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昔住んでいた借家の裏には、大きな橙の木が生えていた。

背丈を2mほど超えてそびえる大木には、冬になると握り拳よりも大きな果実をたわわに実らせた。

名前の通り、鮮やかな美しい橙色を纏ったその果実は縁起物とされ正月の飾りに用いられたり、ポン酢の原料になったりする一方で、木々の至る所から鋭く大きな棘が生えていた。

棘に怯えながらも、時折大きな橙の実をとってきて、おかずに少しばかり絞って香りを楽しんだものだ。

あんまり一般的ではないが、檸檬やオレンジとは違う豊かな中に芯のあるその香りが僕は好きだった。

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転勤でその地を離れ、すっかり忙殺される日々を送っていた頃。

ふと、あの香りがよぎってきた。

気がつけばもう、丸一年が過ぎていた。

無性に気になって、香りが恋しく思えて。

2時間かけて、あの木の元へ走り出した。


借家は以前とあいも変わらず、古ぼけたまま立っていた。束の間の安堵感をよそに、僕の橙は姿を消していた。

立派な樹木の面影は、いとも簡単に人類の叡智によってかき消され、切り株だけが残っていた。

細かに刻まれた彼の生きた年月の証が、無惨にも晒され、その命はこと切れてしまっていたのだ。

僕は世話をしていたわけでもなんでもないのに、なぜだか心にぽっかり穴が開いてしまったようで、無責任にも悲しみと後悔が胸に燻った。

帰路につこうと振り返った視界の隅に、ほんの少し、鮮烈な色が飛び込んできた気がして、深い茂みをむやみにかき分けた。

ころんと足元に、一つ橙色の木の実が転がってきた。

僕はそれを拾いあげて街へ戻る帰り道、心に滴る雨はあの苦い果実と同じ味がした。


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