見出し画像

一章──病院を抜けて

「はぁ……面倒臭いですねぇ」

 ため息をつけば幸福が逃げるという流言があるが、コンビニ袋片手に病院の廊下を歩く帳は自身から逃げる幸福など残ってはいないだろうと考えていた。
 山城朝日の誘拐事件に帳が始末屋として介入してから数日。
 満足な食事さえとれていなかった朝日は、経過観察も兼ねて石凪(いしなぎ)総合病院に入院していた。依頼人である山城家への報告は巻奈が行い、帳はお見舞いと護衛を兼任する日々である。高校に関しては適当な理由をつけて長期休養を申し出ていた。

「あら、帳くん。お見舞い?」
「はい。漸く退院らしいので」

 既に廊下を歩く患者や看護師の中で顔馴染みになった者も一人や二人ではない。挨拶が絶えない辺り、帳の愛想笑いをする才覚はそれなり以上にあるのだろうか。
 アルコールと薬品が混じった香りが鼻孔を刺激する感覚にも再び慣れてしまいそうである。
 汚れが目立つ白を基調としていながら清潔さを維持している廊下を進み、帳は目的地へと辿り着く。

「お嬢さ……山城お嬢さん、体調はどうですか」
「由来木屋か。いつもお見舞いご苦労様」

 扉をスライドさせれば、ベッドの上で半身を起こしている少女の姿があった。曇りを知らない空に似た長髪を枕へ乗せ、入院前に着用していたドレスを白の患者衣に着替えて。
 部屋には彼女が使用している物とは別に三つのベッドが主の往来を待ち焦がれていた。シーツの上にはシワ一つなく、コンディションは万端。スポーツであれば後は監督の采配次第。だが彼らがその本懐を成し遂げるのは、少なくとも彼女が退院してからの話である。
 山城家の一人娘が入院するということはそれ程、大事であるということ。

「労をねぎらうんでしたら、一日でも早く退院して下さいよ。それが一番苦労しないんですから」

 肩を竦めると、帳はベッドの近くから丸椅子を取り出し、腰を下ろす。そしてコンビニ袋の内から掴んだコーヒー牛乳へ口をつけた。

「身体はもう大事ない。元々お主らが誘拐された妾をすぐに助けてくれたからの」
「なるほど。でしたら……今日にも退院ですかなぁ」

 帳は億劫そうに呟くと、夕焼けを映す窓の外へと視線を向ける。
 朝日の近くにある窓はカーテンに覆われているが、その隣の窓からなら、病院の正門付近で待機している柄の悪い男達が視認できた。
 髑髏のマークを刻んだマスクで口を覆う者、バイクを不要に吹かして地球温暖化に貢献する者。命のやり取りとは無縁の生活を送って来た者にとっては、なるほど確かに脅威の戦力となろう。だが彼らは所詮、視覚情報に頼り切った半端物。
 帳からすれば呑気にコーヒー牛乳を飲む余裕まである。

「何か問題でもあるのか」
「出待ちされてるんですよ、お嬢さん。大方、有名税の徴収なんでしょうねぇ」
「……病院の誰かに迷惑はかかっているのか」

 一時の沈黙の後、朝日の言葉が質量を伴って吐き出される。希望的観測、という自覚があるのか。言葉とは裏腹に表情は沈鬱を具現化したようで、救出された直後と比較しても一目瞭然である。
 彼女がどのような回答を求めているかと想像し、帳は底意地の悪い笑みを作る。

「そりゃあもう。
入院患者のお見舞いには来れないし、救急車も出動できなさそうですねぇ。あぁあ。おじいちゃん足引っ掛けられてこけちゃいましたよ」
「今すぐやめさせよッ!」

 窓から覗ける風景を実況すると、朝日が大声を上げた。勢いよく飛び散る汗が布団の上に染みを作る。

「その言葉を待ってましたよ。安心して下さい、五分で終わらせて後はこっちで楽しみますから」
「待て、ただ迷惑を働かぬようにすればいいのだぞ? 何をするつもりだ」
「もちろん、生まれてきたことを後悔させながら死なせるんですよ。幸い、病院は近……」
「すぐに人を殺めようとするなッ! 人命をなんだと思っているッ?!」

 病院側への迷惑を省みず、朝日は声を荒げた。布団を掴む小さな手に力が籠り、帳へ注ぐ目線はナイフの如き鋭利さを増す。
 注がれた帳はどこ吹く風、といった様子で朝日を眺める。

「じゃあ、どうしますかぁ。流石の僕も子供を庇いながら帰宅する、ってのは面倒なんですけどぉ」

 口にして指差す先は、窓の反対側。
 一目すれば分かる。相手は素人である。ならば正門さえ封鎖すればそれでよし、と他の出口が手薄になっているに違いない。喧噪が正面からのみで他方からは聞こえないのが証拠。
 仮に誰かが待機しているとしても、所詮は有象無象。報告すらさせずに撃滅が可能である。

「……そうだな。依頼されたといえども、お主に頼り切りというのも問題がある。
 一度部屋を出てくれないか。着替えたい」
「別に僕は子供の裸を見ても大丈夫なタチですが」
「妾が、気にする」

 そういうもんですか、と呟き帳は席を立つ。相手が気にするのだから仕方ない、扉の前で待機しておく。
 扉を閉め、廊下に立つ帳。右に持つコーヒー牛乳を大きく傾けて、喉を潤した。
 敵を撃滅するにしろ見つからないように帰宅するにしろ、病院を出てから目的地に一歩でも足を踏み入れるまでは油断できない。おそらくだが、喉の渇きを満たす余裕もなくなるだろう。
 故に、今の内に中身を飲み干して水分を補給する。

「皐月荘まで辿り着けば、奴らも手出しは出来ない。問題はどうやってそこまでの安全を確保するか、ですかねぇ……
 バイクの免許だけでも取っておけばよかったんですが……」

 コンビニ袋に空の容器を突っ込み、帳は空いた手を顎に当てた。
 朝日のいる部屋こそ個人で使用しているが、病院そのものを貸し切っているのとは異なる。だから如何に五階といえども、部屋の外で待機している帳の前を看護師や入院患者が通り過ぎることも当然あり得る。
 一人、二人、三人……

「いっそ着替えてる間に全員叩き潰せば……流石に無理ですね」

 四人、五人、六人……

「お嬢さんが潔癖でさえなければ、ただ片っ端から格の差を教えるだけの簡単な話なんですがねぇ……」

 七人、八人、九人……
 病院が繁盛することは望ましい状況とは言い難い。
 それも五階となれば、受付へ往来するだけでも患者の負担となってしまう。故にこと石凪総合病院では、何らかの事情で個室を望む患者へ優先して手配するようになっていた。
 当然、そんな限定的な条件であれば自然と五階の住民は数少ない。
 だというのに、遂に帳の前を二桁の人物が通り過ぎたのだ。

「ただ帰るだけなのに、随分な化粧をしてませんかぁ。山城お嬢さん?」

 帳は扉の向こうへ声をかけるも、返ってくるのは無音の静寂。
 脳の裏が僅かに焼ける感覚。場数を踏んでなければ認識することすらできないような、虫の知らせ。経験などという曖昧なものでのみ語れる感覚が、扉にかけた手へ力を込めさせた。
 周囲への配慮など度外視した勢いで開けられた部屋は、春の冷たい風を以って帳を歓迎する。

「あのガキッ……!」

 肌を撫でる寒風も気にならない程に血が湧き立ち、血管が火傷する程に循環。帳は衝動を抑えるためにヒビが入ることも厭わずに奥歯を噛み締めた。
 無人のベッド。手すりに結ばれているのは、部屋中の掛布団やシーツやカーテンを集めて作られた即席のロープ。ロープが伸びた先には、沈みゆく太陽が覗ける窓。そして階下へと続いているであろうそれが何を意味するのかなど、無人の部屋と合わせれば幼子でも理解できる。
 舌打ちを一つ。
 帳は反転し、部屋から駆け出していった。


 病院に相応しくない、他者を嘲る下品な嗤い声が辺りに木霊する。
 総合病院と道路を隔てる正門を不当に占拠する不良集団が発するそれは、ただ鼓膜を震わせるだけで不快感を激しく煽った。だというのに、付近をうろつく老人へ手を出して嘲笑している光景を目の当たりにすれば、吐き気までも誘発してその場に留まる気力を奪われていく。
 男達は雇われの身でありながら、己の欲望を満たすためだけに力を振るっていた。
 依頼人が指定した目標が現れていないというのも一因ではある。が、所詮それは二次的な要因。

「おじいちゃんさぁ、ここが通行止めだって分かんないかなぁ? ギャハハハ!!!」
「うぅ……」

 鉄パイプがアスファルトを擦り、チェーンが空を切って振り回される。
 唸るエンジンが取り囲む中央には、腰を痛めて項垂れる老人が一人。周囲に散乱している色取り取りのフルーツは瑞々しく、傷口から果汁を滲ませていた。きっと、入院している孫か子供へのお見舞いのつもりだったのだろう。
 口元に下卑た笑みを携えた男が一人、近くに転がっていたリンゴを踏み潰した。老人と視線を合わせるために腰を下ろすも、そこに対等という意識は砂一粒分もありはしない。

「まぁ、仕方ねぇよなぁ。おじいちゃん戦争だのバブルだのでボケちゃってるもんなぁ???」
「うぅ……勝ぅ……」
「おいおい、泣いちゃったぞ。やりすぎたんじゃねぇか、加藤? アヒャヒャヒャ!!!」
「もっと大きな声じゃないと聞こえないよぉ、おじいちゃぁん???」

 取り巻きが嘲笑えば、加藤と呼ばれた男もわざとらしく手を耳に当てて、老人へと身体を寄せる。
 彼らにとって、自身の力を振るって弱者を踏み躙れさえすれば、相手が目標の人物だろうと無関係の老人だろうとも関係がない。ただ誰かよりも己が上であることを確かめることさえ可能であれば、喜々として小動物でも甚振っていた。
 今回は、たまたま歩道を歩んでいた老人がターゲットになった。それだけで完結する話。

「やめよ。下郎」

 たった一つの言葉で、嘲笑が止む。
 声の主は決して広くはない歩幅で男達へ近づく。彼らの腰程度しかない体躯でありながら、向かう先にある末路を理解しながら、なおも少女は断頭台への十三階段を登っていった。
 震え一つない堂々とした歩みは、モーゼが海を割るかのように男達の囲いを崩させる。

「大丈夫か、おじいさま。肩は貸せぬが、せめてこれを」
「おぉ、お嬢ちゃん。ありがとう……!」

 少女は近くに転がっていたオレンジを掴み、手で埃を払ってから老人へと手渡す。
 地獄と思われた場で施された親切に涙を流す老人へ少女が目を合わせられないのと、彼の背後で無残な有様となったバスケットは無関係ではない。俯くように目を伏せると、少女は口を開く。

「ここは妾に任せておけ。お主には待っておる者がおるのだろ?」
「いいのかい……?」

 老人の言葉に混ざるのは戸惑いと躊躇い。
 不良染みた男に囲われた状況に少女を一人置いていっていいのか。いくら少女に任せて、と言われたからといって素直に従うには不安が過ぎる。
 病床に伏せている孫と年端が離れない容姿をしているのも、躊躇を助長させた。

「安心するのだ、妾に構うことはない」
「……」

 少女の思いを汲んだのか、老人は腰を抑えながら立ち上がると、可能な限り足を速めてその場を立ち去る。
 途中、横切った不良が拳を振り上げるものの。

「今更ほっとけよ、そんな雑魚」

 加藤が手を掲げてそれを制する。
 目標が自ら囲われてくれたのだ、それ以外の獲物で遊んでいる場合ではなくなった。
 退屈凌ぎで面倒を引き起こしている身では説得力がないであろうが、他の連中よりはマシな程度の判断力を有してはいる。だからこそ依頼者から烏合の衆に過ぎない不良共のまとめ役を一任されたのだ。
 自ら囲われにきた少女へ、加藤は露悪的に口元を歪める。

「一応聞くけどよぉ。お前が山城朝日、ってことだよなぁ?」
「違いない」
「つうことはよぉ。お前さえやっちまえば、俺達は大金でウハウハってことだよなぁ?」
「お主らの事情になど興味はない。ご老体を甚振って楽しむ下郎の事情など」

 目が眩むような衝撃に、加藤は右手を添えた。周囲を囲っていた不良もこぞって拭き出しそうな口元を抑える。
 まさか、まさかアレか。あの少女はアレを目指しているとでもいうのだろうか。金持ちの娘というものは、そんな夢想を抱けるまでに世間を知らないというのか。

「何だそりゃ、クク。正義の味方でも……気取ってんのか……? ハハハ……!」
「正義の、味方……? なんだそれは。
 妾はただ、上に立つ者として当然の振る舞いを……」
「ハハッハハハハッハハハッハハハハッハハアッハハハハッハハハハハハッッッ!!!」

 そこまでが臨界だった。朝日の言葉を遮り、爆笑の華が辺りで咲き乱れる。
 得物を零して腹を抱える者、歩道を転がっている者、笑い過ぎで息が苦しくなっている者まで十人十色。各々が行える最上級の手段で可笑しさ、滑稽さをアピールしていた。
 道化師とは笑われることが本分。ならば誰かが嗤ってやることこそが最大の温情ではないか。笑い声の一つも聞こえない道化師程、哀れなものもないのだから。
 尤もこれは演目ではなく、発言者もまだ二桁にも満たない少女。

「何を嗤う。何が滑稽だ」

 不良が腹を抱える原因がまさか自身の発言とは思えず、朝日は不快さを露にして眉を潜める。桜色の瞳が鋭利さを増して、加藤へと突き刺さった。
 肌に突き刺さった感触を蚊に刺された程度に感じ取り、加藤は視線を地面から朝日へと戻す。

「ハハハ……あぁ、何が可笑しいってそりゃあ……」

 右手が順を追って握られる。硬く、硬く、岩をも砕くように。
 振り下ろす先など問い質されるまでもなし。依頼人からの要求はデッドオアアライブであったのだから。

「テメェの現実の見えなさがだよッ!」

 殺意が拳の形を以って風を切る。
 弾丸の如き速度と岩石を連想させる硬度。そして人為的に作成されたが故に最適化された破壊を伴って。
 己の腰程しかないない体躯の少女を屠るため。そして少女一人というリスクとは釣り合わない破格の報酬を得るために。
 だが釣り合わない報酬には常に、釣り合わせるための重しが存在する。
 拳が掌に打ち付けられ、空気が破裂した。
 撒き散らされる空気の波が掌のすぐ後ろにある空色の髪を揺らす。決して閉じられることのなかった桜色の瞳は、横から差し込まれた右腕の持ち主へとゆっくり視線を移した。
 白の白髪と対のような黒のインナーは腕を伸ばす過程で捻られてる。何故か腰に巻かれたデニム素材のジャケットが大気の振動を敏感に察知し、砂色のカーゴパンツがパラシュートよろしく一瞬だけ膨らむ。荒事を嗜む割には白い肌の表面に、いくつかの血管が脈動していた。

「この馬鹿共は、本当に死んだら治るんですかねぇッ……!」

 漏れ出した言葉に宿るは、隠すつもりすらない怒り。
 朝日の視界からは脈打つ血管として、加藤の視界からは歯の隙間から漏れ出す白い呼気として。それぞれが互いに得られる情報から乱入してきた存在の激情を読み取る。

「始末屋かッ……!」
「由来木屋……」

 帳が加藤の拳を握る手に力を込めると、彼の言葉に苦痛の色が混じった。
 無論、感情のブレーキが怪しい帳にそんなもので抑えるつもりは微塵もなく。
 捻られた状況を利用して左腕を限界まで引き延ばして、弓を射る直前の如く力を溜める。二人の鼓膜には筋繊維が軋む音が振るわせているに違いない。
 一度喰らえば、命に関わる威力を秘めていることは素人でも見て取れる。

「止せ、由来木屋ッ!」
「チッ。分かりました……よッ!」

 一撃が振り下ろされるまさしく寸前、朝日が必死の表情で喉が枯れるのも厭わずに静止を訴えた。
 視線を一瞬だけ朝日へと向け、帳は捻られた腰が瞬間的に引き戻され、各関節が段を追って加速。限界まで溜め込まれていた力が一瞬の内に消費し尽され、拳を掴まれて逃げることすら叶わない加藤の顔面めがけて振り抜かれる。
 拳を伝って鼻の骨が砕かれる感触を、肉を食い破って噴出した血が生暖かい温度を帳に感じ取らせる。

「ッ、パァッ。ァ……!」

 朝日の訴えが通じたのか、あるいは単に殴る寸前に声をかけられたことで集中力が乱れたのか。加藤は肺から空気を吐き出し、そこに混ざった血が夕焼け空をモザイクに変色させる。
 だが不良の囲いを飛び越える勢いで殴られながらも、加藤は辛うじて意識を肉体に繋ぎ止めていた。
 舌打ちを一つ。
 帳は血に濡れていない右手で朝日の腕を乱暴に掴むと、やはり彼女の腕を千切れるかという勢いで駆け出す。

「クソが……逃げるぞッ!」
「ど、どこへ行くつもりだ。由来木屋ッ?」
「ガキの面倒を見ながら手加減してあの数をなんとかできる訳がないでしょうがッ。アンタの要望を全部飲むんだったら、無視するのが最善手なんですよッ!」

 無論、正面にいる不良も両の手では数えて切れない程にいるが、それでもここから回れ右して病院の裏門に回るのに比べれば遥かにマシである。そしてそんな無謀を行おうとすれば、手を握っている少女は烈火の如く怒り出すに違いない。
 現に眼前で鉄パイプを振り上げた不良を先手必勝で腹への一撃で沈められた辺り、練度は誘拐した連中と五十歩百歩といったところか。
 生きてはいるものの加藤が指示を出せない状態になってしまったからか、不良の統率は悪い。行動の制約が大きい子供を抱えている帳が脇をすり抜けているにも関わらず、散発的に殴るか蹴るかする程度の抵抗しか仕掛けず、簡単に捌けることができた。
 結果、視界から得られる情報よりも遥かに用意に包囲網を抜け出すことが叶う。

「ハッ。安物買いの銭失いとはよく言ったもんですよッ。次は……」
「あッ……!」

 帳は掴んでいた朝日を軽々と引っ張り上げ、両手で抱えると逃走を再開した。
 所謂お姫様抱っこという体勢であるが、帳は子供に欲情する趣味はなく、朝日はその意味も把握していない。加えて語れば今は一応非常事態、不埒な思考に頭を割く余分などありはしない。
 とはいえ、敵も烏合の衆ではあれども思考停止した案山子とは異なる。

「逃がすかよ!」

 内燃機関が燃料を燃焼させ、後方から唸りを上げてバイクが二人の視界に入り込む。
 音から接近する何か察した帳は、身体を猫背にして背後から横殴りに迫る鉄パイプを回避。そのまま直進を続けるバイクを睨みつけると、喉を鳴らした。
 深紅のボディを散りばめつつ、所々に漆黒の内部フレームが露出している車体。剥き出しのパイプは大方、全身に燃焼エネルギーを循環させて馬力を得るための措置なのだろう。一瞥しただけでは安全面の不安が拭えないデザインをしているが、違法な改造車と見て正しいと思われる。
 アイドリンクはしていたのだろうが、方向転換や速度を出すための距離が必要な自動二輪が追いついたのだ。速度の差こそあれども徒歩の不良も遅かれ早かれ追いつくに違いない。

「移動の足が必要な状況でわざわざバイクを運んで下さるとは……」

 遠目でバイクが車体を限界まで傾け、スライドブレーキ。路道にゴム質の跡を刻みつけて、甲高い音をかき鳴らす。運転手は足をつけることもなく、ハンドルの制動で進行方向を帳達へと改めて定めた。

「お嬢さん、山城家の権限で一つもみ消して欲しいことができそうなんですけど」
「な、何ごとだ。いきなり……そも、裏社会のものなら法など気にしないだろうに」

 燃焼時に生まれた排気煙がマフラーを介して吐き出され、威嚇を兼ねてバイクが前輪を浮かせたウィリー体勢で突進する。
 いくら二輪用レーンがあるとはいえ、道路の流れに逆行した運転はすぐ側を走る乗用車に少なくない動揺を与えた。中には急ブレーキで制御を失い、蛇行運転へ移行する車も現れている。

「言いましたね……反故にはしないで下さいよッ」
「なッ、正面からやり合う気か?!」

 騎馬兵のつもりなのか。不良は手に持つ鉄パイプを高らかに掲げる。
速度制限など超過した加速で風を切る敵に対して、帳は朝日を下ろすこともなく突撃。弾丸と形容するに相応しい瞬脚は、なるほど常人と比較すれば脅威となり得るものであろう。子供一人抱えてこの速さなど、全国の陸上部が切望するに違いない。
 だが相手は轟々しい唸り声を上げる鉄の馬。人間程度が超えられる速度でも超えていい速度でもなし。
 瞬きでもすれば即座に修正が効かなくなる速度域で両者は対峙し、急速に間合いを詰める。
 最大まで一撃を高めるため、不良がバイクの前輪を車道へ乱暴に打ちつける。三〇〇オーバーの重量とそれを駆動させる六〇〇馬力のエンジン、そしてウィリー程度とはいえそれらが地面に叩きつけられるパワーが複合すれば、人の命を奪うなど児戯にも等しい。
 だが、加速によって得られる力は正対する者にも恩恵を与える。

「跳んだッ?!」
「ハァッ!」

 短く息を吐き、帳は腰を捻って跳躍。
狙いは一つ、そこへ向けて右足を置く。バイクの左側へ重心を僅かに傾けることで、相手は鉄パイプの振り下ろすべき先を失った。
一瞬の交差に於いて、コンマ数秒の差であるとも勝敗を分かつには十分に過ぎる。

「ガッ……!」

 呻き声は首を絞められたカモにも似て。
 踵が不良の首を強かに打ちつけ、ハンドルから手を放す。
 片腕を朝日から離し、主を失ったバイクのハンドルを掴む。途端に腕へ圧し掛かる脱臼せんばかりの力。

「ッッッ……!」
「キャァッ!」

 歯を食い縛って耐える帳には朝日へと意識を傾ける余裕もなく、宙を舞う身体を強引にサドルへと下ろす。強引な手法だったからか、数度身体が跳ね上がるものの、なんとかバイクの制動に成功した。

「ハハ。貢物、ご苦労様……!」

 速度を落としつつも見様見真似でハンドルを切り、まずは進路を病院から反対方面へと定める。平行して歩道から車道へ出られればよかったのかもしえないが、複数の作業を同時に行うには不安があった。
 すると、位置を移せなかったばかりに膝でこじんまりとしている朝日と視線が交差する。

「あぁ、運転の邪魔なんで上手いこと後ろに移ってくれません」
「さっきまでバイクに乗っていた男はどうなったのだ?」
「……振り返るのは多少なりとも不安なんで、後で個別に調べて下さい」
「何が不安なのだ。バイクを止めればよかろう」
「後ろから追われている時に? ご冗談を」

 喧噪はバイクが進むに従って離れていくが、バイクが一台しかないとは楽観視が過ぎる。更に帳自身、バイクの操作を習っている訳ではない。一度止めてしまえば、再度エンジンを入れるまでに不良から距離を詰められかねないのだから。
 朝日の提案を無言で拒否していると、不審に思った彼女から口を開いた。

「お主、“免許”とやらは持っておるのか。なんでも、学校で習った証だと聞いたが?」
「……企業秘密、ということで」


 カフェテリア“マウンキャッスル”。
 空走(からはしり)区の中心部。大型のショッピングセンターと空走中央駅が隣接する位置で営業する本店は、電車や映画の待ち時間を潰せ、ショッピングで疲れた足を癒すことができると一定の来客が安定して訪れている。
 この日も夕方でありながら店内の席は三分の一が埋まり、それぞれが談笑の華を咲かせていた。そんな中、店の片隅でノートパソコンを開いている人物が一人。
 天井で木製のプロペラが一定の間隔で回り、充満するコーヒーの香りを掻き混ぜる。
 店内でありながら毛糸で編まれたニット帽を被り、膝まで覆う赤のロングコートを纏う。
季節に反逆するかのような服装だが、顔から僅かに覗ける皮膚に汗は一滴たりとも現れてはいない。黒縁の眼鏡の奥に宿る瞳は淡々とパソコンが映し出す映像を読み取る。

「猟犬さーん、その調子で追って下さいッスねぇ」
『了解、嶽丸(ごくまる)さん』

 ディスプレイへ出された指示は、鈴の音にも似て。
 液晶ディスプレイが映し出す光景は、フレーム剥き出しで安全面が不安な改造バイクが背に少女をしがみつかせて逃走する映像。時折挟まるノイズが細かい情報を隠し、映像の周囲には様々な円や棒グラフが忙しなくパラメーターを変動させている。
 嶽丸と呼ばれた男は、手元に置いてあるバニラクリームにキャラメルをまぶしたフラペチーノへ口をつけた。
 白が広がるにつれ、人によってはくどさすら覚える甘さが口の中を支配する。

「三実(みつざね)の野郎、この僕を通さずに三下ばっかり雇いやがって……言ってくれれば、組合から遥かに質がいい攫い屋を手配したッスのに……!」

 キーボードを叩きつつ零れるのは、独断で組合以外の人間をかき集めた依頼者への愚痴。
 悪路組合のブローカーである嶽丸にとって、他の類似組織やフリーランスでどれだけ粗製乱造による信頼の低下が引き起こされようとも関係ない。むしろ、他所の信頼が低下することで唯一頼れる組合を頼る人間が増えるなら好都合ですらある。
 が、今回は誘拐の時とは異なり、嶽丸には連絡の一つも入らなかった。

「鉄拳がしくじったせいで信用を失ったとでも……この僕が依頼を掴むこともできずに流してしまうなんて……」

 口の中に砂を思わせる細かい粒子が散らばる。奥歯に亀裂が走った感覚と合わせ、歯が欠けたのだと判断。
いっそのこと、害孕(がいはら)のようなスタンスで暮らせればストレスなどとは無縁の生活であったのだろうか。
が、それでは単なる本能の奴隷、野を駆ける畜生と何ら変わらない。

「さぁ、猟犬さん。やらかした鉄拳さんの代わりに名誉返上を期待してるッスよ」
『それを言うなら名誉挽回。もしくは汚名返上』
「あら……ま、どっちでもいいッスよ。三実のガキに泥を塗ってやってくれれば」
『……一応聞くが、依頼を達成する方でだな?』
「そういうジョークも学んだんスか、猟犬さん」

 嶽丸が再度バニラキャラメルフラペチーノへ口をつける。再度広がるくどいまでの甘味が、砂数粒分の不快感を減少させた。が、その程度では腹の虫も収まらない。
 紙コップの先を歯で噛み、繊維の結合を解いていく。
まるで分別のつかない子供のようであるが、その間にも左手はキーボードを淡々と叩き続けていた。すると、液晶の左端にアルファベットの羅列が現れてくる。
 入力しているのは嶽丸自身。目標は朝日を連れて逃走を続ける少年に対して。

「ファイル名はぁ……そうッスねぇ。A Next Messouinなんて、どうッスかね」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?