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改めて「イエス・キリスト」とはどんな存在なのかを論考する

キリストに関して、様々な解説、神学上の捉え方が、数え切れないほど沢山あるようです。
「イエスは神です。ヤハウェと同質です」
「イエスは偉大な預言者ですが、人間に過ぎません」
「地上で過ごした時が、イエスで、天においては天使長ミカエルのことです」

初めにお断りしておきますが、これから記すことは、無論ひとつの捉え方にすぎません。
しかし、私はHPやブログなどのプロフィールの中で「前代未聞の聖書研究」と謳っていますが、この記事こそ、その謳い文句の究極的なものだと自負しています。
そしてもう一つのお断り。

「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」マタイ 11:25-27
「子がどういう者であるかを知る者はなく。。」(ルカ10:22)

「父」については、限られた人にだけは理解が許されている、しかし「子がどういう者であるかを知る者はない」と断言されており、その実態というか正体、本質的なところは誰も知らない、と言い切られていますので、実際のところ「み子」は「み父」以上にミステリアスな存在だということを念頭に置かねばなりません。
(このことについての詳細は「神の実体は誰にも知り得ないと断言している聖句について」という記事を御覧ください)

さて前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。

先ずコロサイ1:15を新世界訳から引用します。
「神の子は,目に見えない神に似た者であり,全創造物の中の初子です。」

文脈を無視してこの部分だけ取れば「全創造物の中の初子」と訳しても必ずしも「間違い」とは言い切れないのですが、確かに普通「初めて生まれた子」と言えば「初子」に違いありません。
つまり単に存在した「順番」を問題にするならば、その2種類の表現は同じ意味とみなされます。

しかし今ここの文章の場合には「生まれた」と「造られた」という「存在するに至った経緯」が異なることを示す語が2種類があるわけですから、単に「すべての造られたものの初子」と訳したのでは不正確と言えます。
この「初子」の原語の字義は「単一の子孫」です。

「創造の初め」と言う場合、創造されたものの1番最初のもの、と読み手は受け取るかもしれません。
しかし「創造の初め」という表現は、創造と言う業の始まりと言う意味としても読めます。

違いは、主語(み子)が「すべての造られた者」の一部として含まれているか否かという問題点を明確にしなければ正しい翻訳とは言えないということです。

しかしこの1連の文脈をずっと読んでいけば、この点に関して、不明瞭なところはありません。

「なぜなら,他の全てのものは,天のものも地上のものも,神の子を通して創造されたからです+。見えるものも見えないものも,王座や統治権や政府や権威もです。それらは全て,神の子を通して,神の子のために創造されました。 17 神の子は他の全てのものよりも前から存在し,他の全てのものは神の子を通して存在するようになりました」コロサイ1:16-17 新世界訳

これに「注解」を加えながら改めて記すとこうなります。

「なぜなら,他(み子以外)の全てのものは,天のものも地上のものも,神の子を通して(※参照)、(誰が?当然「神が」)創造されたからです。見えるものも見えないものも,王座や統治権や政府や権威もです。それらは全て,神の子を通して,神の子のために創造されました。 神の子は他の(天のものと地上のもの)全てのものよりも、前から存在し,他(神の子以外)の全てのものは神の子を通して存在するようになりました。(創造の開始前に存在していなければ、神は神の子を通して、何一つ創造できない。)」コロサイ1:16-18

これらの文脈を考慮すれば、以下のような翻訳になるはずです。
コロサイ1:15の主な翻訳:

「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。」フランシスコ会訳
「すべてのものが造られる前に生まれた方です。新共同訳
「すべての被造物に先立ってお生れの方です。前田訳
「造られたすべてのものより先に生まれた方です。新改訳
「すべての造られたものに先だって生れたかたである。口語訳

※【「(神の子を)を通して」という表現ですが、この語(ギ語:ディーア)は[through, 通って because of おかげで、理由で] という意味を持つ語です。

例えば「狭い門を[通って](マタイ7:13) 「穀物畑を[通り抜け](マタイ12:1) 「私の名の[ために]・・人々に憎まれます」(マタイ10:22) などのように、行動や原因が別にあり、その途上、中継に注意を向ける語です。
門や、畑が予め存在していないならそこを「通る」ことはありえません。】

そして、次の聖句も、創造の前に神と共にいた事をはっきりと述べています。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」ヨハネ1:1-3

岩波訳は、分かりやすいというか、中々興味深い日本語訳となっています。

「はじめに、ことばがいた。ことばは、神のもとにいた。ことばは、神であった。この方は、はじめに神のもとにいた。すべてのことは、彼を介して生じた。彼をさしおいては、なに一つ生じなかった。」

この短い分の中に、二度繰り返されている「初めに神と共にあった」ということから、すべての「始まり」は「言葉」の存在からだということが強調されています。
「言葉」が最初に生まれたからこそ、神はその言葉を用いて創造を行うことを目論まれたか、あるいは、創造者になる目的で「言葉」を生み出されたか、ともかくプロセスとしてはそういうことです。

(ちなみに、アダムとをエバは、まったく個別に創造されたのではなく、女は男から出ており、その他の人類は、女から誕生しています。【男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来た》1コリント11:11
「人間は男と女からできており、神(単数形 エル)ではなく、人間は神  (複数形 エローヒム)のかたちに創造されているのです)

確かに創世記の創造の記録を見ると「言葉」を介して創造の業を行っておられます。

「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」(創世記1:3)

このように何かを造られるたびに必ず「神は言われた」から始まります。
私は初めて聖書を読んだ時にこれをとても不思議に思いました。
「一体誰に言われたのだろうか。」「空中に向かって叫ばれたのだろうか」「どうして言葉を発する必要があったのだろうか」などと。

極めて端的にというか簡潔に記そうとしたであろうと思われる中で、「神は光を造られた」だけで一向に構わないと思えますが、なぜか、逐一「・・言われた。こうして、・・があった」という、一見回りくどいような表現に「言葉(人格的存在としてのロゴス)」が介在していたということを暗に示そうという意図が働いていたに違いない。

(と、ここまで書いていて、ふとある単語が脳裏に浮かびました。「ふと思ったこと」は書かずにいられない性分なので、とっ散らかった印象の文章になってしまうことを承知の上で敢えて書き留めますが)

「言霊」をご存知ですか(ことだま)と読みます。辞書の説明:「古代、ことばに宿ると信じられた霊力。発せられたことばの内容どおりの状態を実現する力があると信じられていた。」
「ことだま」は元々、ことばの魂というところから来ていますが、神の霊が言葉を通して発揮されたのが「創造」という出来事なのでしょう。

それで、神は、創造の業を初められる前に、み子を誕生させました。そしてそのみ子を通して、つまり神の創造のエネルギーはみ子を介在して放たれ、万物が存在するようになったということです。
(余談ですが)このことから、み子はいわゆる「創造者(原因者)」ではなく、始まりも終わりもない神(父)とは異なり、存在の始まりがあることも分かります。(両者は同等でも同質でもない)

み子は、「神から生まれた」者であり「造られた」者ではない唯一の存在だから「独り子」なのであって、そうでなければ、単に「長男」ということになります。

「独り子」(ギ語:モノゲノス  only オンリー、のみ; only-begotten 一人っ子 unique ユニーク、一意、特殊などの意味を持つ語)は単に数が1ということではなく、「the only of its kind その種の唯一のもの」と説明されています。ですから(ちょっと変ですが)「特殊子」とも訳し得るわけです。

「~を通して」という表現を、しつこいようですが、もう少し掘り下げてみたいと思います。

「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。」(1コリント8:6)

「この主【によって】の部分が、前述した(ギ語:ディーア)です。

ここから分かるのは、「出ている」と「存在」が別であるという概念です。
「すべてのものはこの神から出ており」つまり神は創出、無から有を存在せしめた原因者であり「すべてのものはこの主によって存在し」つまりみ子はその存在を存続もしくは永続せしめる方であると言い換えることができるということです。

そういう意味で時折、聖書中に登場する「子なる神」という表現があり得るということです。
創造者=創出の原因者 と 「主(キリスト・イエス)」=存続権能者、永続可能権限者であり、それらはが別々に存在するように、すべてを目論まれたというのが「神」のアイデアというか、システム設計の根幹なのです。(故にこの存続権能者、永続可能権限者である「み子」こそが「贖い」によって、人間の失われた永続性のある生命の権限を元に戻すために神が遣わされる方として、他に適任者は誰もいない、ということも分かります。)

「神」とは称号であり、立場を表す語の一種で、中でも「至上、絶対」的な最上級の役職という感覚で捉えられる語です。
ですから、キリストは人間から見て「神」であるのは当然のことで、それは言ってみれば、私たち人間には、生み出す原因となった「父親」とそれを実際に産み出し、成長を育む(存続担当)「母親」の二方がおり、双方とも「親」という役職を担い、不可欠の存在であり、これこそ「人」が「「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創世記3:25)という記述通り、「神の像」を物語るものです。
私達に両親がいるのと同様、そのイメージの雛形としての「両神」がいるのです。
父と母とどっちが「親」なのかなどと誰も議論したりしないように、人間にとって「み父」も「み子」も人間にとっては「神」であってはいけないことなど何もないのではないでしょうか。

ここまで来ると、相当に寛容な人でも、いとも簡単にとんでもないこという奴だと、燻る方も少なくないかもしれませんので、ここで、神は複数だという、決定的な聖書的な根拠を挙げておくことにしましょう。

「…次神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」創世記 1:26‐27

注目したいフレーズをピックアップしますと、まず、繰り返される「我々に」という表現です。
神の独り言であるなら、「自分の像に似せて」ではないのでしょうか。
そして「人を造ろう」と提案しているというか、呼びかけていることです。
一体誰に向かってでしょうか。「み使い」にでしょうか。そうであるならみ使いは「人の創造」に関わっていることになります。仮にみ使いたちがそばで見守っていたとしても、オブザーバーに対してなら、「これから人を造るのでしっかりと見守っていなさい」とは言うかもしれませんが、ここは違います。
「我々は造ろう」という表現は、造り手として協働することへの提案に他なりません。

ところで、創世記1:1から一貫して、「神」という語は「ヘブライ語:エローヒム」が使われています。これは「エル(神)」という語の複数形です。
これを「神々」のように訳していないのは「神はひとり」という概念と矛盾するからでしょう。
それで、これは「神の尊厳を表すための複数形である」などと説明されています。

しかし、「我々」と言う語は明確に複数であり、1人以上の存在が関係してきます。
そして、「造ろう、支配させよう」と、提案の形で語りかけておられます。
明らかに、提案の対象、神の他に、人の創造に関わった人格的存在があるという証明です。

創世記126

さて、ちょっと横道に逸れた感がありますが、ここで、1コリント8:6の岩波翻訳委員会訳をご紹介して起きましょう。

「しかしわれらには唯一の父なる神〔がいるのみ〕、その方から万物は出で、われらはその方へと〔向かう〕。そして唯一の主イエス・キリスト〔がいるのみ〕、その方によって万物は成り、われらもその方による。」(岩波翻訳委員会訳)

この中で注目したいのは、まず、神は唯一、主も唯一であり、これを厳密に捉えれば「神」は「主」と異なり「主は「父」とは異なるということです。
そして更に「神[から出で」「へと帰ってゆく、へと向かう」と記されている部分です。
字義的に訳せば、「万物は[神から]であり、[神へ]なのです。」という風になります。
端的に表現すれば「父なる神」は「起因かつ帰結」であるということです。

先に「独り子 モノゲノス」は英語で[only begotten]と訳されていることを記しましたが、[begotten]は[beget]の過去分詞で、[beget]は「こしらえる、もうける、(…を)生じさせる」という意味です。

冒頭から「造られた」と「生まれた」の違いに付いて書いていますが、ここで、「イエス」についての言及であると理解されている、「知恵」を擬人化した表現で述べられている箴言8章からその点を調べてみましょう。

「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。
永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。わたしは生み出されていた
深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが わたしは生み出されていた。大地も野も、地上の最初の塵もまだ造られていなかった。わたしはそこにいた」箴言8:22-27
22節の「(わたしを)造られた」という訳ですが、これは明らかな誤訳です。
ここで用いられている「ヘ語:カーナー to get 取得する」ですから 字義通りの意味は「私を得た」となります。この語は一般的な意味として多くの箇所で「買う」と訳されます。金銭を払って「取得」するということです。
この語には「造る」という意味やそうしたニュアンスが含まれることはありません。
新改訳は字義通り訳しています。「わたしを得ておられた。」

ヘ語:カーナーの使用例:
「彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た[カーナー]」と言った。」ここでは産まれたことと同義語的に使われています。」創世記4:1

そして更に25節の「生み出されていた」という部分ですが、ここで用いられている「ヘ語:クール」は不思議な単語で、一体どんな関連性があるんだろうと思うくらい実に様々な語に訳されています。
例えば次に示すどの語が「ヘ語:カーナー」なのか見当が付きますか?
「更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。」創世記8:10
「待って(カーナー)」「待ち構える、滞在する」という意味合いです。
すでに「待機していた」という意味から「生み出されていた」と訳されているのでしょう。

いずれにしてもこの箴言8章から「み子」は神が自らの中から「得た」(つまり生まれた)存在であって、決して「造られた者」ではないということがわかります。

古来から、現代に至るまでの様々な神学上の捉え方があるようですが、ドケティズム(仮現論)、三神論(トリテイズム)、二位一体論(バイニタリアン主義)、単一神論(ユニテリアン主義)など、私の知る限りの教義とは異なる、私なりの前代未聞のキリスト像を描いてみました。

※ この記事は、かつてHP上にUPした4部作をダイジェストにまとめたものです。
元記事に関心がありましたら、下記記事を御覧ください。


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