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いわゆる「携挙」と表現される教義についての考察 Part 1

※↓はこの記事の音声ファイルです。朗読を聞きながらお読みいただけます。

Christendom(キリスト教世界)において、いわゆる「携挙」と表現される教義があります。
宗派によって、これを完全に信じているもの、全く無視しているもの、ほとんど無関心なものなど、様々な見解、態度が見られますが、聖書に明確に記されていることについては、これを正しく捉えようと務めるのはクリスチャンとしてあるべき姿であると思いますので、私なりの研究をここで述べさせていただきたいと思っております。

まず最初にその部分を引用しておくことにしましょう。

「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。
イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。
すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。
すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」-1テサロニケ 4:13-17(新共同訳)

文脈の流れを見ますと、これはパウロが「復活」に関連した付随的な事柄として記しているものです。
このことを伝えようと思ったパウロの意図はおそらく、「復活という神の目的について聞いてはいるけど、実際はどういうことなんだろう。
キリスト再臨はそう遠くはないと思っていたかも知れない彼らが、もし自分がその時にまだ生きているとしたらどうなるのだろう。死んでないのだから、「復活」じゃない。それとも、天の王国に召される人はともかく全員死ななければならないということなのだろうか?? というような漠然とした疑問を抱いている兄弟たちに明確な理解を与えたいと思ったからに違いないと察します。

そして、物事の順序として、その時点で死んで眠っている人々が先ず復活し、その後、その時生きている人々が、生きたまま瞬時に霊的な存在に変えられて、そのあとに続くということを示している記述です。

さて、いわゆるこの「携挙」についてですが、私の記事の中でこれまでも、テサロニケのこの一連の記述を端的に表現するのに他に名称がないので、「但し書き付き」でこの語を何度か使って、ここでも「いわゆる「携挙」と表現される教義についての考察 Part1」というタイトルにしましたが、しかし、どうもやはり、プロテスタントの特定宗派の専用語であり、常に余計な知識、イメージが纏わりついてしまうのは避けられない、しかも様々な解釈があり混乱した状態にあるため、この語句そのものこそ、聖書理解を妨げる要素となっているという現状から、まず、テサロニケのこの一連の記述を、端的に且つピュアに捉えるための新たな語が必要であるということから、造語を試みることにしました。

そこで、色々候補を上げた中で自分で採用することにしたのは「生きたまま空中に挙げられる」ことを表すために「生継空挙」(せいけいくうきょ)なる語を創作しました。

耳慣れないですが、ともかくこれは、どんな宗派の教理、解説も無関係な、ただ単にテサロニケのこの一連の記述を表す端的な表現として受け止めていただきたいと思います。

それでもやはり、この出来事に関連して染み込んだ理解やイメージが拭えないと思いますので、(続くこのシリーズを含め)本題に入る前にもう少し、「コトワリ」を記しておこうと思います。

まず、「携挙=空中再臨」と解されていることについてですが、「空中再臨」という語句は聖書中に存在しないばかりか、そもそも空中に再臨するなどという捉え方そのものに誤りがあるということについて記すことにします。

主の再臨は再来であり、「再び来る」と約束されているのは紛れもなくこの地上です。多くのたとえ話でも「主人が到着する」と言われています。
「空中」はその途上であり、未だ再臨していない状態にあります。主の「再臨」をすべての民族(クリスチャン、異教徒、ユダヤ人等関係なく)がそれを「見る(目撃する)」と何度となく記されています。

聖書は、地上の人々が見ることになるその到来こそを「再臨」と表現していることをまず押さえておく必要があります。
聖書の最後の言葉が示しているのはそういうことです。「これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。アーメン。主イエスよ、来てください。」- 黙示22:20

そして、そのタイミングは、患難後です。

「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのす。」
ーマタイ24:29,30 

患難そのものは、反キリストを親玉にした勢力による人間的な破壊行為ですが、「続いてすぐに」起きる出来事であるキリストの再臨は「しるしが天に現われ」「天の雲に乗って来るのを見る」とあるように「天的(宇宙的)なもので端的に表現すれば「闇と恐怖」「天変地異的な混乱、困惑」に引き続いて起きる状況です。

つまり、キリスト教も聖書も知らない、もしくは全く無関心な人々(無神論)が、初めて否応なく認識させられる「神的なもの、『バチが当たる』などの裁きを予感させる出来事」という信じ難い、前代未聞の出来事を体験する時と言えます。

「地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、山と岩に向かって、「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と言った。神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。」ー黙示6:15-17

当然それは、すべての人間がキリストの到来を認識できるということであり、取りも直さずそのための最適な方法が「肉眼で見る」ということでしょう。

注目したいのはその患難後、人々が人の子を見た直後に、全世界の人々は、前代未聞、空前絶後の出来事を目撃すると言うことです。
故に、人々は自分が見た光景、天からの印は、ホログラム的な空間映像などではなく、現実だということを認識するでしょう。
逆に言えば、偽終末、偽ハルマゲドン を演出したいと企んでいる輩がいるので、この事象が無ければ偽物の演出だと見破れるでしょう。
しかし、クリスチャンにとっては、恐らくその直前に全てを悟る事になるでしょう。

「これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」- マタイ24:33

この「戸口まで近づいている」というこの到着(再臨)寸前のこのタイミング、それはつまり「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされる」という、暗黒のイメージの時です。
言い換えればそれはちょうど、1日のうち最も暗い時間帯である「真夜中」と表現される、比喩的な歴史上の真夜中での出来事です。「戸口まで近づいている」ということは、後は戸を開けて出迎えるだけです。

その詳細はこのようなものです。「花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。

『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。」ーマタイ25:5-10

このたとえは、主の臨在のときに地上に生きているクリスチャン(自称クリスチャンを含む)に生じることであり「生継空挙」( いわゆる携挙) に直結する記述です。

このことから分かるのは、あれだけキリストから「目覚めていなさい」と言われていたにも関わらず、例外なく全員「眠り込んでしまっ」ていると言うのが実情だということです。

しかし、何らかの仕方でその暗闇の中で『花婿だ。迎えに出なさい!』と叫ぶ声が起きるということです。そこで、愚かな娘たちも含め全員眼を覚ますのですが、ここで分離が生じます。眠り込んでしまったのに「用意のできていた」と言われる賢い「五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り」ます。

つまり、これこそが「生継空挙」そのものを物語っているものです。
さて、冒頭で「復活」に続く「生継空挙」について少し触れましたが、なぜ、「生継空挙」という取り決めがあるかといいますと、裁きが到来するまでは、時代の流れの中で、クリスチャンは連綿と誕生し、存在し続けます。
そして、キリストの到来(裁き)が到来すると、「これまで」という線引がなされます。そしてそれは「小麦の収穫」の到来でもありますが、そのタイミングで、小麦には死んで眠っている人と、地上に生きている人の2 グループが存在します。
生きて存在しているゆえに、復活ではないので、特例というかユニークな手段で、一瞬に不朽の体を持つ霊者と変えられる必要がある、それが「生継空挙」です。ですから、「復活組」も「生継空挙組」も実質的に何も変わりはありません。
その時点で双方ともすでに地の人ではなく天的な存在ですので、「小麦」として「地上」に収穫されるわけではないので「空中に」とされているのは当然で、それ以上の意味があるはずもないと言えます。

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