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近江瞬 『飛び散れ、水たち』左右社*歌集鑑賞*

 塩害で咲かない土地に無差別な支援が植えて枯らした花々

 被災地視察に新大臣が訪れる秘書の持つ傘で濡れることなく

 宮城県石巻市生まれの歌人、近江瞬は東日本大震災のその時、故郷にはいなかったという。あの日の惨状を知らないという劣等感にさいなまれながら詠まれた連作は、被災地から遠く離れたわたしたちにも、災害と向き合うことの大切さと難しさを教えてくれる。
 また2024年の元日、能登半島を大きな地震が襲った。わたしが体験した東京ですら被害の大きかった東日本の惨状を思い起こされるとともに、あの日学んだことをどう生かせるのかが問われている。

 それはそれとして、近江瞬の価値は震災詠のみにあるわけではない。繊細で丁寧な言葉選びが、心地よい。歌集のタイトルが『飛び散れ、水たち』というだけあり、水を連想するモチーフが多くみられる。

 雨の降り始めた街にひらきだす傘の数だけあるスピンオフ

 色混じる事なく掛かる虹見れば分かり合えない事の嬉しさ

 雨の日は傘に包まれ僕たちの薄い一つの影を撫でよう

 雨や虹にまつわる歌の数々は清廉な印象で、冷たさはなく、どことなくあたたかみがある。必要以上に共感を求めることがなく、それぞれの「スピンオフ」「わかりあえないことの嬉しさ」など、個への尊重がある。その距離の取り方の絶妙さが震災詠にも生きていて、被災地の人とそれ以外の土地の人との間をとりもつ、稀有な歌人になっているのではないかと思う。
 また、その距離の取り方は、感情の狭間をもうまくすくいあげる。

 電線に届かず切られる街路樹の生命の高さに制限はあり

 てっぺんにたどり着けない服たちが落ち続けてるコインランドリー

 使い方を知らないボタンに囲まれて放送室に君と僕だけ

 喜怒哀楽のどれでもないような、どれでもあるような。肯定とも否定ともとれるような。その答えを、押し付けることなく読み手にゆだねている。何度かこの歌集をめくるたび、わたしはその日の自分のコンディションに気づかされる。同じ歌を読んでも、たまらなく悲しい気持ちになることもあれば、さわやかな気持ちになることもあるのだ。

 隣室のベランダに咲く花々に住むと暮らすの違いが香る

 これもわたしの好きな歌のひとつで、充実しているときは豊かな「暮らし」の香りを感じることができるが、疲れ切っているときは、花を枯らしてしまう自分を思い浮かべる。

 気づかないふりも疲れて保護フィルム剝がすみたいに言うさようなら

 これは「保護フィルムを剥がす」の比喩が秀逸で、ゆっくりねっとりした「さようなら」に、生皮を剝ぐような痛みを感じることもできるが、同時に上の句の「気づかないふりも疲れて」の状況から解放されてせいせいするような気持ちにもなる。
 こんな風に、読めば歌と向き合っているうちに自分と向き合っている。そして、それはいつも心地がいい。元気な時も、そうでないときも、心をほぐしてくれるようなそんな歌集だ。
 今は故郷の新聞社で記者として働いているらしい作者は、これからも多くの人の心をほぐす仕事をするだろう。

 

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