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管理されることに慣れすぎた子どもたちと管理することに慣れすぎた親たちは学びの本質を見失い,ただひたすらに管理され続ける

 どうもこんにちは,ひとりごとです。久しぶりの投稿です。6月に記事を書きかけて,さながら冷凍庫のジップロックごはんのようにそのまま放置されていた記事を見直すと,やはり今考えることと繋がるようなことがあったので,これからちょっと解凍してみようと思います。

クラウド管理ソフトの“管理”の違和感

テレワークやリモートワークが世に広まってから,いわゆるクラウド業務・運用管理ソフトの広告を目にする頻度が以前よりも倍増していますよね。社員のやる気を見える化する(藤○竜也でお馴染みの スカ○シー クライアントビュー)だとか,夜のWBS(テレ東系)を見ていると必ずCMが流れてきます。私はアレにめちゃめちゃ違和感をおぼえます…。

 もちろん,クラウド業務ソフトにも色々あり,在宅で経理ができるとかデータベースにアクセスできるとか,単純に出社の必要性を軽減することを通じて業務の効率化を図るものも多くあります(私はその辺りあまり詳しくありませんが…)。こういうものは,どんどん普及されて然るべきだと思います。ただ,そういった在宅でだらける・サボるであろうことを前提に,じゃあ“管理”(≒監視)してサボりの抑止力にしようとか,パソコンに向き合って一定の動作をしていた(業務に集中していた?≒頑張っていた?)人を評価するシステムにしようとか,そういう方向性が気に入らないのです。

 まず,見た目あるいは雰囲気でサボっていたとして,それで本当に業務の効率が下がるかとは関係ありません。確かに,YouTube見ながらExcelにデータ入力するとミスをする確率が高くなるかもしれないし,パンクミュージックを聴きながら文書を作成すると余計に時間がかかってしまうかもしれません。そういう人は(そうでない人よりも)多いのかもしれません。でも,それは各々の特性が反映されるべきであって,そこを蔑ろにするのは本末転倒です。

 結局,成果物が一定以上の水準を満たしていれば,それで良くないですか? あるいは,大して成果が出せないのに,ずっとボーッとマウスを動かしながらExcelシートを見つめて,関数も使わずに全部手入力して“頑張った”人が評価されうる状況って悲しくないですか? 誰も得しないですよね…。クリエイティブな作業ならともかく,単純作業で効率化の余地があるものであるにもかかわらず,それを時間かけて頑張ったことで評価されるのは前近代すぎます。(もちろん,これは極論であって,実際はオール手入力奴は後に指導が入ると思われますが…)

 また,そういうシステムを喜んで導入する会社の上層あるいは人事部に言いたい。「そもそも,在宅でサボるような人材を金太郎飴的形式主義採用試験(面接)で迎え入れたのはお前だよ?」と。企業の採用面接のテンプレートとか,本当に誰も得しないものです。中身を見ないで,しっかり結果を出せるかどうかがわからないままに,見た目重視形式重視雰囲気重視で採用したツケが回ってきているし,それで監視でもって生産性をギリなんとかキープしようとしているとすれば,不良債権回収お疲れ様です〜としか言いようがない。

なぜ,管理されることに慣れてしまうのか…

 そういう,パノプティコン歓迎勢が日本に一定数存在するのはもう仕方のないことだとして,そうすると今度は,なんでそんな連中が絶えず生まれてくるのだろう…と疑問に思いました。主体的な学びが重要視され,自ら動いて仕事や遊びの場を得ていく現代において,そんな受け身で仕事をするなんてもう化石では?誰もそんな洗脳なんて受けないだろう(大袈裟)と思っていたのです。

 そう思っていたところ…見つけてしまいました。まさに“洗脳アイテム”を。

 うおお…。監視され,機械に促されることでやる気を出させようとしている。

 もちろん,これは(半年前の新製品とはいえ,世代スケールで言うと)まだ世に出たばかりのものであって,これが使われたから管理されることに慣れた人間が増えた,と言いたいわけではありません。こういう製品が素直に世に受け入れられていて,(あくまで購入・使用した人のうちで)78%が“効果を実感”してしまっているという事実に,ああそうかなるほど…と納得してしまったわけです。

管理されることに慣れると,学びの本質を見失う

 勉強,もとより,学びの本質は,管理されることではありません。学びたいから学ぶのです。ある事象を知ると,じゃあ次はこれはどうなるんだろう?と好奇心が湧いて,それにしたがって調べたり実験してみたり…繰り返すことが学びそのものです。勉強しなさいと言われてする勉強や,なんらかの報酬(愛着,金銭,自己肯定感…)がもらえるからやる宿題は,その意味において“学び”ではありません。パブロフの犬のように,条件付けがされて単純作業をしているだけに過ぎません。

 もちろん,そのような条件付けによる単純作業に意味がないわけではありません。むしろ,大いに意味はあります。例えば割り算の筆算なんて,ほとんどの人々にとっては好奇心でもって学んで身につけるものではなく,ただカリキュラムで課され,宿題で反復練習をしたからこそ身についたものだと思われます。かく言う私も,小学生から中学生くらいまでは,進○ゼミをゴリゴリに利用して勉強していましたし,“赤ペン先生”の答案提出でもらえる金ピカのシールを集めて欲しい景品と交換することを目標にしていたからこそ,学習習慣がつき,割り算の筆算ができるようになったのだと思います。反復練習によって身に付くものがあることは否定しないし,その反復練習にやる気を見出すには,なんらかの報酬という“不純な動機”が介在する必要があるのも納得できます。

 ただ,それは“管理”や“監視”であってはならないと思うのです。私は自発的に「〇〇の景品が欲しいな,だからその目標達成のために勉強しよう」という気持ちを抱いていたわけで,そのプロセスを親に管理されていたわけではありません。もし管理されていたとしたら,むしろうざったくて投げ出していたかもしれないな…と,今振り返ると思います。だって,日々の学習量が,鉛筆の動作時間という客観的指標を用いて“見える化”され,即時に親に見られるんですよ…。しかも,そういうのを導入する親子であればおそらく,「今日は1時間も勉強してえらいね!」とか「昨日はなんで勉強できなかったのかな?」とかいううざいフィードバックをもらうに違いありません。本当に子どもに関心があって愛情があって成長が嬉しいという親だったら,むしろそんなデバイスやツールなんて不要で,直接子どもの表情や雰囲気を見て,楽しかったとか頑張ったとかいう話を聞いて,そこで共有するはずです。機械に褒められても何も嬉しくないし,あくまで道具でしかありません。

 また,本来の話題からは逸れますが,小学生の私がそんなデバイスを手に入れたら,逆に「どのくらいの振動を与えれば勉強時間としてカウントされるんだろう?」とか,「お絵かきでも勉強時間として認識されるのかな?」とか,別方向の好奇心をくすぐられ,どんな加速度センサーが付いているのかとかが気になってしまい勉強できなくなっていそうです。さらに言えば,そもそも鉛筆に19gの本体を纏わりつかせなきゃいけないのは,ユーザビリティ最悪なので,私だったら多分3日で「ユーザビリティ最悪なのでつけるのやめるね」と親に説明し合意を得たうえで即お蔵入りしていたことでしょう。(重過ぎデカ過ぎで,もったことないけど鉛筆の持ち方狂うのでは???)

学びの本質を見失い,一挙手一投足を監視されていないと何もできない人間が爆誕する

 繰り返しになりますが,学びの本質は学びたいから学ぶことです。学びたくなければ学ばなくていいし,そもそもそんな中で学び続けていったとしても,いずれ学ぶのをやめてしまうことは目に見えています。たとえ短期的にみて興味がわかない,単調でつまらない,頭に入ってこない内容であっても,自分で工夫して楽しくしてみようかな…とあれこれやることで,結果的に楽しく続けられたりします。

 そして,その“自分で工夫する”という過程は,一種の自己肯定感の上に成り立つものだと思われます。ある程度のレールを敷かれ,方向性が示された上で,その後の裁量を当人の自由にさせ,考えさせることをしていないと,工夫なんてできることではありません。勉強量でもって縛るようなことを小学生からずっとやっているようでは,とにかく机に向かっていればいいとか,決められた課題だけやればいいとか,見られていない場所ではいくらでもゲームし放題だぜやった〜とか,そういう思考になっていくでしょう。 

 そう,それは企業の上層部による従業員の管理(監視)にも通じます。十分な信頼があって,この人は自由にさせていればしっかり結果を出してくれるだろうとか,まあ少なくとも日々の進捗状況の共有を義務化してさえいればプロジェクトも円滑に進むだろうとか,そういう程度の管理が望ましいものであって,それを超えるような監視は相互に不利益では???と思うわけです。

 でも,そういう監視をする必要が生じてしまう。なぜかというと,管理することに慣れすぎた親と管理されることに慣れすぎた子どもたちがこれからも一定数存在し続けるであろうから…。管理されることに慣れすぎてしまうと,自分の意思を失っても生きていけるし,なんなら自分の意思を掻き消した方が楽に生きていけることを悟ってしまうわけです。一生,何かしらの組織の駒としてしか生きていけない人間の出来上がりです。そういうのは虚しいな…と思うのですが,どうなのでしょうか。

 もちろんそういう人間は社会の中では一定数必要だし,むしろ何をするにも問題意識を持ってしまうのはそれはそれで生きづらいわけです。しかし,年長者に言われた通りにやれば発展する時代は終わったので,やはり管理すること/されることに従順な人が増え続けるのは好ましいことではないな…と思います。

予備校で感じること 〜脱・パノプティコンに向けて〜

 予備校で仕事をしていても,年々生徒の思考力というか,目標達成に向けて自分で実行する力が二極化しているな,と感じます(年々,といってもまだ実質3年しかやってないですが…)。できる子は,予備校の提供するサービスをしっかり把握し,自分に必要なものは隅々まで使いこなしていますが,他方できない子は,そもそも予習とはなんぞや?とか,宿題が出ていないからその教科は勉強しなくていいや(ラクでいいな〜)とか,そういうレベルで停滞しています。無論,年度始めにそういった指導をあれこれ受けた上で,です。

 私は,これらの状況について,受験生としての当事者意識の差異なのかな…と思っていたのですが,本記事の考察を踏まえると…もしかすると(それまでの人生の中で)管理されることに慣れすぎてしまったからなのかもしれないですよね。言われたからやる,決まりだからやる,を繰り返していると,言われないからやらない決まりじゃないからやらない,がさも真っ当なことのように思われるのでしょう。それを続けているうちは,結局(どんな程度の目標であれ)大学合格は程遠いし,仮に大学に合格して入学したとしても,その先でまた言われないからやらない決まりじゃないからやらない,を繰り返し,お客様意識が拭えないまま,高等教育でもなんでもない大学生活を過ごしてしまうんだろうな…と思います。

 そしてそういう生徒(学生)は,結局,予備校に入っても大学に入っても,その環境にあるリソースをうまく使えないまま,(それらが使える人と比較して)お金と時間を無駄にしてしまうのです。そうならないように(…というと問題意識が矮小で本意ではありませんが),ぜひ一つでも多くのご家庭に,管理しすぎる/されすぎる環境を脱していただきたいと思います。もちろん,はじめは管理が大事だし,何も放任主義にしろ,といっているわけではありません。ただ,管理が行きすぎて監視になるような状況はまずくて,かつ管理も続けすぎると思考停止になるからダメだよ,というくらいの意識です。

 「立派な大人になってほしい」とか「将来困らないように安定した仕事についてほしい,だからいい大学に入ってほしい」とかいう気持ちはわかりますが,それが本人の意思を上回ってしまったり,本人の思考を妨げるようなことがあると逆効果なんですよね。予備校講師としても,生徒にわかってほしい,できるようになってほしいから,あれこれ言ってしまうのですが,それも本人の意思を上回ったら意味をなさないなと思い,自戒の念を込めて,本日のひとりごとでした。

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