達のための練習であれば、ヨガは纏足のようなもの。
自分に無理強いし、他者からの評価を期待し、自己満足感を得るもの。

纏足して、自由に飛び回れますか?
そこに自由さや豊かさを感じられますか?

人それぞれ目的は違えど、ヨガは本来、アヒムサー(非暴力)なもの。
他者だけでなく、もちろん自分への暴力や怪我も慎みたい。
怪我はアステーヤ(盗む)、自分の大切な時間を費やすことにも繋がります。

そんな苦悩の耐えないヨガの練習を続けていると、楽しいはずのヨガも楽しくなくなってしまいます。
では、どうして苦悩するのでしょう?
それは「無明」、つまり「知らない」からなのです。

まだ続く!

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