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「一人は連れて行かれ、もう一人は残される」は携挙の記述ではない聖書的根拠

「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」マタイ24:40

「連れてゆかれ」と訳されている語は[ギ語:パラランバーノ to receive from ~から受け取る]です。
多くの箇所で「連れてゆく」と訳されています。

「残される」と訳されている語は[ギ語:アフィーアーミ  to send away, leave alone,放置 permit許可する] 手放す、開放するなどとも訳されています。
また、様々な箇所で言及される「(罪を)赦す」という記述で、この語が使われています。
「わたしたちの負い目を赦して[アフィーアーミ]ください」マタイ6:12

さて、この「一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」という有名な文言ですが、(ルカでは17章)
大方の解説では、いわゆる「携挙」(生きたまま天に挙げられる)に関する描写の一つとみなされているためか、「連れて行かれる」人は「天」に、「残される人」は「患難」にという捉え方に終始しているようです。

しかし、この記述が、携挙と結びつくという根拠はかなり乏しく、決定的な要素はありません。
そう捉えようとすれば、そう言えなくもない、という程度です。

それで、勝手な解釈を忘れて、明確にそう言えるもの以外は「分からない」というカテゴリーに入れておくのが、「真理を追求する」者のあるべき姿だと思いますので、ここは、今一度、ニュートラルにしてから、改めて、検討したいと思います。

「何をどうやって、改めて検討する手立てがあるのか」とお尋ねの向きもあろうかと思います。
常に、どこまで言っても、「まずは」文脈を読み込むことしかありません。

変な喩えですが、刑事の基本は「現場100回」という態度、これは今や「慣用句」になっているようで、辞書による説明を挙げておきますと、おおよそどの辞書でもこういう説明です。
《事件現場にこそ解決への糸口が隠されているのであり、100回訪ねてでも慎重に調査すべきであるということ。》

「これ、聖書研究にもぴったり当てはまるなー」と言うのが私の率直な感想です。
思うに、場違いなところを、ひたすら深堀りしている方々も結構おられるようですが、私は、「文脈百回」これに尽きます。その上で、他への聞き込みに廻るというのが筋だろうと思うわけで。

・・余計な私感が紛れたので、本題に戻ります。

さて、「文脈」を考察するために、ほぼ同様の内容ですが、マタイとルカの記述を引用してみます。
ご一緒に文脈の流れを見ていただくために、双方とも、多少、長めのになっていますので、眺める程度で、読み飛ばして頂いて結構だと思います。

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。 37人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。 39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。 40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。 43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。 44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」マタイ24:36-44
「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。 27ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。 28ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、 29ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。 30人の子が現れる日にも、同じことが起こる。 31その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。 32ロトの妻のことを思い出しなさい。 33自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。 34言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。 35二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」ルカ17:26-35

先ず最初に明らかにしておきたいのは、このことが生じる「人の子が現れる日」とはどのタイミングかということです。文字通り、臨在の時であれば、このときすでに大患難も終了しています。
その寸前は、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」という状況です。3年半もの間、大患難を経験した後、こんな不気味な状況下で、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりして、日常生活に没頭しているものでしょうか。
明らかにこれは、厳密に臨在の時ではなく、「ノアの日( the days of Noah)」になぞらえられているように、一定の期間を指し示しているといえるでしょう。
つまり、誰もその日時を知らない日とは、終末期の開始と捉えるべきでしょう。

さて、これから注目するのは、つぎの部分です。
「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」
「その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」

「畑、寝室、臼」など、たとえ話上の要素を除けば、要は、同じ生活状況、で2者の分離がなされるということです。そして、共通しているのは、「ノアの時と同じ」「ノアの時代にあったようなことが」です。
語られた理由は、「だから、目を覚ましていなさい。」です。

ルカの方は、「ロトの時代」のことも含めていますので、ノアの時代だけの要素を省いて、両方の共通項に更に絞ることができます。それらを導き出せば「人の子が現れる日にも、同じことが起こる」と言われる、「同じこと」の真意を探ることができます。
「排除できる」要素の一つは「洪水」に関わるできごとです。
ルカの方だけで、ノアとロトの共通項を拾えば、「人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」「人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていた」という点です。

簡潔にまとめると「飲食、婚姻、売買、植樹、建設」など、人々の普通の生活、ただそれに没頭していて、時の特別性、緊急性に無頓着だったということです。

では、ノアの時代、ロトの時代にどのような「2者の分離」がなされたのだろうか、ということです。
分離の結果は明白です。一方は「一人残らずさらうまで」「一人残らず滅ぼしてしまった」という結果です。
もう一方の「ノアの家族、ロトの家族(妻を除く)」は命拾いをした。ということです。

さて、目下注目中の「連れてゆかれる者」と「残される者」についてはどうでしょうか。
「同じことが」と言われていますが、これらの記述の中に、「連れてゆかれた人」を見いだせるかというと、おそらく「ロトの家族」は、み使いに導かれて逃れましたが、ソドムに「残された」人々は一人残らず滅ぼされました。

故に「連れてゆかれる者」=救出。「残される者」=絶滅。となります。

では、ノアの家族が「連れてゆかれた」と表現できる要素は何かあるでしょうか。方舟に入って漂流したことがそれに当たる? 果たしてそうなのでしょうか。導かれて洪水後の清めらた地に連れて行かれた。と言えば、確かにそうに違いありませんが、明確にこの出来事がそれに当てはまるという記述は見当たりません。

ともかく、聖句は分離される人のうち「残された者」はとにかく「そのまま現状維持」ですが、連れて行かれた人は「どこへ」がなぜか不明なのです。この行方不明の記述が、もやもやの原因です。

1世紀当時の場合、ローマの軍隊に囲まれた時、取るものもとりあえず、山に逃げた人々は命拾いをしましたが、現状維持組は3年半後に戻ってきたローマ軍に殺されたか捕虜となり連行されました。
しかしここでも「連れてゆかれた」とは捉え難く、自らの行動にかかっていました。
また、ここで、覚えておかなければならない重要な点は、この時「人の子」が現れたわけではないということです。

それどころか、サタンの化身とも言うべき者が現れたのであり、これを「人の子の出現」という表現の成就とは言い難いわけですから、今検討している、マタイ、ルカの聖句の「人の子が現れる時」については、1世紀の出来事は「参考」程度にはなるにしても、いずれも「分離」のタイミングが必ず訪れるということを銘記すべきという教訓を得るものとなりますが、「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」に匹敵することは未だ成就を見ていないと言っていいでしょう。

同様にノアにしてもロトにしても、その滅びの寸前に強制的に分けられたというより、そもそも、彼らはそれ以前に、すでに別行動を採っていた。と言えるでしょう。傍目には、同じ状況に見えるという場面もあったかもしれませんが、それでは、「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」という表現とは違うように思われます。
一つの結論としては、撤去組も残存組もその結末が何ひとつ語られていないということは、どちらがどうということではなく、分類がなされるということそのものに思いを向けるという言うのが正解。ということかもしれません。よって、この表現は、もっぱら、終末期の出来事に限られた言及と言えると思います。

いずれにしても、全てに共通しているのは、自らの意志と行動こそが「分離」の条件となっているということです。
ノアは方舟を建造するという大仕事を成し遂げる必要がありました。そしての中で保護された状態で大洪水という患難へ、言わば「連れて行かれました」
そして、ロトも山に向かって「命がけで逃れよ」と命令されました。もっとも彼らは、無理を聞いてもらい、近くの辺鄙な地へ逃れました。当然、着の身着のままの状態で、たどり着いた後の生活は、困難なものだったでしょう。1世紀のときも同様です。彼らは、不自由な生活環境へと「連れて行かれました」

さて、患難の前に生きたまま取り挙げられること期待している人々にとっては、大変お気の毒ですが、そんな虫のいい考えは聖書中にも主の思いの中にもありません。
そもそも「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」話しをされた目的は「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないから」ということにあります。

不可抗力的に、言わば強制的に救われるのであれば、「目覚めている」必要など全くありません。
いつものように、普段どおりに、聖書的表現を使えば、食べたり、飲んだり、嫁いだり、娶ったり、植えたり、建てたりしていれば良いのです。タイミングよく、頃合いを見計らって、挙げてもらえるので、新婚ほやほやで、レストランでの飲み食いの最中、携挙に与るつもりの人にとって、こんなに素晴らしい機会はまたとないでしょうが、そうした思考や態度は、イエスの「目覚めている」ようにという配慮をあざ笑う以外の何物でもないでしょう。

ところで、「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」そのどちらの側の結末も述べられていないのには、何か理由があるのかもしれません。

最後に、逆説的な理解を試みてみたいと思います。
すなわち「連れてゆかれる者」=絶滅。「残される者」=救出。 というパターンです。

キリストが臨在されて、真っ先に取り掛かるのが、「収穫」ですが、小麦の収穫の前にまず、毒麦を集めることが先行します。
クリスチャンを自認する人々のうち、「毒麦」は、焼かれるために、束にして集められるという形で、強制的に連れてゆかれ、その時点では小麦はそのまま「残されます」。

「毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」- マタイ13:39-43

また、ノンクリスチャンは、羊と山羊という形で同様に2分され、ヤギは「永遠の刑罰に」強制的に連れて行かれ、羊は「千年王国の地を受け継ぐ」という形で「残されます」


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