見出し画像

傍聴雑感:岡口裁判官弾劾裁判第二回期日

昨日岡口裁判官の弾劾裁判を傍聴し、かなりショックを受けました。

今まで勉強してきた手続保障や裁判の公開は全部口先だけのきれいごとだったのかと正直失望を通り越して絶望しかけました。

私は一介の司法試験受験生にすぎず、なにか発言できる立場でもないのでしないでおこうと当初は考えていましたが、
なにしろたった19席しかなかった傍聴席、その現場にいた数少ない傍聴人として、声を上げなければいけないという思いに駆られました。
そこで、Twitterと合わせて、ここにも感想を記したいと思います。
(なお、上記の通り受験生なので、法的な知識や解釈で間違っているものがあればご指摘頂けると幸いです。)

弾劾裁判制度の問題点

弾劾裁判制度は、裁判官を辞めさせ、法曹資格まで剥奪するという極めて重い処分をもたらす裁判です。
それにも関わらず、適正手続が保障されているとはとてもいえず、制度的に問題だらけだということが傍聴に行ってよくわかりました。
個人的に問題があると思った点は三つです。

1. 構造の歪さ

裁判官役は国会議員、検察官役も国会議員という、一方当事者の同僚にあたる者がこのような重い裁判をジャッジするという構造はどう考えても不公平で、弁護側は圧倒的に不利な立場にいます。
裁判官弾劾法は30条で刑事訴訟に関する法令の準用をしているので、当事者主義なはずですよね。そうであれば、こんな構造は当事者対等の原則に反するのでは?

2. 国会議員の法的知識のなさ

私ごときに言われたくはないとは思いますが、国会議員は法曹資格を持っていたとしても実務経験が浅いのか、法律をちゃんと把握していないように見えました。刑法や刑事裁判の基本的なルールもちゃんとわかっておらず右往左往する場面が何度もあったように思います。
そんな人たちがこの重すぎる処分を下す場で現役裁判官を訴追し、審理し、判決を行うことの滑稽さ。まるで茶番を見ているよう。
司法に民主的な統制を及ぼすために、民主的な基盤を有する国会議員に弾劾裁判をやらせるのはわかります。でも、仮にも裁判と名のつく場で、法に基づき人を裁くのであれば、せめて数人は法律のプロといえるような、経験豊富な職業裁判官を入れるべきではないでしょうか。
こんな手続きで本当に公正な裁判を担保できるのか、甚だ疑問です。

3. 「公開の法廷」は名ばかり

弾劾裁判所の対審及び裁判の宣告は、公開の法廷でこれを行う(裁判官弾劾法26条)。
とありますが、それは名ばかりのものではないかという疑念が強く湧きました。これについては傍聴人という立場からこそ言えることだと思うので、やや長くなりますが以下にその理由を3つ挙げます。

(1)傍聴席の少なさ

まず、これだけ有名な方の事件で国民の関心が高いにも関わらず、用意された傍聴席はたったの19席でした。これは当日出席していた裁判員、訴追委員会、弁護団の合計人数よりも少ない数です。法廷内の人数のバランスから言って、傍聴人は口実程度のお飾りという印象を受けました。
ちなみに、一緒に申し込んだ友人は落選していたので傍聴希望者が少ないわけでは断じてありません。
(追記: 他の方のTwitterから知りましたが、19/120で当選したようです。)
裁判官弾劾法25条によれば、弾劾裁判所は、必要と認めるときは他の場所でも法廷を開くことができるのだから、「国民の信頼」を得るためにも、もっと広い法廷を借りてやるべきだと思います。

(2)視界を遮るスクリーンの配置

次に大問題だったのは証拠調べの時に傍聴席の前に置かれた巨大なスクリーン。
傍聴席の前に置かれたと言っても、こっちに背中を向けた状態。つまり傍聴席からは真っ黒な裏面のみ見えるという置き方でした。
傍聴席から法廷内への視界を半分以上遮る形だったので、遮へい措置(刑訴法157条の5)かと勘違いしそうになりました。なにしろ法廷内で発言してる人が誰かもわからないような状態になっていたもので。
証拠調べが始まると、そのスクリーンには、取調べられる証拠が映し出されていたようです。
公開の法廷のはずが、傍聴人にはスクリーンに何が映されているかわからないという状況。
周りを見回すと、傍聴席の後ろ、開廷前にテレビカメラが置かれていた場所にスクリーンが置けそうなスペースはあるように見えました。テレビカメラは開廷直前の2分間だけ撮影を許され、2分後にはすぐにハケるのでそこのスペースは空いた状態になります。今回スクリーンが現れたのは開廷して約1時間後、訴追委員会の冒頭陳述が終わり1回目の休廷を挟んだあとだったので、時間帯的にもまったく被らずにそのスペースを使えるように思いました。
また、傍聴席19席しかない小さな法廷なので、スクリーンが置かれた位置からそのスペースまでは2メートルくらいしかなく、そこに置いても視認性に問題はなさそうに思えました。
もし仮に視認性が悪くなるから動かせないのであれば、傍聴席にも何らかのモニターを置くべきだと思います。
傍聴に来ているのに発言者も証拠も見えないってどんな苦行かと、いっそ私が異議を申し立てたいような苦痛な時間でした。

(3)証拠調べは要旨の告知

スクリーンで文字通り目の前が暗くなっている傍聴人にさらに追い討ちをかけるように、訴追委員会は、証拠調べは証拠の全文朗読ではなく、要旨の告知にすると言いのけました。
これに対し弁護側は異議を申し立て、「傍聴人にはただでさえスクリーンで証拠が見えないのだから全文朗読によるべきだ」と、裁判官弾劾法が準用する刑訴法305条1項を挙げながら言ってくれました。
この時本当に弁護団が神々しく見えました。正確には、スクリーンに遮られているせいでどの弁護人がそれを言ったのかも見えなかったので、神々しく「聞こえた」というべきでしょうか。
しかし、訴訟法の条文を知らなかったのか裁判員(国会議員)たちはおろおろし、裁判長(国会議員)はやむなく休廷を宣言。
休廷中は訴追委員会(国会議員)と廷吏が刑訴法と刑訴規則の条文を懸命に探しまくり、10分以上経ってからやっと規則203条の2を見つけたのか、「これだ!」という表情で廷吏が飛んでいき、そこでやっと審理は再開され、刑訴規則203条の2を理由に上記の異議は却下されました。
傍聴人の役割を、公正な裁判とそれに対する国民の信頼を基礎付ける公開法廷にとって不可欠な要素ととらえるか、それとも公開法廷の口実作りのために最低限こしらえた物言わぬ置物ととらえるか、その認識の差が垣間見えるような出来事でした。

つまるところ、憲法37条の問題では?

「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速公開裁判を受ける権利を有する。」(憲法37条1項)

裁判官弾劾法がその審理に刑事訴訟法を準用している(30条)ため、上記の憲法37条1項の保障も弾劾裁判には及んでいるのではないでしょうか。少なくとも同条の趣旨は妥当するというべきかと思います。
それにもかかわらず、今回私が傍聴した弾劾裁判は、上で見てきたように、公平という面でも、公開という面でも、甚だ問題があるように思いました。
そして、おそらく迅速という面においても、問題があるのではないかという疑念があります。
昨日の期日の最初でも物議を醸しましたが、岡口裁判官の訴追されている行為が13個から無理くり1個にまとめられた理由は、結局、「罷免の訴追は、弾劾による罷免の事由があつた後三年を経過したときは、これをすることができない。」(裁判官弾劾法12条)という訴追期間上の問題に関わるからなのではないかと疑っています。もっとも、この点について私は詳しく調べていないので、疑義に留めておきたいと思います。
追記: 弁護士ドットコムニュースによれば、13個の行為「のうち4つについては訴追期間の3年を過ぎている」という。
そうだとすれば、迅速という面においても、やはり問題があるということになり、結局この弾劾裁判は、憲法37条1項に反するおそれすらあるような気がします。

「公正・中立な裁判への信頼」とはなにか

岡口裁判官は、「国民の公正・中立な裁判への信頼を傷つけた」という理由で、弾劾裁判にかけられています。
昨日の法廷でも、この「国民の公正・中立な裁判への信頼」というワードが何度も繰り返し訴追委員会から上がっていました。
しかし、上記述べてきた3つの問題点が非常に目につき、私はこの裁判手続を傍聴したことでむしろ「国民」のひとりとして、「公正・中立な裁判への信頼」を著しく失いました。

どの口が?というのが率直な感想です。

「国のお偉い方がやることなのだからきっとちゃんとしているのだろう」というのは結局のところ「盲信」であり、本物の「信頼」というのは、透明性が高く、適正手続が保障された裁判にこそ宿るものと考えます。

私的なことも含め、自らの考えを発信することで司法の透明性を確保し、国民の本物の信頼を得ようとしてこられた岡口裁判官。
一方、盲信に頼って適正手続保障の不十分な裁判で彼を罷免しようとしている訴追委員会。
そして、裁判員としてのプロ意識に欠け、馴れ合いと取られても仕方ないような訴訟指揮をする弾劾裁判所。
そのいずれが「本物の信頼」に値するかは、視界の大半を遮られた無力な傍聴人の目にこそ、よく見えるような思いでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?