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あなたは「狭い門」から入りましたか?

《狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。》(マタイ7:13,14 新改訳) 

《努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。》(ルカ13:24) 

まず、ここに少数グループと多数グループの2つのグループがあることが分かります。
「入ろうとする」(クリスチャンを自認する全ての人)のうち、「入れない人」の方が多数であると言う事です。

仮に全体を100として、45:55位では、「多い、少ない」という表現にはならないでしょう。
恐らく、感覚的に、多くても2割程度でないと、「少ない」という表現にはならないように思えます。
「まれ」という表現を考えるとそれ以下ということも十分考えられます。

聖書から、はっきり断言できるのは、命に通ずる狭い門を入っている人かどうかは、人数の比率である程度確認できるということです。

当初、極めて少数の人しか入らず、それ故に、これこそ「狭い門」に違いないと思っていた所、そのうち、大勢の人が入るようになり、結果的に主流となり大きなグループとなったとしたら・・
最終的な状況を預言的に示している聖句が明らかにしていることから言えば、そのグループは、「滅び」派であって、「命」派ではないと断言できるのです。

マタイ7章 20節には「あなたがたはその実で彼らを見分ける。」とありますが、実によってすら見分けがつきにくくても、単純に「数」でも見分けられる。という、「天の国」に関する一つのルールが見いだされます。

もちろん、少数でありさえすれば「狭い門」を入ったと言えるわけではないことは言うまでもありません。しかし多数派は、ただそれだけの理由でアウトであると言えるのです。

ほとんどの解説に見られるように、門をくぐった後の道が広い(容易)狭い(困難)という意味ではありません。そのようなことは微塵も語られていません。「見いだせるかどうか」ということです。
大勢の人が入ってゆく広い門は、「滅び」にしか行き着かないのです。

一方少数の人が入る狭い門は、その後のプロセスはともかく、必ず「命に至る」のです。

入り口そのものが最重要なのです。

取り敢えず広い門を入ってから、そのうち「狭い門」が見つかったらそこを入れば良いとは言えないのです。
すでに広い門を入ってしまった人は、完全に引き返して、改めて見つけようとしない限り、狭い門を見いだすことはありません。

それで、「命に通じる門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれ」と述べられている「その道」とは、門をくぐった後の道ではなく、門に至る(続く)道のことに違いありません。

「その道」、「それ」を見いだす。とありますから、全ては「門(戸口)」に注意が向けられており、いわゆる「道のり」のような概念は、あるとすれば門までのものであると言えます。

実際、ルカの記述の方の例え話では、戸が閉じられてから、その戸を叩き、その戸越に主人と会話をしています。
この例えは、イメージとして、戸口は「家(建物)」そのものに入るための入り口という風に想定して語られているようです。この例えから分かるのは「狭い門」を通ってから、長い険しい(厳しい)道のりを歩み続けるというイメージを抱くのは不必要だと言うことです。

「狭い」とはどういうことでしょうか。
良く言われるように、競争率が高い故に、入りにくいと言う事ではありません。
門自体が、振り分けるための篩(ふるい)の役割を果たす訳では無く、人気があって殺到してくるどころかむしろ逆で、ほんの少数の人しかやって来ないのです。
なぜなら、その門の在処(ありか)がほとんどの人には見つからないからです。
ですから、それが「狭い」とは、入るために、あるいはそこに向かうのが困難(試練)と言う事ではなく、「見いだしにくい」故に「狭い」と表現されていることがわかります。

では、なぜ「見いだしにくい」のでしょうか。
無論、それは目的があって、神の配慮によって敢えてそのようにしておられる、と言う事でしょう。つまりそれは「隠された」宝であり、ひたすら探し続けて、自分の全財産をかけても得ようとするほどの気概が必要とされるものだからです。

《イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』》(マタイ11:25,26)

では、意図的に「見つかりにくく」されているとして、それもいわゆる比喩ですから、実際、具体的にはどのように隠されているのでしょうか。
これを考えるに当たって、まず次のことを考えてみましょう。
別の例えの中ですが、ある所で、イエスはご自分を「門」になぞらえています。

《わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。》(ヨハネ10:9)

では、ユダヤ人たちはメシアなるイエスをを見いだしやすかったでしょうか?

《わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。…見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。》(イザヤ53:1-3)

彼らが抱いていたメシアに関するイメージとは明らかに異なっていたために、イエスをメシアとは認められず、国民として与るはずだった約束を得損なってしまいました。
このイザヤの預言があったにも関わらずです。

同様に、「狭い門(戸口)」を見いだしにくい理由、つまり、「門」が「狭く」されているというのは、実際は一般に抱くイメージとは程遠いゆえにさっぱり人目につかない、実に地味な門であるということでしょう。

現実的な場面で描画的に表すと、「人通りの少ない細い路地を入って来て、地図と住所から行けば、確かにこの辺りなのは間違いないはずなのに、やっと見つけたと思えたそこにあるものと言えば、ただの質素な木戸で、門はあったにはあったけど、「こんなの?」「そんな分けないだろ・・」たぶん向こうに大勢の人が向かっている道があったけど、きっとあっちに違いない。・・・」

つまり「狭く」されているという表現が意味することの決定的な要素は、「そこを通る人が少ない」ということそのものにあります。

このことがいかに大きな影響を及ぼすか、ちょっと観点を変えて考えて見ましょう。

「コマーシャリズムに踊らされる消費者」などと言う言葉がありますが、聞いたことのないメーカーの商品より、TVなどで良く知られているメーカーのものの方が安心感があり、値段が高くてもそちらの方を選んでしまう習性があることを利用した宣伝が功を奏しているのは明らかです。

店に入ると、店員の方が決まって言う台詞が「今これが一番売れてますョ。」でしょう。
「人気」「ランキング」「流行」売れ筋」などの情報は、それ自体が「商品」としての価値を持ち、そうした雑誌類がもてはやされています。

逆に、自分は、多数の人によって支持されているもの、人気のあるものの「外にいる」と言う疎外感、焦り、不安感は決して小さなものではありません。

時には、そうした自覚のゆえに精神を病んでしまうほどの影響すらあります。

ある著述家は、「『劣等感』というものは、『マイノリティー(少数)であることの憂鬱』と定義できるかも知れない」。と述べています。
実際この時代に限らず、いつの時代でも、マイノリティーはそれよりも大きいマジョリティー(多数)に飲み込まれていく運命にあります。そのマジョリティーによって、ますますかき消され、とぼしくなってゆくマイノリティーの憂鬱、不安、焦燥感、胸騒ぎ、やきもき、などなどに苛まれてしまうことは、よく理解できます。

「狭い戸口から入るように努めなさい。」と励まされている理由はそこにあります。
「狭い戸口選択組」(少数派)であることに微動だにしない、確信が必要とされるということでしょう。

ところでいわゆる「正統」とか「異端」とかいう言葉があります。
統計によればキリスト教人口は、世界人口の31.5%だそうです。
2002年の集計では約 20.4億人で、その内訳は、カトリック約 10.8億人、プロテスタント諸派計約 3.5億人、正教会約 2.2億人、その他の教派をまとめて約
3.9億人ということです。

「異端」とは何でしょうか
wikipediaの説明によるとこうなっています。

異端(いたん、heterodoxy あるいはheresy)とは、 正統からはずれたこと。
正統[orthodoxy] と対立する異説。 その時代において正統とは認められない思想・信仰・学説などのこと。多数から正統と認められているものに対して、少数によって信じられている宗教・学説など。
正統を自負する教派が、正統教理・教義に対立する教義を排斥するため、そのような教義をもつ者または教派団体に付す標識。」
「異端」と一対で「正統」という概念が用いられる。
宗教学辞典などで、異端は正統あっての異端、つまり「異端」という概念というのは「正統」という概念があってはじめて成立するものであり、それ自体で独立に成立する概念ではない、相関的概念である、とされている。また哲学事典などでも「正統」と「異端」は動的な対概念であるとされている。」

要するに異端とは「少数によって信じられている宗教・学説」と言う事ですから、この定義からすると、それを見いだしている人は「少数である」と言われる「狭い戸口」を入っている人は間違いなく「異端」に分類されているはずです。(もっとも、分類する人の目に留まったらの話しで、「異端」にすらならず度外視されているかもしれません)

ここで改めて、ルカによる福音書の方に目を留めて、その流れを追ってみたいと思います。

《イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。
すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。
そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。

しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする》
ルカ13:22-29)

話しの発端は、「救われる者は少ないのですか」という質問がなされたことによります。
この人がどういうつもりでこの質問をしたのかわかりませんが、「少ないのなら、自分は無理かも知れない。多いならひょっとして可能性があるかもしれない」と考えたのかも知れません。

イエスはこれにYESともNOとも答えられず、「狭い戸口から入るように努めなさい。」と励まされます。そして、「入れない人が多いから」と付け加えられます。
この「狭い戸口から入るように努めなさい。」という励ましですが、何に、あるいはどのように「努力」を傾けるのでしょうか。

目的(理由)ははっきりしています。「入ろうとしても入れない人が多い」からです。
「入ろうとしても入れない」というのは、何に入れないのかというと「狭い戸口に入れない」と言う事ではなく「救い(天の国)」に入れないと言う事です。
「救い」に入れない理由は何かというと、マタイ7章から解るのは、別の戸口(広い門)から入ってしまうからです。その門は「救い」に通じていないからです。

ですから、ここで「努力する」とは、狭い戸口から入るため、つまり、その戸口を見つけ出すための努力が必要であると言う事です。
それで、今一度、この「狭い戸口」に関する記述の、さらにその前後の文脈から、「神の国」に関する例え話の全体的なイメージを把握してみることにしましょう。

ルカの記述では、その直前に、からし種とパン種のたとえが語られています。

《そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。 それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。
また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。》
(ルカ13:18-21)

そしてマタイの方では、その例えの前に、「麦と毒麦」の例えが記され、後の方では、隠された宝、高価な真珠のたとえ、そして、引き網の例えが続いています。 これらにはいずれも「天の国」に関して、その様々な特徴が描かれています。

要約しますと、からしの種やパン種の例えからは、始まりの時の小さな状態から、目を見張るような拡大へと成長する様子が分かります。
事実、ペンテコステの時にわずか120人ほどだった人が、今日では、いわゆる「キリスト教徒」は約20億 4000万人ということですから、このたとえ通りのことが生じています。

しかし毒麦のたとえや魚の引き網の例えなどから、一見大きな収穫が見込まれているように見えますが、ここでは否定的な要素の方が注意を引きます。これらの例えと、狭い戸口の例えを併せて考慮すると、こうした大きな拡大、成長には、相応しく無いもの(最終的には、焼かれ、捨てられるもの、つまり偽者のクリスチャン)が一緒に紛れ込んでいる、しかもそちらの方が圧倒的に多数だということです。

あらかじめ、「狭い方(命)=少数派」「広い方(滅び)=多数派」と、はっきり指摘されているにも関わらず、結局、多数の方へなびいてしまうのが不思議に思えます。
広い門を通って入ってゆくものが多い理由を考えて見ますと、恐らく、何よりも「多数による安心感」に他ならないのかも知れません。

広い戸口(門)は見いだす必要がない。つまり、誰にもその存在が明らかで人々に良く知られていると言う事でしょうから、「狭い戸口選択組」はそれを承知の上で、敢えて狭い戸口を見いだそうとしたということでしょう。

一方、「広い門選択組」は、恐らく、「狭い戸口」が存在すると言う事は聞き及んでいても、実際にはその在処(ありか)を知らない故に、もしくは、キリストの事前の警告をほとんど、意に介さず、当然のごとく、もしくは誘われるままに、「広い方」から入ってしまったと言うような状況なのでしょう。

そして、唯一の本当に天の国(救い)に入る事のできる、この「狭い戸口」もいずれ閉じられることになります。
その時、入れなかった人々は、「戸を開けてください」と訴えます。
それに対して主人は、『お前たちがどこの者か知らない』と応えます。

しかし、そんなはずはあり得ない、それは誤解だと言わんばかりに、「知っているはず」という証拠を出します。彼らはイエスと『一緒に食べたり飲んだりしました』し『広場で教えを受けた』と主張します。
それに対して主人は再び、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言われます。

ここで2度繰り返されている主人の答え方に注目したいと思います。

「あなた方が [誰か] を知らない」とではなく、「どこの者」か知らない」と述べています。
つまり個人的に、関わりがない、と言っているのではなく、「お前たち(複数)」が「どこから(所属、由来)」かを問題にしていることが解ります。

この「どこの」と訳されている語は「ギ語:プセン」で、例えば、マタイ21:25では、ヨハネのバプテスマの源が天的なものか地的なものかという論議が出て来ます。

《ヨハネのバプテスマは、どこから「ギ語:プセン」来たものですか。天からですか。それとも人からですか。》

このことから、この「広い門」のたとえに関する限り、その教訓は、所属の問題であり、最終的に個人個人がその信仰や人格、業などが神の意に適わなかった故に退けらるということではなく、あくまで、「狭い戸口選択組」という少数派のグループに属するものかどうか各自が吟味する必要を教えていると言えます。
そして、ひとたびそれを見いだしたなら、少数派であることに不安を覚えることなく、むしろそれゆえにこそ一層の確信を抱いて雄々しく邁進すべきであることを励ましています。

ルカ13:24の「努力して狭い門からはいりなさい。」という聖句をヘブライ語訳で見ますと、「努力して」という部分はヘブライ語の「アーマツ」という語が用いられています。
この語は「勇気」とか「征服」という意味に訳されていますが、例えばヨシュア1:9では、「雄々しくあれ!」と訳されています。

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