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「いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない」一つの理由

唐突ですが、次の語を声に出して読んでみてください。

「蛍の光」「巨人の星」

卒業式の場面が思い浮かんだり、「行け!行け!飛雄馬~」という歌が聞こえてきた人も少なくないと思います。

そういう人は「ホタルのヒカリ」「キョジンのホ」とお読みになったからでしょう。(太字はアクセント箇所)

それは、これら普通名詞と助詞からなる1節が「固有名詞化」されたからとも言えるでしょう。

しかし「ホタルのヒカリ」「キョジンのホ」という読み方は通常不正確な発音であり、偏った認識と言わねばなりません。

日本語の正しいアクセントは「蛍 タル」(頭にアクセント)「巨人 キョジン」(アクセントなしの平坦)です。

しかし例えば、「昆虫の不思議-発光機能 蛍の光についての研究」とか

「1964年にアメリカで「Planet of Giants」というTVドラマが放映され、その巨人の星では・・」という文章だった場合、ほとんどの人は正しく読み、一般的な語句として認識することでしょう。

このように人は、【知覚/認識】に関していつでもプレーンでニュートラルに受け止めるほうが稀で、むしろ殆どの場合、多かれ少なかれ、何らかのバイオスがかかっているものだということです。

※バイアス(英語:bias)とは
«傾向、偏向、先入観、データ等の偏り、思考や判断に特定の偏りをもたらす思い込み要因、得られる情報が偏っていることによる認識の歪み、といった意味で用いられる語。»

一番厄介なのは「先入観」でしょう。
普通、人は、最初に聴いたこと知ったことを正しい情報と受け入れ、後でそれとは異なることを聞くと、怪しむという傾向を持ちます。
あるいはどちらがよりメジャーかということも原因します。
実際、この記事を書くにあたり、ネットで「蛍の光、巨人の星」を検索してみましたが、圧倒的に、歌と飛雄馬のオンパレードでした。
ですから、何の脈絡もなく唐突にその文字を見ると、特定のイメージを付してしまっていることにまったく気づかないでいるということはよくあることなのです。

「先入観」という無意識のうちに人の思考をコントロールしてしまう事象に、クリスチャンは常に鋭い注意を向けている必要があります。
唐突に思うかも知れませんが、このことに関係すると言えますので、ここで、キリストが語られたあの有名な言葉を思い起こしてみましょう。

《求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。》マタイ7:7,8

この中の「求め、捜し、叩く」という動詞は原語のギリシャ語では「現在命令形」であり、現在形の特徴は継続的な行動、つまり「~しつづける」というニュアンスを持つということです。

「求めなさい、探しなさい、叩きなさい」を実践するとは「求め続け、探し続け、叩き続ける」ことが命令されていると受け止めるべきなのです。
ですから次の8節はこのように訳すのがふさわしいでしょう。

「だれであれ、求めている者は受け、捜している者は見つけ出し、たたいている者には開かれます。》

しかし、一度先入観で固まってしまうと、もう、求めたものは与えられたという安心感から、求め続けることを止めてしまうことになるということです。それどころか、その、だれかから最初に教えられたことを死守すべきと考え、新たな異なる情報を一切はねつけることになりかねないのです。
それは、例えば次のような勧告の言葉を思いに留めているからでしょう。

《兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまづきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。 そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。》ローマ16:17,18

紛れもなく堅実な諭しのことばです。
しかし、注意が必要でしょう。明敏さを働かせていないと、「先入観」に捕らえられたままの状態に留まり、求め続け、捜し続けなさいというイエスの勧告の言葉を意に介さなくなってしまう恐れがあるのです。
それで、改めて、もう一度この聖句をよく読んで、そして考えてみてください。注目すべきは次の一文です。

《純朴な人たちの心をだましている」
騙されている純朴な人たちは、どんな「教え」を「学んだ」のでしょうか。

「騙されている」ということは、最初から、正しい知識を得ていないということであり、誤った教えを信じ込まされされてきたということも大いに有り得るということです。

では聖書の正しい意味を、真理を伝えようとする人のことは、それら「騙されている」人には、どのように映るのでしょうか。
この一連の文章中には3種類の人々が描かれています。
「兄弟たち」と「騙してい者たち」「騙されている純朴な人たち」です。
「なめらかなことば、へつらいのことば」で形作られた信仰を抱いている人々に対して、「兄弟たち」が何を語ろうとも耳を貸そうとはしないであろうと容易に推測できます。

当然、自分たちの信仰や知識とは異なることを語るわけですから、耳を貸すなら、少なからず動揺を生じさせることになります。

つまり、自分たちの学んだ教えに背く人、分裂とつまづきを引き起こすと人とみなすでしょう。

自分が一度も行ったことがない場所へ道案内してくれる人が、勘違いをしていたら、あるいは誰かに騙されていたらどうでしょう。
「この道、違ってるんじゃないですか」と問尋ねるすべを持たないのは怖いことです。
それは、キリストが当時の「パリサイ人」に関して評したのと同じ状況です。

《彼らは盲人の手引きをする盲人です。もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。》マタイ15:14

ともかくこうして「騙されてきた純朴な」人々は、たとえ「真理を語る人」であったとしてもそれらを「警戒する」ようになります。

あるいは、そうした人々が好んで使う語彙で表すと、特定のグループの人達が「異端」と読んでいるものの類とみなし、関わるべきではないという決意を強くすることでしょう。
このやみくもに排他的な態度は、仏教系の人々が、他を「外道」呼ばわりして見下そうするのと酷似しています。

こうして、常に学んでいながら、いつまでも決して真理に至ることができない者となってしまうのです。(2テモテ3:7)

さてローマ16章の聖句に戻りますが、その文脈中の「なめらかなことば、へつらいのことばをもって」人を騙す「分裂とつまづきを引き起こす人たち」とは、同じくパウロが語っている次の人々と同一でしょう。

《あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。》使徒20:30

その特徴は、自分自身の評判を高め、多くの支持者を得ようと奔走するような人だということです。それはちょうど、「高評価ボタンとチャンネル登録」を執拗に懇願する友厨婆に似ているように感じます。

それにしても、どうしてそのような者たち、騙そうとする人間が教団内部に存在することを神は許されるのでしょうか。

次の聖句は終末期に起きるとされる預言の部分ですが、その理由をはっきりと示しています。

《不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。 それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。》2テサロニケ2:9-11

初めて「キリスト教」に触れることになる人は、判断を働かせる情報を持たいないゆえに、素直に受け入れてゆくでしょう が 、ターゲットは初心者ばかりとは限りません。むしろこうした人気のある教え手たちの格好の餌食になってしまうのは、一般の信徒の中の、教会/教団内での自分自身の立場や権威の有無や大小など、ともかく、神との個人的は関係より、人間的な関わりに不満を抱いているような人々です。

《こういう者たちは、自分の運命について不平不満を鳴らし、欲望のままにふるまい、大言壮語し、利益のために人にこびへつらいます。》ユダ16

一度、神とのパーソナルな関係が薄れて、人間にゴマをするようになったら、クリスチャンとしてはおしまいでしょう。

《人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、 真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。》2テモテ4:3,4

こうして騙す者と騙される人々には「持ちつ持たれつ」の関係ができあがってゆきます。

それにしても「欺く者」である「不法の人」は天から放逐されたサタンが自分の手先として用いる者なのに、「神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになる」とはどういうことでしょうか。

その理由としては「救いとなる真理を愛そうとしなかった」からということですが、ともかく、当然のことながら神があえて直接、欺瞞に加担されるということではなく、それを神が許された故に、神に起因するという表現になっているのでしょう。

すでに1世紀当時から、キリストに思いを馳せ、信仰を働かせようとする純朴な(「無垢な人たち」岩波訳)人々を騙す者たちが存在したということは、神に特定の意図がお有りになるということです。

※「純朴」意:かざりけがなく素直なこと。人情が厚くて素朴なこと

少なくとも「純朴」な人となりだけでは天の国には不適切だということがわかります。あるいは、深い信仰心や人徳が優れているだけでも不合格ということです。

ここで重要な特質は「真理を愛する」という意向を持ち合わせているかどうかということです。それが乏しいと「偽りを信じ込まされてしまう」ということです。

ではどうすれば自分が「真理を愛する」ものかどうか吟味できるのでしょうか。「求め、捜し、叩き続ける」とは自分の知識と信仰を常に再吟味することに他ならないでしょう。これは極めて重要なことだと言えます。

このこと重要さをイエスは次のような例えで示されました。

《狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。》マタイ7:13,14

いま考慮中のローマ16章の聖句の中の「兄弟たち」と「騙されている純朴な人たち」の両グループを聖書中の別の表現で表すと、《兄弟たち」とは「狭い門を通ったグループであり、騙された人たちは「広い門」と通って入ったグループということができるでしょう。

「広い」「狭い」という比喩的表現の本来の意味は、サイズの問題ではなく、「それ(狭い門)を見出しているものは稀」ということですから、「広い門」とは、捜す必要もない、誰が見ても、確かにそこにあると認められる存在だということです。
それこそが「滅びに至る」道であるとキリストは注意を促しておられるのです。つまりいつも学んでいながら、とうとう最後まで狭い門を見つけられたかった人々だということです。

そして、冒頭で情報の取捨選択に働くロジックに「どちらがよりメジャーかということも原因します」と記しました。

広い門は有名で、メジャーな存在で、多くの人々に指示さているのです。
実際のところ、求め、探し、叩いている時、人は常に孤独です。「多勢と一緒」なら、ただそれだけで安心感に包まれます。自らを「稀」な人の部類におこうとするのはどんな人でしょうか。

自分が一度も行ったことがない場所へ道案内してくれる人が、勘違いをしていたら、あるいは誰かに騙されていたらどうでしょう。「この道、違ってるんじゃないですか」と問尋ねるすべを持たないのは怖いことです。

自分で判断がつかないと思う時どうするでしょうか。周りを見て、大勢に倣うという解決法です。これだけ大勢の人に支持されているんだから間違いないだろう。ともかくこれでひとまず安心?・・決してそうではないのです。それこそが「滅びに至る」道であるとキリストは注意を促しておられるのです。つまりいつも学んでいながら、とうとう最後まで狭い門を見つけられたかった人々だということです。

聖書的にはこれこそが最大の落とし穴であるとイエスは教えられたのです。
マタイ7章 20 節には「あなたがたはその実で彼らを見分ける。」とありますが、実によってすら見分けがつきにくくても、単純に「数」でも見分けられる。という、「天の国」に関する一つのルールが見いだされます。
もちろん、少数派でありさえすれば「狭い門」を入ったと言えるわけではないことは言うまでもありません。しかし多数派は、ただそれだけの理由でアウトであると言えるのです。

しかし「聖書」には見極めるための豊富な情報があり、「狭い門」を捜し続けなら必ず見つけ出し、そうして自分自身で聖書をいつも学んでいるなら、真理を見いだせるでしょう。

《銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。》箴言2:4,5





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