「ヨガが上手」とは?(その4)

多くの人は、体や心に何かしらの問題があったり、苦悩から解き放たれたくて、ヨガに一筋の道を見出し、ヨガを始めたはずでしょう。
なのになぜ、ヨガが新たな苦悩を生んでしまうのでしょうか?

そのヒントは「無明」=「知らない」ことにあると私は思います。
それは知識不足とか、勉強不足といったネガティブな意味合いではなく、
明るくない、きちんと知らない=無明だからだと、
パタンジャリ先生は「ヨーガ・スートラ」で説いています。

例えば、アーサナ(ヨガのポーズ)であれば、
そのポーズの特徴をきちんと知る。
少なくともそのポーズの特徴を3つは見つけてみる。
そして、自分にとってそのポーズはどんな影響をもたらすのか、実際に体で感じてみる。
ポーズを体験しながら、自分の体にとって、体の部位をどう置き、どのように使い、どうするのが安定していていて、心地よく続けられるのか、眺めてみる。
「ヨーガ・スートラ」でパタンジャリ先生が
「アーサナとは安定していて、快適でなければならない」と説いているように、みずからも実践していきます。

そのためには、ポーズの特徴だけでなく、自分の体についても仔細に知る必要がある。
そこにはやはり「明るさ」、本当の自分をきちんと知ることが必要だと思います。
人は大抵、自分のことは大きく見積りがち…笑
これぐらいならできる、
もっとできるはず、
いつもの私ならこんなのおちゃのこさいさい、
こんなはずじゃない、頑張りが足りない…など、どんな人でも心当たりがあるでしょう。
それらも「無明」と同じ現象、自分のことをきちんと知らずに、見誤っているのです。

あのヨガのポーズのために、体の部位をああしたい(執着)。
しかし、自分の身体としてはこう(明るい、知っている状態)だから、こうするほうが快適(離欲)。
そのヴァイラーギャ(離欲、無執着)とアビヤーサ(執着)との間で身体の感覚を辿りながら、自分の身体に興味を持って深く探っていく。
それがヨガの実践であり、ヨガを深めることではないかと思います。

私はそんなふうに自分の感覚を辿りながら、ポーズや自分へと興味を深められる人、つまり、体の感覚を頼りに、体の部位の置き所を模索し続けられる人がヨガが上手な人、ヨガができる人だと思います。
「こうしなければならない」ではなく「こうしたらどうかな?」と興味を持って探りながら、深めていける人。
善し悪しではなく、好奇心を持って修養し続ける人。

ポーズの完成形は人それぞれ。
その違いこそが美しい。
その人が、そのポーズに行き着くまでの探求心や選択に、私は美しさを感じます。
この探究心や好奇心、選択は、AIヨガインストラクターやAIモデルには真似できない!

そして、ヨガを通していつも思うこと。
私の先生の師匠 シンディ・リー先生のことばを紹介します。

マットの上だけがヨガではない。
私たちはマットの上で人生を学び、マットの外の世界でヨガを学んでいる。

ヨガマットの上で起きていることは、人生そのもの。
明るく、苦悩の少ない人生のほうが幸せですよね。

ヨガが私の人生にもたらしてくれた光。
それは、自分の感性を頼りに、自分や他者、他のものに興味を深め、心の置き所を探索すること。
いつも導いてくれる光は、自分の中にあるのです。

もっと簡単に言うなら、自分の「トリセツ」がちゃんとわかっていて、苦悩が少なく、幸せな人生を送りたいなぁと思います。
それが人生を楽しむコツかもね?!

終わり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?