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喪失感というもの


ぎんちゃんが亡くなった後
私の中に起こった感情の変化を


書き留めたいと思って

でも、子どもたちがいる日常は
嵐のような日々で

それにつられて
いろいろな思いも日々流されてゆく

忘れる前に急いで残さなくてはという焦燥感に駆られる

ぎんちゃんがいた痕跡がなくなってしまうようで
怖い……

全部、書き切れるといいけれど


ぎんちゃんがいなくなって

私は生まれて初めて喪失感というものを体験した

亡くなったその日は
何をしていても涙がとめどなく溢れてくる


夜は何度も流れてくる涙で目を覚まし


いつも目の前にいたものがいない布団の上
家の中に残る痕跡
小さいもの音
床に落ちてる黒っぽい、ふわっとしたもの

そのどれもがぎんちゃんではないことを確認するたびに溢れる涙

泣いても泣いても
涙ってなかなか枯れない


でも、実は、こんなにも喪失感を感じている自分に
一番驚いているのは私自身だ

実は私は
辛い境遇にある人や動物を見て、心を痛めるということはあるけど
それはあくまで今感じているであろう痛みや苦しみに対してであり

死というのはそれとはまた別物だった。

成人している大人が、親や兄弟などを失くすことが辛いことなのか?はその気持ちが想像できなかった。


特に、年老いた人や動物の死に対して
悲しいという感情を持てなくて


そんな自分を
少し欠落しているように感じていた。


動物病院で働いていた頃、

家族の一員である子たちが亡くなっていく時
飼い主さんの悲しみに共感できなくて

表面上はケアするのだけど
心がわからなくて

自分はやばいんじゃないかと思ったことも

臨床の仕事を辞めた理由の一つだったりする


だから、ぎんちゃんを失くして

涙を流せる私でいることに
少しホッとした


私にもちゃんと悲しめる心があったのだと


とはいえ、私は
この感情が本当に悲しみなのか
確信を持てないでいる


自分がちゃんとした飼い主じゃなかったことや
私のせいで命を縮めてしまったのではないか
最後苦しんだのは私のせいではないか

という自責の念に苦しんでいるだけのようにも感じる


悲しいというのはいったいどういう感情なのだろう

正直、よくわからない。


調べてみると、
悲しいとは「心が痛み、泣けてくる様」
ということらしい。


思い返せば


うちの親族は軒並み長寿で
亡くなっていく人は皆お年寄りだったり

祖母の口癖が
「生きてたって大変なだけだよ」
だったりして
(祖母は現在98歳。認知症が進行してもう誰のこともわからなくなっている。早くお迎え来てほしいといいつつ誰よりも長生きしている)


死にゆくことに

悲しいよりは「お疲れ様」という気持ちが強かったというのがあるのかもしれない。


自分が生まれた家庭環境が殺伐としていて
そもそも両親への愛着が薄いことや

私自身も生きていたくないと常々思っていたというのも

家族を失くす悲しみが理解できない一つの要因だったかもしれない。


あるいは、

自分の弱みを見せることができず
悲しむことを自分に許せなかったというだけのことかもしれない


そう思うと、悲しむって実は、

自分の弱い部分を曝け出す行為で
それはある意味、それができる安心安全の土台と強さが必要なことなのかもしれない。


いろいろと考えるけれども


今はとにかく
寝ても覚めても涙が溢れて
胸の奥がすごく痛い


これがただの失った痛みなのか
それとも悲しみなのか

そして、そもそも私はぎんちゃんにちゃんと愛情を持っていたのか?

そんな自問自答をしながら
私は涙に明け暮れていた

そして、亡くなって3日後に届いた
ある知らせに

私の気持ちは大きく動く

そのせいで、悲しみっていったい何なんだ…
という私の疑問は深まっていく…

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