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銀座の路地裏で出会った歌姫に

#昭和の恋愛小説 #ショート #登場人物少なめ #天国のバーと地獄の現実 #24000文字 #年下の男 #元歌手 #9歳年上の女性との恋愛 #コブつき #35歳女性

あらすじ
26歳、大手町に勤める厚司は、自分の犯したミスをクライアントに謝るために上司とクライアントで接待の席にいた。接待が終わり酔い辿り着いたのが【Heavenly Days】というミュージックバーだった。そこで歌う美咲の歌に感動を覚え、足繁く通うようになった。彼女が歌った後、彼女が2杯のビールを飲む時間を共有できることが楽しみになり、ますます彼女のことが気になってしまった。ある日,その頃に厚司が付き合っていた彼女が店までついてきて、その日のステージをぶち壊してしまう。

厚司はその日、取引先との接待の為に銀座で飲んでいた。同席した上司に指示された店は、近代的なビルの中とは思えないほど、囲炉裏や掛け軸などが飾られた和風の店だった。厚司は初めて来店したが、落ち着く内装と懐石風にアレンジした肉料理がとても気に入った。コース料理も出終わり、話もひと段落したとき、上司に肘でつつかれて会計をすると、思ったより安かったので、また来たいと思いレジの横にあったショップカードを会社宛の領収書と一緒に財布にしまった。
会計から席へ戻ると上司達は帰り支度を済ませていたので、慌てて鴨居に掛けてあったハンガーからトレンチコートを外し、下に置いていた鞄と一緒に抱えた。店員が予め揃えてくれた靴を履き、玄関を出ると異空間から出て来た気分になった。ビルの2階から吹き抜けのあるホールを見下ろすと、11月初旬だというのに巨大なクリスマスツリーがたくさんの電球を光らせ、飾られていた。クライアントと上司、厚司の3人はホールへ降りる幅の広い階段をゆっくりと並んで降りた。階段を降りきったところで、クライアントが振り向き、
「今日はすっかりご馳走になって、ありがとうございました。」
厚司が応えようとしたのを見て、上司は厚司を手で制した。
「いえいえ、お時間割いて頂いてありがとうございます。今回のようなことがないよう、私も監督しますので、今後ともよろしくお願いします。」
上司は右手を厚司の後頭部に当て、力を入れて頭を下げさせた。
「いや、こちらもよく見積を見なかったので、その件はお互い様ですから、あんまりいじめないでやって下さい。高橋君はいつもよくやってくれてるので、安心して仕事を頼んでますから。」
「そう言って頂けると助かります。本当にこれからもよろしくお願いします。ほら!」
上司は頭を下げたままだった厚司の後頭部を軽く叩いた。
「今回は本当にすいませんでした。今後ともよろしくお願いします。」
厚司は頭を下げたまま、先方に詫びた。
「また週明けに打合せしたいから、こちらの都合をメール入れとくので…。」
「わかりました。」
「じゃあ、ここで失礼させてもらいます。」
クライアントは上司に軽く会釈をすると、クリスマスツリーの近くを通り、ビルの玄関を出て行った。
「ふぅ~。」
上司は深く溜息をついた。
「はぁ。」
つられて厚司も溜息が出た。
「頼むぞ、今度からは。わが社にとって大事なクライアントを任せてるんだから。」
「すいませんでした。課長にまで迷惑をかけてしまって。」
厚司は上司に時間を割かせたことを詫びた。
「まぁ、先方さんが許してくれたから良かったけど、こんな酒は二度とごめんだからな。」
「わかっています。」
「じゃ、俺は近くで飲み直して帰るから、ここでな。」
「はい、お疲れ様でした。」
厚司は上司の後ろ姿を見送ると、鞄を鏡のように磨かれている床に置き、持っていたトレンチコートをはおった。晩秋とはいえ、夜は少し肌寒くなっていた。トレンチコートのベルトを結び、鞄を拾おうとして屈むと、突然酔いが回ってきた。
(結構飲まされたからな)
課長は会社の中でも酒豪と言われる人物だったので、課長のペースで飲まされると、そんなに酒が強くない厚司にとっては飲み過ぎの感があった。今までは接待の緊張感があったから平然としていられたが、二人がいなくなり緊張の糸が切れた。一昔前なら、この後女性のいる店へもう一軒というパターンだったが、不景気が続いていたことが初めて幸いしたと思った。酔いがこれ以上回らないよう、ゆっくりと立ちあがり玄関へ歩き出した。回転ドアは見ていると目が回りそうだったので、その横に付いている横開きの自動ドアを2つ抜けて外へ出ると、空気が美味しく感じた。このときばかりは排気ガス臭い東京の空気が実家のある札幌と同じ位に美味しく思えた。空調ではない新鮮な空気を思い切り吸い込むと、それまでグルグルと回っていた頭が少しシャンとした。と同時に胃がキュルキュルと鳴り響いた。仲居さんとのやり取りや二人に酒を勧めたりしているうちにこちらも勧められて、食事は殆ど手を付けている暇がなかった。
(ラーメンでも食べて帰るか)
帰りの電車に乗る有楽町方面へゆっくりと銀座の街を歩き出した。職場は銀座から反対側の大手町にあり、自分の取引先もこの近くにはなかったので、何処のラーメン屋という宛は特になかった。しばらく歩くと角にカウンターだけで20席近くある札幌ラーメンの店があった。飲んだ後の締めに寄っているだろう客で半分以上の席が埋まっていた。
(お、札幌ラーメンか、いいかもしれない)
カウンターの中ほどに空いている席へ両隣にぶつかりながら座った。席の前に置いてあったメニューをさっと眺め、近くにいる店員に注文をした。
「味噌バタコーンを」
「10番さん、味噌バタコーン!」
威勢のいいコックが注文を奥で鍋を振っている別のコックへ伝えた。
数分でカウンターの上に丼が置かれ、店の中に漂う匂いですっかり空腹感が増していた厚司は一気に平らげた。
(なかなかうまかったなぁ)
会計を済まし、また有楽町駅へ向かって歩き始めた。しかし、ラーメン屋から100mもしないところで、突然吐き気に襲われた。アルコールで満タンになった胃に、急に油モノを入れたせいで気持ち悪くなってしまった。フラフラと人が並んでやっと通れるような狭い・暗い路地へ入り、吐ける場所を探した。奥の方は表通りの明かりが殆ど入らず、薄ぼけたネオンが少しだけ付いていた。袋小路の奥の方まで行くと我慢できず、そこへうずくまり激しく嘔吐した。吐いたことで口の中が胃液とアルコールの味になり、意識が遠のいてきた。厚司はやっとのことで壁にもたれかかり、足を伸ばして、コートとズボンのベルトを緩めた。そこで意識が途切れた。

目を覚ましたのは多分それから1時間ほど経ってからだった。ラーメン屋で見た時計が確か10時過ぎで、厚司を起こした扉から漏れてきた光で見た腕時計の針は11時を過ぎていた。
「おっ、また転がってるな。」
男性が厚司を見て声をあげた。扉の光と一緒に店の中から音楽が流れ出てきていた。初老の男性が後ろ手で扉を閉めると、また辺りは暗い闇の中になった。男性はポケットからタバコを取り出し、カシャンという小気味いい音がするジッポーで火を付けた。ライターの火でその男性が初老だということが薄っすらとわかった。何回か瞬きをして目を慣らすと、扉の前でタバコをくゆらせている初老の男性が、濃いグリーンのベストに捲り上げた白いワイシャツ、蝶ネクタイと11月の寒空には相応しくない服を着ていることが見え、従業員だとわかった。
(店の前で吐いたことばバレたら怒られる)
咄嗟にそう思ったが、頭とは裏腹に身体はまだ言うことをきかなかった。
「おう、若いの、まぁゆっくりしてけや。」
初老の従業員はこちらの考えを感じ取ったのか、タバコをふかしながら言った。厚司はゆっくりと体を起こそうとしたが、なかなか力が思うように入らなかった。
「急いだって、いいことないぞ。若いの。ここはそんなヤツが集まる場所だから、気にすんな。」
老人は厚司が何とか立ち上がろうとしているのを助けもせず、扉の前で立っていた。厚司は諦めてしばらくそのままでいることにした。
「さて、戻るとするか。」
彼は2本目のタバコを地面に落とし、靴でつぶしながら言った。扉を開けるとさっきと同じ女性のヴォーカルとさっきよりスローテンポなアコースティックギターの音が漏れてきた。
中に入ろうとしていた老人は一端扉を戻し、厚司に2・3歩近寄った。
「若いの、うまいコーヒーが飲めるようになったら、中へ入るといい。」
老人は厚司を見下ろして言い、店の中へ戻った。三度聞こえてきたヴォーカルは切なく、それでいて暖かさを感じさせ、ふと故郷の札幌を思い出した。よろけながら立ち上がり、老人が出て来た扉の上に付いているネオン管を読んだ。
【Heav y Days】
(重い日々?)
英語が得意ではなかった厚司は酔いが回っている頭で、言葉の意味に首を傾げた。摺り足で扉に近付くとネオン管が壊れているのがわかった。
【Heavenly Days】
(天国のような日々?どちらかと言えば地獄の入口に近いけど)
初老の男が出てきた店のあるビルは、狭い路地と同じ幅の細長い古びれた4階建てで、コンクリートがあちこち剥げていた。それぞれの階に窓が1つずつあり、どの階も電気は付いてなく、どこから上へ行くのか判らないような雑居ビルだった。
(さて、帰るか)
大通りの明かりへ体を向けると、ゆっくりと歩き出した。少し頭はクラクラしたが、何とか駅まで歩けそうな気がした。あと、数歩で大通りへ出るところで厚司は立ち止まった。
(ん?)
扉の向こうの何かが厚司の足を止めた気がした。振り返るとボンヤリとだが、切れていたネオン管が直ったのか、淡いピンクとグリーンに光っていた。
(うまいコーヒーがあるって言ってたな)
彼の言葉を思い出すと、厚司はまた袋小路を戻り、店の扉の前に立った。
(まぁ、コーヒーだけならぼられることもないだろう)
接待で支払った後の財布の中身を計算し、背広の内ポケットに財布が入っていることを叩いて確認すると、恐る恐るワイン樽のような作りの扉を引いた。先ほどとは異なり、音楽ではなくパラパラと拍手が聞こえた。扉が開いたことに気付いた老人が厚司をバーカウンターの中から見上げた。扉の内側は数段のペンキの剥げた手すりが付いた階段が続いていて、その左側に細長い大理石のバーカウンターが伸びていた。階段を降りると店の奥には右手にアコースティックギターのネックを持ち、左手を水平に広げ、頭を下げている女性が立ち拍手を浴びていた。ひとしきり続いていた拍手が鳴り止むと顔を上げ、女性は厚司の顔を見上げた。ロングヘアーにウェーブをかけた黒髪と、スパンコールが付いた血のような赤のロングドレス、同じような赤のヒール、彼女の醸し出す雰囲気は、袋小路の奥にある、寂れたこの店にとても合っている気がした。彼女はもう一度頭を下げると、ギターを脇にあったスタンドに置き、奥にかかっていたタバコのヤニで黄色く薄汚れたカーテンの向こうへ消えて行った。厚司は階段の下で立ったまま、彼女の行方を目で追っていた。
「コーヒー飲むか?」
先ほど厚司に声を掛けた老人が、ぼうっと立っていた厚司に言った。
「ええ、頂きます。」
厚司はそう言って一番近くのカウンター席に座った。他の客はカウンターの老人に向かって指で×の合図を送り、次々と席を立って行き、厚司の前にコーヒーが出てきたときには、もう他の客は誰もいなくなっていた。
「すまんな、待たして。」
老人はそう言って、厚司の前にカップを差し出した。カップからは強烈なコーヒーの香りが厚司の鼻をくすぐった。厚司はコーヒーの香りを存分に味わうと、ゆっくりと口に運んだ。
「うまい!」
酔っていたせいもあるかもしれないが、思わず口に出てしまった。
「そうじゃろ。これだけ美味いコーヒーをこの時間の銀座では飲めんぞ。」
老人は先程いっぺんに帰って行った客の伝票を整理しながら、自慢げに言った。彼女の歌が終わった店内はモダンジャズがゆっくりと流れていた。厚司は目をつぶってそれに耳を傾け、コーヒーを楽しんだ。

カップのコーヒーがあと二口残っているとき、奥のカーテンから先ほど拍手を浴びていた女性が出てきた。先ほどとは打って変わってジーンズ姿に白のカッターシャツ、ウェーブのかかった黒髪をゴムバンドで無造作に留めていた。奥のカーテンから出て来なかったら、同一人物とは思えないほどの変わりようだった。彼女は厚司の座っていた席から2つ開けた右側に座り、タバコに火を付けた。
「マスター、あたしにもコーヒーもらえる?」
女性にしては少し低めの声で老人に話し掛けた。
「珍しいね、ビールじゃなくてコーヒーなんて。」
老人は伝票を整理していた手を止めた。
「そこのお兄さんの匂いにつられたのよ。」
彼女はタバコの煙を大きく吐き出して言った。老人は彼女の為にエスプレッソの粉をフィルターに丹念に詰めた。エスプレッソマシンの壊れそうな音が店中に響き渡った。
「はい、お疲れ様。」
厚司にコーヒーを出したときと全く同じ動作で彼女の前にカップを置いた。彼女はカウンターに置いてあるシュガーポットを掴み、刺してあったスプーンで砂糖を山盛り一杯入れ、ソーサーの上に乗っていた細身の銀のティースプーンでコーヒーを乱暴にかき混ぜた。老人はその様子を見届けると、薄っすらと微笑み伝票の整理を続けた。彼女はティースプーンをソーサーに戻すと、カップを持ちゆっくりと口に運んだ。厚司は自分のカップを置き、じっと彼女の仕草を見ていた。厚司の視線に気付いていた彼女は、
「ようこそ、天国へ。お兄さん。」
彼女は厚司の方を見ず、自分のカップを撫でながら言った。
「歌、ちゃんと聴けなくて残念でした。」
厚司はそう言った後、残りの二口分をいとおしむように少しだけ口に入れた。
「そう、ありがとう。お世辞でも嬉しいよ。」
彼女はそう言って残りのコーヒーを一気に喉へ流し込んだ。それを横目で見ていた老人は大きな声を出した。
「美咲ちゃん、ダメだよ、そんなことしちゃ!せっかくの喉が!」
彼女は老人にそう言われるだろうことは判っていたかのように、平然とした顔でカップをソーサーに置いた。
「やっぱり、マスターのコーヒーは熱いうちに飲まなくちゃね。」
彼女は少しだけ厚司の方を見て、また視線をカップの底に落とした。
「美咲ちゃん、ヤケになっちゃいかんよ。少なくてもここには美咲ちゃんの歌を楽しみにして来るお客さんがいるんだから…。」
「ありがとう、マスター。…、いつも優しいね。」
美咲はカップの縁を指でなぞりながら言った。厚司は二人の会話を黙って聞いていた。そこに突然話を振られた。
「ねぇ、もう一曲だけ歌いたい気分なんだけど、お兄さん聴いてくれる?」
美咲はカップの縁に指を置き、視線を落としたまま厚司に訊ねた。厚司は突然のことでとまどったが、扉の向こうで少しだけ聞こえた美咲の歌に興味を引かれた。
「聴かせてもらってもいいですか?」
厚司が美咲に向かってそう言うと、
「お兄さんも優しいね。」
美咲はカップを見ながら笑ったような顔になった。美咲は髪を縛っていたゴムバンドを解き、首を振り上げると、ウェーブのかかった黒髪が広がった。ゆっくりと立ち上がり、小さなステージの中央にある、脚の長い椅子に座り、手を伸ばしてアコースティックギターを掴んだ。Cのコードを一度鳴らすと、前奏も無く美咲は歌い始めた。
歌いだした美咲の声は、酒で喉が焼けているのか、少しハスキーな声だった。彼女が歌っていた曲を厚司は知らなかったが、3拍子の軽快なリズムに少し物悲しい詩がついている曲で、彼女のハスキーヴォイスは、その曲を余計に物悲しくさせたが、逆にその詩の中に潜む小さな暖かさが際立って聴こえた。厚司は目をつぶり、彼女が歌う詩の言葉を頭の中で整理しながら聴いていた。
彼女の歌声が止まり、そして追いかけるようにアコースティックギターも終わりを告げた。
厚司はまだ彼女の歌を聞きたかったので、終わったことにすぐ反応できず、ひと呼吸おいて大きく拍手をした。彼女は少し照れ笑いをしながら、さっきのステージと同じように手を広げ、厚司に向かって挨拶をし、ギターをスタンドへ置いて、カウンターの席へ戻った。
「とてもステキでした。」
厚司は率直に感想を言った。厚司にはわざわざコンサートやライブへ行くほど好きな歌手がいなかったので、肉声でしかも至近距離で歌を聴いたことは初めての経験だった。
「ありがと。」
美咲はそう言って、カウンターの上に置いていたタバコを1本取り出し、百円ライターで火を付けた。
「あの~、聴かせてもらったお礼に良ければビールおごらせてもらってもいいですか?」
「あら、ほんと!頂くわ。」
煙を吐き出しながら、美咲はお礼を言った。すぐさまマスターが美咲の前にビールを差し出した。
「これはどちらからかしら?」
美咲はおどけてマスターに尋ねた。
「あちらのお客様からです。」
マスターはかしこまった顔で厚司の方へ手と視線を向けて言った。
「きゃははっ…。」
美咲はマスターの仕草に思わず噴き出して笑ってしまった。マスターも美咲の笑い声につられて笑ってしまった。美咲はカウンターに置かれたビールグラスを持ち上げ、厚司の方へ向けて差し出した。
「いただきます。」
厚司が会釈している間に、美咲はビールグラスを傾け半分位まで一気に喉へ流し込んだ。
「ふぅ~、美味しい!お兄さん、じゃなくて、・・・、そうお名前は?」
「あ、厚司です。」
「そう、厚司さん、ご馳走様。」
美咲は付けていたタバコを灰皿でもみ消すと、ビールグラスをもう一度傾け飲み干した。席を立ち、椅子の上に置いていた小さなハンドバックとコートを持った。
「じゃあ、また機会があったら聴きにきてね。」
美咲は厚司にウインクして、短い階段を駆け上がり、店の扉を勢い良く開けて出て行った。扉が閉まると同時にマスターが厚司に話し掛けてきた。
「どうだった、美咲の歌は?」
マスターは美咲がカウンターに置いて言ったおしぼりと灰皿を片付けながら厚司に訊ねた。
「えっ、とても凄かったですよ。こんなに間近で歌を聴いたのは初めてですよ。しかも独占で。」
厚司は美咲の歌っていたステージの椅子を見ながら答えた。
「そうか、気に入ってくれたか。」
「ええ、とても気に入りました。今度はちゃんと聴きにきますよ、最初から。」
「そう言ってくれると、あんたに声を掛けた甲斐があるってもんだ。」
「いつも歌っているんですか?彼女…、えっと、美咲さんでしたっけ?」
「ああ、うちが休みの日曜以外は毎晩歌ってるよ。21時からと23時から。」
「そうですか、わかりました。近いうちに来ます。」
「これであんたも天国の住人だな。」
「えっ?」
「うちは何の宣伝もしてない、銀座の行き止まりにある店だからね。あんたみたいに迷いこんで来た客ばかりなのさ。」
「そうなんですか。」
「そして美咲の歌を聴いて、ここで涙を流して地獄の現実へ帰って行く。ここはそんなところだ。」
マスターは美咲の残したグラスをカウンター越しに右手を伸ばしてつかみ、左手に持っていたダスターで軽くカウンターを拭いた。
「彼女はもう長いんですか?」
「ああ、もう10年以上になるね。ここで毎晩歌うようになって。」
「凄い迫力ありますよね、彼女の歌声。歌手なんですか?」
「さあね、その手の質問には答えないことにしてるんだ。彼女が嫌がるからね。さて、店も終いだ。」
マスターはそう言って会計の伝票を厚司の前に差し出した。伝票には500円と書いてあった。
「これ間違ってますよ。」
厚司は金額の少なさにビックリして言った。
「さっきのビールは元々店が出す分だったから、コーヒー代だけな。」
「えっ、でも僕がおごったんですし。」
「美咲はいつも歌い終わった後、ビールを2杯飲むんだ。だから必要経費の内。」
「すいません。じゃあお言葉に甘えます。」
厚司は財布から五百円玉を取り出し、マスターへ渡した。
「まぁ、またお寄りなさい。」
「ありがとうございました。おかげ様で、イイ気分で帰れます。」
「美咲もそうじゃろ。あいつが誰かの為に歌うなんて今までなかったからな。よほど気に入ったんだろう、あんたのことが。」
「そうなんですか?」
「少なくても、ここでは初めてだな。こっちが驚いているよ。いつも歌い終わるとタバコを1本吸う間にサッとビールを2杯飲んで、急ぎ足で帰って行くからな。」
マスターの言葉に疑問を残したまま、厚司は席を立ち、コートを羽織ると店の外へ出た。袋小路の向こう側はとても眩しかったが、マスターが言ったようにこの店から出ると、明るい向こうにある現実の方が地獄のように感じた。ここへ戻ってしまう人の気持ちもわかるような気がした。


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