9. 木ではなく森を見ろ『石橋を叩いて渡る哲学』

 悪人は存在しない?

 資本主義を、全体をカバーするシステムと捉えることで「悪」に見えてしまうということを述べました。この視点から悪人という概念について考えます。

 言葉は、思考の材料である知識・知識体系・体験を情報として形作り、他者にそれを共有するというツールとしての役割があります。しかし、世の中ではこの認識が逆になっていると感じます。言葉の前には、話し手の知識・知識体系・体験などの情報が存在します。話し手の情報の前にはさらに脳に情報として格納する前の現象・事実やそれに至るまでの「前提」が存在します。「Aさんは悪人だ。罪を犯した。」という話を聞いた時、我々はAさんを悪人と認識します。しかしながら、実際にはAさんは悪人ではなく「罪を犯した人」です。悪人という単語を用いることによって詳細を語らずとも、Aさんをカテゴリーに分類することで短い情報量でイメージを伝えることができます。しかしながら、その情報はあくまでも加工されたものであり情報の少なさからその信頼性は低くなります。さらに言えば、罪を犯したという大まかな事実すら聞かずしてカテゴリーの配置がなされることすらあります。このように、単語による言い換えは情報としてのコストを節約して処理流暢性を高める代償として情報の品質の低下をもたらします。処理流暢性とは、処理のしやすさや負荷の大きさを表します。人は情報を処理する際にストレスがかかります。人はなるべく脳に負荷をかけたくないのです。ゆえに、先に述べたようなことが起きるのは仕方がないことだと言えます。この言葉(単語)による思考の省略作用はメリットでもありデメリットでもあるのです。

 ニュースは事実を伝えます。ただ、前提を伝えてくれるとは限りません。なぜならば、前提を確かめる、つまり、起きた事象に対しての前提をすばやく事実確認することなど不可能だからです。たとえ時間をかけたとしても難しい場合がほとんどでしょう。当事者でさえ、起きたことを正確に把握できるかは疑問です。前提について仮説を立てて真実に迫ろうとすると1つの小さなニュースだけでも労力がかかります。世の中の人はみんな忙しいです。そんなことをしている余裕はありません。

 しかしながら、現実的に考えて仕方がないからと言ってその前提を踏まえずに評価をすることについては仕方がないとは言えません。事故や事件に関するネットニュースのコメント欄を見ると「コイツはバカだ。」「こんなことするなんて、考えられない。」といったコメントは無限にあります。もちろん、前提を知らないことは仕方のないことですが、前提の推測を省略して評価を行ってもそこに説得力があるとは思えません。せめて、できることならば推測したことを定義として宣言した上で評価するべきだと考えています。ただし、実際にそのようなコメントが意味のないものかと言えばそうでもありません。前提の推測を省いて出力された評価であっても、評価者が持っている知識・知識体系・体験の違いが結果として現れるからです。つまり、前提を知らない評価者としての反応という情報としての価値があるということです。

 このような、単語による思考の省略とは別に、システムとして見た場合に悪人は存在しないのではないかということについて、職場でのミスを例に説明していきます。

 従業員のミスは仕組みのせい?

 某日本大手企業が採用している問題解決法として「なぜなぜ分析」「5W」というものがあります。どちらも同じ1つの方法論を指す言葉です。実践的なお悩み解決法で紹介しましたが、その方法論とは、起きた問題に対して「なぜ?(Why?)」という問い掛けをして原因に近づき、その近づいた原因に対して再びなぜ?と何度も繰り返すことで問題の根本の原因を突き止めるというものです。このように問題を言語化しながら因果関係に基づいて深堀りすることで現象を正しく認識しやすくなります。原因F、E、D、C、B、A、問題発生という順序で問題が起きたとします。この場合、根本的な原因というのは原因Fです。しかし、問題を深掘りしない場合には原因Aが洗い出されます。そして人はその原因Aを原因だと認識するのです。確かに、因果関係上は原因Aが発生しなければ問題は発生しません。したがって、原因Aについて対処しようという誤った対策が導き出されます。例えとして、幼稚園の送迎バスの事故を例に説明します。送迎の際、園児が全員降りたかどうかをバスの運転手が確認するというルールがあるとします。そこで、運転手が確認を怠ってしまい、園児が行方不明だと大騒ぎになったとしましょう。この事例での原因はどこにあるでしょうか。多くの場合、運転手が確認を怠ったという事実が問題の原因としてみなされます。因果関係上はそのとおりです。しかしながら、構造として考えるならばそれでは不十分なのです。この場合、運転手が原因であるため運転手を解雇して新しい運転手を雇うという対処をしたとします。しかし、再び同じ問題が発生してしまう可能性があるのです。それはなぜでしょうか。それにはシステム(仕組み・構造)に問題があるからです。

 「なぜなぜ分析」や「5W」のような分析方法の本質は、問題の原因をシステムレベルで特定できることにあります。そして、人は「媒体」です。システムという湖を構成する水や魚のような一部の要素なのです。構造として考える場合、人を原因とみなすことは不十分なのです。なぜなら、人は入力された処理対象について、共に入力された環境や条件というパラメタを処理条件として利用することで複雑な処理を行い、出力しているだけだからです。したがって、従業員のミスは従業員のミスでしかなく、問題の根本の原因は業務の仕組みにあると言えます。もちろんのこと、現実的な仕組みとしてミスをした従業員に報告書を書かせるといったルールを改善策の一部と導入することは合理的だと思います。このことから、先程の悪人の例も同様にして、罪を犯したことの原因は、犯人そのものではないと言えます。環境によって引き起こされるものです。しかし、このような考えは綺麗事であり、こういった構造化思考のようなコストの掛かる考え方は理想論でもあります。実際に、我々の社会を支えているのは理想論ではなく刑法のような現実的な仕組みです。また、そもそも環境が人の行動に影響を与えるからと言って、人の行動がすべて環境に依存するわけではないという考え方が一般的です。これは主意主義的な考え方でもあります。また、脳神経科学の分野においても、人は行動を抑制する機能を持つことが知られています。行動を抑制する機能を持っている状態で悪事に手を染めたという判断により人を罰するという考え方です。

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