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『バイオーム』の世界を生きる人たちと作中の「生」と「死」の意味付けについて(感想)

わたしをけものと呼ぶのは誰か
わたしをにんげんと呼ぶのは誰か
それは事実は真実か虚構か嘘か、庭先に語られる一つも美しくない物語

『バイオーム』より

はじめに
 先日、『バイオーム』を観劇した。観る人の今まで積み上げてきた人生経験や、その時の精神状態によって異なる見え方をする作品だと思う。あれは私の目には末恐ろしく映った。
基本的には大人から子ども、高齢者まで、多くの場合悪意なく誰かを傷つける人たちが出てくる作品で、一概に「誰々が悪い」とは言えないのが絶妙な構成だったように思う。
 これまで、彼女の作品は私にとって容易く感想を口に出来るようなものではなかったし、他人に共有できるようなものでもなかった。ただ、『バイオーム』については私なりにちゃんと書き留めておきたかった。これは私が感じた感想なので、こういう人もいたんだ。という体で読んでほしい。

まず、この作品は何かしらの「生きづらさ」を抱えている人に強く刺さると思う。観る人によっても感想は変わるだろうし、人によってはこの作品がナイフのような凶器にもなり得ると思う。それでもこの作品を必要とする人たちは絶対にいる。私もその一人だ。
 さて、ここでは下記のような構成で話を進めていきたい。出来るだけ、ネタバレには気をつけて書いたものの、どうしても核心部分に触れざるを得なかったところもある。未見の方は注意してほしい(物語の雰囲気を知るために…ということであれば①までは読んでもまだ大丈夫だと思う。前情報なしで観てほしいので悩むところではあるけれど……ちなみにバイオームの再配信は6/22~6/28なので気が向いたら観てほしい)
 
①あらすじとそれぞれの登場人物が抱えている苦しみについて
②ルイの内面と彼が置かれた環境について
③バイオームにおける「生」と「死」の役割
④上田久美子作品の根底にあるもの

①あらすじとそれぞれの登場人物が抱えている苦しみについて(ルイの家族中心)
ーあらすじ
バイオームは、令和が舞台の日本の政治家一家の没落を描いた作品である。政治家一家の跡取りとして生まれた一人息子のルイは、いわゆる「普通」の子とは少し違った特性を持っていた。彼は夜な夜なベッドを抜け出し庭のクロマツの下で夜を過ごしながらフクロウの声を聴くのを楽しみにしていた。
それを善く思わないのが彼の家族たちで、母親は息子が思い通りにならないことにヒステリックになり、元政治家である家長の祖父は跡取りとして相応しくないとルイを抑圧する。父親の仕事は多忙を極め、妻に「母親」としての役割を強く求める。老いた家政婦には誰にも口外していなかった知られざる過去があり、家政婦の息子である庭師の心には諦めきれなかった想いが燻っていた。この作品は生きることで精一杯な人間サイドと彼らから少し距離を置いてメタ的にみている植物サイドに分かれて進んで行く。ここでは人間サイドを中心に話を進めていきたい。

ーそれぞれの登場人物が持つ苦しみについての所感(ルイの家族中心)
ルイの母親(怜子)について
  先ほども述べた通り、物語は一人息子のルイが夜な夜な庭先へ抜け出すことが家族に問題視されるところから動き始める。母親の玲子は、問題行動を頻発する息子に対して怒鳴り、手を上げてしまう。彼女は母親としての責任を全うできない後ろめたさ、政治家一族に生まれたことで生まれる前から進路を決められ自分が何者にもなれない無力感に打ちひしがれている。彼女はそんな現実から逃避するようにママ友の花療法士を頼り怪しいセラピーにのめり込む。

ルイの父親(学)について
 学はこの家に婿養子としてやってきた。彼は怜子のヒステリックな態度に心をすり減らしながら、一方で家長である祖父から一族の跡取りについて心配され、もう一人優秀で政治家に値するような子どもをつくるように求められる。彼は当初怜子を愛そうとしていたが、専門医でない彼には彼女をケアすることが出来ず今ではセックスをするのも恐ろしいと感じている。抑圧された彼のストレスの矛先は仕事先の秘書に向いており、彼は己の立場を用いてセクシャルハラスメントとして訴えられてもおかしくない言動を繰り返し、その秘書と不倫している。

ルイの祖父(克人)について
 彼は政治家一族の家系に婿入りして、戦後の政治を支えてきた。自分が私生活を犠牲にして頑張ったからこそ、この家はここまでやってこれたという自負を持っており、自らの後継者である学を信頼している。自分が総理大臣になれなかったのは、平民の生まれだったからだというコンプレックスがあり、この家の跡取り息子として生まれた者(現状のルイの立場)なら、この国の総理大臣にもなれると信じている。自らが手を伸ばしても届かなかったポジションに彼は執心しているため、ルイに代わって学に新しい子どもを作るように求めている。

といった具合に、大人から子ども、高齢者まで悪意なく誰かを傷つける人が出て来る。
この作品を観て、悪意があって他人を傷つけるという人は本当は稀で、多くの場合、自分が生きるために必死だからこそ結果として他人を傷つけてしまうのではないか。と考えていた。とはいえ、誰かに虐げられたから、深い傷を負ったからといって、それが他の誰かを傷つけていい理由にはならない。それは苦しみの再生産にしかならないので。この作品で描かれる「他人を傷つける」行動の裏側にあるものは社会構造の歪みから生まれたものなんじゃないかと思う。庭師の親子に関しても核心部分に触れる為詳細は控えるが、彼らが持つ問題の根底にもまた社会構造の歪みが強く影響している。ここでいう歪みというのは、次に並べる通りである。

優生思想、家父長制がもたらした歪み(性別役割分業による男性と女性の分断)、子どもを生んで育てて一人前という価値観、シングルマザーへの負担、自分の人生に選択肢がないこと、身分や立場の異なる者への抑圧、当たり前にもたらされる偏見や差別心の内面化、「普通」ではない者への風当たりの強さ

これらによって人々が抑圧された結果、他者の尊厳を踏みにじったり搾取する行為(ハラスメント、虐待)に発展するのだと思う。この主たる被害者の一人がルイだ。(他にも怜子や庭師の男をはじめとして全員を被害者として書くことはできるが、今回はルイの受けた被害に着目したい)

②ルイの内面と彼がおかれた状況について
 まず、ルイの造形について触れたい。彼は社会に適応するのが困難で、言われた言葉をそのまま受け取る節があり、悪意なく誰かを傷つけ、多動で不注意な子どもとして描かれている。彼は自らが置かれた立場を理解しておらず、周りの大人がやるように身分に基づく偏見・差別を悪意なく行う。その一方で、植物に親しむ強い感受性、問われた数式を一瞬で答えられるなどの知能の高さを発揮する。
 この作品においてのルイは子ども故の無邪気さをもっており、社会に適応する上で困難になり得る特性を上手く扱うことが出来ておらず、悪意なく他人を不快にさせたり動揺させ心配を掛けてしまう。けれど、彼もまた母親である怜子と同じように自分の人生に対して十分な選択肢を与えられていない。そもそも、子どもである彼にそういった行動への責任を求めるのも酷な話だ。
 少し話は逸れるが「普通」ではないルイを父親の学は「ああいう子の中には天才もいるらしい」云々といった趣旨の言葉で再定義しようとする場面が個人的に引っかかった。これは「天才」という価値をルイに対して付与することで、彼に対して何らかの価値を見出す心理が働いている他、「天才」という枠組みに入れることで「個人」として理解することを放棄しているように受け取れた。
 恐らくルイは、別の惑星から言語も文化もまるきり違う地球に来た宇宙人のような気持ちで日々を過ごしていて、でも外見だけは地球人「らしい」から、あの家では地球人としての振舞いが求められる……みたいな状態なんじゃないかと思う。

③バイオームにおける「生」と「死」の役割
 最終的にルイが受けてきた家族からの虐待や抑圧が影響して、彼に「死」を選ばせてしまう。ただ恐らく彼は何も自殺をしようと思ってセコイアの木に登ったわけではなく、あの家ではないどこか美しい場所に行きたかったからセコイアの木に登った。結果として彼は人間の価値観に囚われない美しい場所に辿り着くことができた。肉体が還り、「生」から「死」の状態へ変化した。バイオームでいう「生」と「死」は次のように受け止められるだろう。戦後の資本主義がもたらした歪み、人をモノとして消費する社会(生)→そこから解放され利害関係なく共に手を取り合える植物たちの世界(死)といったところか。
 ただ、私にはルイが死ななければならなかった……もっと言えば、社会に殺されなければならなかったのがとにかくしんどいと感じる。そうならない選択肢はなかったのか。彼が作中で抑圧された大人たちの被害を受け止めて、自ら身を滅ぼす加害に至ってしまったこと。これは本当に防げなかったのか。彼だけではない。悪意なく他人に被害を加えてしまった大人たちも、悪意あって他人に被害を加えた大人のこともその背景を考えているだけでとにかく辛くなった。
 元々異なる性質や立場を持つ者同士が否定せずに、この社会でどうすれば歩み寄れるのか(お互いを否定せずに生きられるのか)と考えているが、中々「これ」という答えがでない。個人レベルで出来るのは、ただ立場や利害関係に囚われず一人の個人として相手を理解しようとすることなのだとは思うけど、個人の力だけで社会の歪みがもたらす苦しみを取り除くことは難しくて、じゃあどうしたらいいんだろう……と頭を悩ませているところである。
 私のバイオームを観劇しての感想は上記の通りである。

④上田久美子作品の根底にあるもの
 最後に、少しだけ上田久美子作品の好きなところについて語らせてほしい。私は彼女の作品には目を逸らすこともできない強い「生」のエネルギーが流れていると思っていて、困難に立ち向かい泥臭く生きる姿だとか、信念を持って強く生きる姿に特に心惹かれている。「死」をエンタメとして消費せずに万物すべてに等しく訪れるものとして描いているところが好ましい。これは『バイオーム』だけでなく『金色の砂漠』でも感じたことだけれど、上田久美子作品では「死」が、「この世のしがらみから解き放たれて一人の個人として向き合える」意味合いを持っているように思われる(そしてそれは決して「死」そのものを肯定しているわけではない。舞台装置の一つとして「死」という分かりやすいモチーフを用いているのだと思う。)

彼女の作品から放たれるメッセージ性を私は次のように受け止めている。「生きていれば当然辛いことがある、苦しいことだってある。それでもこの社会でいずれ必ず訪れる「死」に向かって私らしくあなたらしく信念を持って生きよう。この社会であなたがあなたであることを忘れないでね」と。これは多分、私の願望も入っているけど、私はこのメッセージ性に強く勇気づけられている。

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