無自覚の侵入者

苦手
の一言に尽きる、最近知り合った年上のおねえさま。

「おねえさま」というのは皮肉で、実年齢は母親ほどのその方とは居酒屋で言葉を交わすようになった。交わすようになって一時間後、苦手だと気が付いた。

ジャッジメントの基準

対人関係において好きと苦手は発生すると思うけれど、わたしは「おねえさま」に似た社内の女性が好きで、だから「おねえさま」のこともきっと好きになるんだろうと知り合った直後に感じた。
けれど、実際はそうならなかった。

では、「社内の女性」と「おねえさま」のどこが違うのだろう。
彼女たちは年齢も近しいし、知り合った場所は違えど向こうからアクションを起こしてきてくださった。そしてどちらも、そこそこお喋りが好きで、自己主張はどちらかといえば強いほうだ。容姿も似ている。

違うところ、といわれるとテンポや口調(テンポも含めて口調なのだろうか)、身振り手振りなのかな、と逃げの姿勢を取ったが、心の奥底では気付いている。

個人史への侵入度合い

これに尽きる。

私は訳あって、というか、端的に言えば、学校教育に適合することも反発することもできなかったため途中から登校しておらず、そのために色々なことを放り投げて社会人となった(放り投げずに勉学に励むことは、私にはできなかったようだ)。

そこに触れられたくない。
至るまでの経緯、心象などは私だけが知っていれば良いと思う。理解も共感も求めていないのだから、開示する必要もない。戻れない過去の出来事に対して、他者の感想を求めていない。

己のズルいところ

ならば、ウソで逃げればよい。
自分でも頭では理解しているのに、その場に置かれてしまうとスッと心が冷え、頭は回転をやめ、ぽつぽつと真実を話すしかなくなってしまう。

己の要領のわるさで他人を苦手だとジャッジメントすることは、結構身勝手で好ましくはないと今なら思う。その場に置かれたときは、そんなことが頭をよぎる余裕はないけれど。
数時間話しただけで下された「苦手」という結論を、私は当分覆すことができずにいると推測する。なぜなら覆すような機会を求めていないから。「おねえさま」は幸いにして毎日顔を合わせなければならない対人関係でもないし、避けようと思えば避けられる位置にいる。

こうやって私は、簡単に他人を判断し、逃げていく。


苦手な対人関係からは逃れる一択と聞いたことがあるが、いまだにこれが正しいことなのかわからない。


まあ、人生における正しさなんてその時それぞれだもんね。
ストレスを軽減させる道の選択としては間違っていないだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?