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何か突然、夜中に纏めたくなっちゃった感覚

東野圭吾の小説は何冊か読んだことがある。その中で、『手紙』という小説の読後感が印象に残っている。

あの小説は、とある不幸な兄弟の話である。
弟目線から描かれる、憎々しい兄に関する描写。
兄が犯罪を犯して捕まった後、弟は世間から理不尽な扱いを受け、苦労の多い人生を歩む。
その憤りが兄への思いを歪ませ、鋭く尖るばかりだった。

弟はいつも、兄への憎しみに囚われていた。一方の兄は……

全くわからないのである。兄は自分の心情を終始、言葉にしない。その代わりに、刑務所に訪れた弟に向けて、遠く離れた場所から合掌をする。確か、そのシーンで小説は終わる。

兄の心情を推し量れる描写は、そこだけだったと記憶している。兄は、弟に頭を下げる訳ではなく、頭を垂れて合掌をしたのだった。

この兄弟の心のやりとりを想像する時、信仰という行為によく似ていると私は感じた。だから、印象に残っている。

憎むという方法でありながら、兄を思い続けた弟。彼は兄の姿を見て、兄を憎んだこれまでの時間を評価する、決定的な情報を兄から得たかったはずである。

いかにも低劣な兄であれば憎むべき人間で間違い無かったと思えるし、弟の目を見つめ許しを乞うように涙を流す兄ならば、今後の人生では兄を許そうという心が芽生えたかもしれない。

しかし、兄は弟に向けて合掌をしているだけなのだ。兄のその姿から、弟はどのような判決を下せばいいだろう。

つまり、自分では処理しきれない、言いようのない一方通行の思いを変えるきっかけなど、世の中にはほとんど存在しない、ということだ。

これは遠藤周作の『沈黙』を読んだ時にも感じた。
信仰とは基本的に、答えや応えなど、これっぽっちも得られない、手応えなど皆無の行為なのだ。

救いを求めて考え、思い続け、ほんの僅かなヒントが欲しくても、そんなものは少したりとも与えられることはない、その可能性を大いに孕んだ行為が信仰なのだ。信仰する側の一方通行でしかない。

絶望的な状況であればあるほど、信仰がいかに一方通行でしかない行為かを体感することだろう。

この、誰かや何かに救いを求めても救いを得られることはない、という一つの心理を経験しているかどうかが、作品に現れていることがある。

先に紹介した小説もそうだし、ピース又吉のエッセイ、園子温の映画からも感じたことがある。絵画や音楽からも。

私はそういう宗教観が含まれた作品が好きだ。心の何かが共鳴する。

生きるのは大変だ。一方通行で思うこと、絶望を嘆くことがあって当然だろう。でも、救いは自分の中に求めたほうが救われる可能性が高い。

こんなことを考えて、午前3時。明日も朝から仕事なのに。

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