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三位一体の間違いを証明する決定的な聖書的根拠

なぜ、み父とみ子が一体(ひとり)であってはならないのか。
それはキリストが「契約の仲介者」だからです。

《しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。》ヘブライ8:6

《こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。》ヘブライ9:15

《では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。 仲介者は一方だけに属するものではありません。しかし約束を賜る神は唯一者です。》ガラテア3:19,20

20節は、新共同訳のほうが表現が分かりやすいと思います。

《仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。》ガラテア3:19,20(新共同訳)

原語のギリシャ語では、この2つのセンテンスには両方とも頭に、「しかし」を意味する「ギ語:デー However,but,on the other hand(他方),now(さて)」という接続詞が含まれています。
新共同訳は、この2つとも訳から外しています。それを含めて訳してみました。

《さて、仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。しかしながら、約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。

確かに、アブラハムに対する「約束」自体は神(み父)お一人で決定し、事を運ばれました。
しかし、実際に「契約締結」は「仲介者」を要しました。
律法契約の時は「モーセ」、新しい契約の際は「イエス・キリスト」です

「仲介者は一方だけに属するものでは」ない、と明確に示されているとおり、仲介者は当事者双方との脈絡を有するものが選ばれます。
イエス・キリストが新しい契約の仲介者として適任だったのは、「神の子」であり「人の子」であったからです。
「神」が「神」の仲介役となることはできません。それは「不適切」であると言うだけでなく、「法的に成立しない」ということです。「一方だけに属すもの」だからです。
仮にそれによって締結された場合、その契約は無効となります。

一体なる「神」が一人で、(自分で)ことを行われたのであれば「仲介者」は不要です。偽装契約となるからです。
ですからイエス・キリストは「神」であってはなりませんでした。それは神のうちの一つの「ペルソナ」であるとしても同じことです。

「仲介者」の必要性、重要性はどこにありますか。
神と人間になぜ「仲介者」の存在が不可欠なのでしょうか。それは、アダムの子孫として、全人類は神と敵対関係、疎遠関係にあるからです。
それゆえに「和解」の手立てが必要なのです。「わたしに免じてすべてをお許し下さい。」と言って間に入ってくれる存在が不可欠なのです。
《その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解 させてくださったのです。》コロサイ1:20

つまり、「仲介者」は当事者である「神」と「人間」以外の全く別の存在でなければならないのです。
神とキリストを同一としてしまうなら、当事者と「仲介役」は同一ということになり、神が一方的に解決を図ったということになります。それならば「仲介役」は不要なのにも関わらず、あたかも仲介者によって万事解決したというようなシナリオは、一種の「騙しの手口」あるいは「とんだ茶番」が演じられたいうことになってしまうでしょう。

《神は唯一です。また神と人との仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト.イエスです》(1テモテ2:5)

神と人との唯一の仲介者は神ではなく「人としてのイエス」つまり罪のない人間だと聖書ははっきりと示しています。
唯一の神のペルソナの一人がキリストで その唯一のキリストが、唯一の神(当人)と人間の仲介者なのでしょうか。
つまり神は自分で自分の仲介役を演じているということになってしまうのです。これはパラドックス以外の何物でもないでしょう。
あなたの理性は、本当にこんな論理を許すのですか。

「契約」に於いて当事者と仲介者が 同一であってはならないのは当然のことです。
つまり「仲介者」はあくまで「第三者」でなくては法的に成立しないのです。
「神」と「人間」とを仲立ちする全く別の存在こそが「仲介者」です。
すなわち、もしイエス・キリストが三位一体の神の一人のペルソナであると頑なに主張するのであれば、未だ「贖い」は法的に成立しておらず、それどころか、未来永劫に成立せず、したがって「人間の救い」は金輪際不可能だと宣言していることになるのです。

「三位一体論」は、折角、神が多大の犠牲を払って人類のために備えられた「仲介者」を当事者の中に組み込んでしまうという無知極まりない暴挙だということを認識すべきなのです。

さて、この「仲介者」という立場についてもう少し別の角度からも考察して見たいと思います。

神と主はどう違うのか

旧約聖書の神の固有名(YHWH ヤハウェ)が「主」に置き換えられたため、本来の「主」という語彙と見分けがつかなくなったため、想像を絶するほどの混乱が起きているのです。

様々な写本などの記録を見ると、神の名(テトラグラマトン ヘブライ4文字)が記録されたものは西暦3世紀くらいまでは存在していたことが分かっています。

つまり、イエスや弟子たちはそれを知っていたということです。

それが、消失し、代わりに「アドナイ」に替えられた時期と三位一体の成立と重なるという背景には、明らかに、神に関する混乱、無理解を推進した意図が感じられます。

それでも次のパウロの記述は「神(セオス)」と「主(アドナイ)」の違いは明快です。

《なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。》1コリント8:5,6

多くの神や、多くの主があるが、「父なる唯一の神」と、「唯一の主なるイエス・キリスト」すなわち、神も主もそれぞれ「一人づつ」しかいないとパウロは述べているのです。

パウロはここで、み父を「神」、そしてキリストを「主」という別々の称号で表しています。 それは例えば「大統領と首相」というような感じで、ちゃんと区別を付けて両者の違いをはっきりさせています。
唯一の神と唯一の主の存在、この両者がそれぞれ唯一の存在であるということは、明らかにここに神と主という2者が存在します。
この2者が本質(実質)において、同一(一人)ということはあり得ません。
明確にその役割は分担され、権能が異なっているからです。
この句を端的に表現すれば「すべては神から出、その出たものは主によって存続している」 ということです。
神は、「無」から「有」への原因者であり、その存在(存続)に与っているのが「主」であるということです。

他の翻訳からも考慮してみましょう。

《しかしわれらには唯一の父なる神〔がいるのみ〕、その方から万物は出で、われらはその方へと〔向かう〕。そして唯一の主イエス・キリスト〔がいるのみ〕、その方によって万物は成り、われらもその方による。》(岩波翻訳委員会訳)

《わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。》(新共同訳)

この句の中で注目したいのは、「神から [ 出ており ]」「神の [ ために ]」「主に [ よって ]」 と記されている部分です。
「出て」と訳されるギリシャ語は「エク」であり、「・・の外、他」という意味を付す前置詞としても使われていますが、字義的な意味は「~から」という意味であり、「ために」 と訳されている語は「アイス」という語で字義的には「~へ」という意味の語です。
字義的に訳せば、「万物は [ 神から ] であり、[ 神へ ] なのです。」という風になります。

後半の「主に [ よって]」という語は「ディーア」という語で、「~を通して、~のため」という意味の語です。数多く出てくる「預言者によって語られた」とい言うフレーズに用 いられています。 

(預言者が自分の考えを語ったわけではなく、預言者を通して神が語られたということです)

またこの「ディーア」という語は「狭い門を [ 通って ]」(マタイ 7:13)「 穀物畑を [ 通り抜け ]」(マタイ 12:1)「 私の名の [ ために ]・・人々に憎まれます。」(マタイ 10:22)などのように、原因や源が別にあり、その途上、中継、ターゲットに注意を向ける語です。
これは他ならぬ神(み父)がみ子を通して(中継して)、万物も人も存在するようにされたということです。

この「ディーア」はみ父とみ子の関わりに関する記述の中で頻繁に用いられています。

《御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子に【よって】(ギ語:ディーア)造られ、御子のために(ギ語:アイス)造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。》( コロサイ 1:15‐17)

《初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。》(ヨハネ 1:1 ー 4)(新共同訳)

「万物は言によって成った」という3節の部分を岩波訳では「すべてのことは、彼を介して生じた。」と訳しています。

つまり、創造のためのエネルギーは「言葉」から発せられたのではなく、「言葉」を通して(介して)父なる神から出たものです。

ですからパウロは「すべての者は父なる唯一の神から出ている」と述べているのです。

これは続く7節の中でバプテストのヨハネがイエスについて証するために到来したことに言及して「すべての人が彼を【介して】信じるようになるために。」と述べて、同じ [ ディーア ] という語を用いています。
ですから明らかなように、み子は究極的な原因者ではなく、創造においても、仲介者であるということは明白です。

まとめれば、み子つまり「ロゴス」は創造の業においても「仲介者」であり、人として来られた「イエス」は、人類の罪を贖う点でもみ父と人間の「仲介者」であるということです。

まさに、「ロゴス」こそ最適任者であったということです。


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