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現行「選挙制度」改革の提案

この記事自体は2021年のものなのですが、追記は通常「文末」になされるものなのでしょうが、訳あってというか、気持ち的に文頭に加筆したいと思いこれを書いています。(現2023/9/17)

近年、「選挙方法」だけでなく「投票方法」「開票方法」などにも相当ヤバイ闇が潜んでいることが明るみに出始めている昨今、そしてアニメや日本食ブーム、コロナ後の海外旅行者の急増を踏まえ、「日本人の特殊性」的なことが、世界的にもかなり頻繁に囁かれるようになっている昨今、改めて、私の素朴な提言は、一層現実味を帯びてきた(というほどではないにしろ)、「特殊性、独自性」の先頭を行く日本人ならではの、オリジナルな「選挙方法」を本気で考えてもいいのではないかという気がしてきました。
・・・以上が加筆です。

昨今、選挙が行われ、様々な解説、感想が飛び交っているが、こんな見出しをあなたはどうみなされるだろうか。
【「精肉業者」に尻尾を振る豚」などと揶揄される圧倒的大多数の「有権者」という無知な奴隷集団】
何とも言い難い、言い得ているようで痛切な文言に言葉も出ない。

しかし、現状を冷静に見定めていると思える人々にも、少なからず思い違いはあるだろう。
果たして、その分析というか、判断は本当にまっとうなものなのだろうか。
そうではなく、単刀直入に言って、現行の「選挙制度」自体が、そもそも日本人になじまない。というのが、問題の根源なのだろうとわたしは思う。

統計を取るよしもないが、恐らく、「投票率」の比率を、元々の日本人と、選挙権を持つ在来外国人で分けることができたとしたら、その全投票数(それでなくとも、そもそも極めて低い投票率)のうち、圧倒的に、日本古来のDNAを持つ人々は、多く見積もっても半分にも満たないのではないに違いない。 と、わたしは思っている。

(この後の「日本人」という語句は、帰化された「在日選挙権保有者」を別にした、古来の日本人のDNAを持つ民族、という限定で記されているとご理解されたい。)

しかも、実際、現行の内閣のメンバーなどの代議士を含め、立候補者の殆どはそもそも「日本人」ではないという事実からもその考えは裏付けられる。
実際歴代の「総理大臣」の殆どは「DNA上の日本人」ではなく「DNA上の朝鮮人」であるというのは事実です。

さて「日本人」はどちらかというと「有権者」として、つまり投票できる「権利」を持っているという権利保有者としての凛々とした態度、あるいは投票に嬉々とした感性で臨むというよりも、律儀な日本人はどちらかというと「国民の義務」として、「投票にゆかねば」と急かされ、重い腰を上げるという風情が見られる。

と、常日頃、わたしはそう感じていたのだが、何と、そうした、なんとなく思っていた事が、証明されてしまったと思えるデータに出くわしたのです。

「将来、今より「権威や権力」が尊重されるとしたらどう思いますか?」という、下記のデータを見ていただきたい。
このデータの示すところは、日本だけは別格で、諸外国と比較するなら異常な感性と行っても言い過ぎではない。

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つまるところ、基本的に「権威や権力」自体をどう思っているかという国民性の現れだが、これは2016年のデータなので、近年、世界的に個人的な自由は次第に制限され、コロナ騒ぎもあり、安全性の確認もされないワクチンを強制しようとする公的な圧力も半端ない、全体主義的になりつつある現代では、2016年よりはるかに「権威や権力「が「尊重される」というより「強制」が強まっていることを見ると、このアンケートはまさに時代を先読みしたものだったのだろう。

それはともかくして、本題に戻ると、日本人の殆どは「権威や権力」を望ましいこととは捉えず「悪いこと」と認識しているという事実に注目したい。
日本人の感性は「自分たちのことは自分たちで解決するので放っといてもらいたい」というのが本音らしい。

「日本人は治めずして治まる」と古来より言われていた、言い習わしの原点を突いたようなデータであるとおもう。

「選挙」なるものは、「治める」ために、諸外国との関わりを踏まえて、人間の知恵として最終的に最良とされる具体的方法論を伴った「democracy(民主主義)」に則った憲法によるものであるが、様々な矛盾も孕んでいる。

「democracy(民主主義)」を辞書で引くと【人民が権力を握り、みずから行使する政治思想や政治体制のこと。】などと説明されている。

では、「君主」はどうなる。
「王」「天皇」を選挙で選ぶ制度がなぜないのか。
日本では「天皇」は国家元首だ。国歌「君が代」にある通り、天皇は「君」であり、君が「主」で同時に、民が「主」でもあるというのを「矛盾」と捉えないのはなぜなのか。
「民主主義」が唱えられるあらゆる場面に「まやかし」が見られる。これを日本古来からのわかりやすい語彙で表現すると「インチキ」に騙されているという以外にない。

「宮殿の「松の間」で、天皇陛下が総理大臣を任命する親任式が行われました。」とコメントされたこの写真の物語るものを考えていただきたい。

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もし天皇が任命するのを拒否したら、有権者は天皇を訴えることができるのか。
一体どこに「民主主義:人民が権力を握り、みずから行使する」という現実の形態が存在するのか。
選挙で誰に投票しようとも「国民」には国政を左右する代議士を「任命する権限」はないのです。
選挙制度そのものが、全くの「茶番」だと言っても決して言い過ぎではない。何故なら事実だから。

「茶番」の意 「底の見えすいた、ふざけたふるまい。真実味のない、馬鹿馬鹿しいできごと」

冒頭に、現行の「選挙制度」自体が、そもそも日本人になじまない。と書いたが、その真意はこういうことです。
国際的な習慣に足並みを揃える意味では「選挙制度」は常識なのだろうが、わたし自身70を過ぎたが、長い年月この人間を積極的に「支持したい」と思った候補者はただの一人もいない。恐らくこの先も現れることはないだろう。

まあ、わたしのことはともかく、「在日選挙権保有者」や候補者と直接の利害が関係する人以外は、多くの日本人の選択はどちらかと言うと「消去法」的に思える。
わたしの親なども選挙の時「〔こっち〕にしとかないと万が一〔あっち〕になったら大変なことになるから」と、よく言っていた。

そこでわたしが常日頃思うことは、「ーマイナス」の選択肢があればと。
つまり、「誰も当選させたい候補者はいないが、こいつだけは当選させちゃいかん」という意見を取り入れて、自分のマイナス1票が、他者の+1票を帳消しにできるなら、少なくとも今より、日本人の投票率は格段に上がるであろうと確信する。

基本的に「権威や権力」に「決して望ましいとは思わない」というイメージを持っている「日本人」にとって、現行の選挙制度を変更して、いっそのことすべてをマイナス投票にして、全候補者のうち、否定された数が少ない順に当選する方が、当選した候補者(代議士)は、自分が「国民から支持されている」などという勘違いをさせないことになり、為政者に「公僕として、やるべきことを粛々とさせていただく」という認識を多少なりとも培わせることになるにちがいない。
少なくとも、不支持率が、明確な数字で表れた候補者は、「次こそは」などという馬鹿な気は絶対に起こさないだろうから、この【マイナス投票法」良いこと尽くめではないか。

開票早々、「落確」落選確実が、選挙速報で流れるのは小気味良いではないか。

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