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『試練の時から・・守ろう』という聖句は、「患難前携挙説」を完全否定する根拠であるという考察

この記事は、すでにUPしている、《患難前携挙説」の根拠とされる『試練の時から・・守ろう』という聖句に関する考察》のパート2という位置づけになります。

今まな板の上に乗っている聖句は黙示録3:10です。

《地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。》黙示録3:10

一般にこれが、前携挙説の根拠として挙げられているのは、「試練の時に」の「【に】(ギ語:エク)」は「~から」とも訳せるので、その時つまり試練の時に地上から挙げられて守られる、というような論説ですが、原語に基づいての考察であるなら、いっそのこと、もっと徹底的に、元のギリシャ語の主要な単語を紐解いてみることにしましょう。

そうするなら、驚くべきことに、前携挙説の根拠どころか、それを全否定する決定的な証拠が浮かび上がって来ます。

下の画像はこの聖句のギリシャ語原文です。

1. 守る (ギ語:テレオについては前回取り上げましたので、これからこの赤丸を付けた残りの3つの単語に注目します。)

2. 試練
3. 試す
4. 時 

順に原語を取り上げてみましょう。

【2. 試練】

ピラスモス(名詞) この語は聖書中にわずか21回しか登場しません。その殆どは「誘惑」と訳されています。

《NASB(新アメリカ標準訳聖書)では[temptation 誘惑 (12回), testing 吟味(2回), trial 試み (3回), trials 試み(4回)》

【3. 試す】

ピラゾー(動詞 試みる テストする) この語は上記【2. 試練】から派生した動詞形です。

聖書中に39回使用されていますが、うち15回は同様に「誘惑」と訳されています。

ですから、黙示3:10のその部分は、

「地上に住む者たちを誘惑するための、全世界に来ようとしている誘惑となる時には」とも訳し得るということです。

「試練の時」というイメージから「患難に遭う」と捉えがちですが、必ずしも、苦難や危害を加えられるということを示唆しているわけではないようです。

【4. 時】

ホーラー (時間 1時間 ほんの僅かな間)(英:hourの語源)殆どの場合「hour時刻」と訳され、他に「moment 瞬間 (3), once 一度 (3), short 短い(1), time 時(6), while 一寸(4)」

この語が使用されている他の聖句(数例)

「すると、【ちょうどその時】、そのしもべはいやされた。」マタイ8:13「悪霊は彼から出て行き、その子は【その時】から直った。」マタイ17:18
「思いがけない日の思わぬ【時間】に帰ってきます。」ルカ12:46
「【この際】イエスに手をかけて捕らえようとしたが」ルカ20:19
「すると【即座に】、霊は出て行った。」使徒16:18
「あなたのさばきは、【一瞬】のうちに来た。」黙示18:10、17,19も同様

いずれもこの語は僅かな時間を指して用いられています。

時間の長さに関する区別は明確にそれぞれの単語で識別されています。流石に今日の「秒」に関する単語は存在しません。「ホーラー」は最も短い時間の単位です。

「・・この天使たちは、その年、その月、その日、その【時間】のために用意されていたのである。」黙示9:15

終末期は7年 大患難は3年半続くことになっているようですが、ここで示されている「試練(ピラスモス)」の期間は、ほんの僅かの間であるということです。

或いは、人によっては「一瞬」であるかもしれません。
なぜそれほど、短い間なのでしょうか。

人は誰でも、予期してはいても、実際に誘惑(ピラスモス)に直面すると、多かれ少なかれ揺らぐものです。しかし、きっぱりと腹を括ってしまえば、その誘惑は、そこで終了します。本人次第なのです。だから短時間なのです。ヤコブは「試練」は当人の問題であると指摘しています。

「試練(ピラスモス)に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。
だれでも誘惑(ピラゾー)に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑(ピラゾー)されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑(ピラゾー)なさることもありません。
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑(ピラゾー)されるのです。」
ヤコブ1:12-14

黙示録3:10の「試練の時には」の「には」は「から」と訳し得る故に、試練に直面せず、その前に天に挙げられるという主張がいかに聖書的に何の根拠もないものかこれでお分かりなるでしょう。

ほんの僅かの時間の誘惑に遭わないように、天に取り去ることが神のご意思だとしたら、これまでの前歴史を含めて、クリスチャンが試練に遭うことなど皆無なはずです。

今検討中のこの聖句の続く節を読むだけで、「試練に遭わないように取り去られる」ことなど、ありえないことは誰にでも解るでしょう。

「わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。」
黙示録3:11,12

栄冠を奪われかねない状況を危惧しているのはなぜですか、前述の「試練」に遭うからに他ならないでしょう。

試練に遭わないようにされたなら、一体、何から「勝利を得る」のでしょうか。遭遇することになっている「試練」に対してに他ならないでしょう。

でっち挙げられた、まやかしの慰めではなく、本来の聖書からの健全な教えの型に基づく、励ましをあなたにお贈ります。

「わたしの兄弟たち、いろいろな試練(ピラスモス)に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」 ヤコブ1:2-4

「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」マタイ26:41 

「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」ペテロ一 4:12,13

「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」ペテロ一 1:6,7

神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」コリント一 10:13

「試練に遭わないように」ではなく「試練に耐えられるよう」逃れる道が備えられるのです。


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