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遺伝子の設計から神の実体を探る 第二章

■第二章 み父とみ子、及び人間男女の関係について



人は創造された後、存続つまり永遠の生命が保証されるための条件が神から与えられました。
しかし、そのルールに即せず、罪に陥った人間は、ある一定期間だけ、その存在を許されましたが、永続的な存続の権利を喪失しました。
キリストの贖いはまさにその人間の存続の権利の修復のために払われたと言えます。

約束されたメシアが到来され、神(み父)に対する罪の贖いがなされたことにより、人類にはその祝福された「永続する生命」を得る道が開かれました。
それまで、人(イスラエル人)はただひとりの神と天使という神の子たちが天における全てだと思っていましたが、ここに新たな、謎の天的な人の存在を知る事となったのです。

それまで全く知らずにいたイエス・キリストとして現れたその人は、実は人間にとって、この上なく重要な関わりのある方だったのです。
では、実際に聖書が指し示している神(み父)とみ子、そして人間の男女はどんな関係にあるのでしょうか。

《ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。》1コリント11:3)

ここで「頭」つまり主従に関する序列が定められていることが分かります。神一キリストー男一女の順です。しかし続く節で、「栄光の反映」ということについての説明はこうなっています。

《男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。》2コリント11:7

「栄光(えいこう)とは:輝かしいほまれ。大きな名誉。というような意味であるとされています。
不思議なことに「男」は「キリスト」の栄光の反映ではなく、「神」の栄光を映すもの、となっていて、この「栄光の反映」という観点からは、頭であるキリストを飛び越えて「神」との直接的な関係であることが分かります。
これは一体どうしてなのでしょうか?

まず、「栄光」という観点から、神とキリストの関係についての聖句を考慮してみましょう。

《神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を・・・神は、私たちの心を照らし、キリストの顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださった》2コリント4:4,6

《ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみ許から来られたひとり子としての栄光である。》ヨハネ 1:14

《み子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保つておられます。》ヘブル 1:3)

《キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。》ペテロⅡ 1:17

キリストの場合、その栄光は神の栄光の「反映」というより、み子として独自の栄光をもつ方であり、特に「み子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」という表現から、神の栄光そのものを体現しておられる、つまり神と同様の栄光を自らも持っておられることが分かります。

もっとも、女は男の栄光の反映ということですから、「男」も人間としての自らの栄光の所有者だということです。
なぜ男がキリストの栄光ではなく「神の栄光」の反映かといいますと、「男」と「キリスト」の共通点は「神のかたち」として存在しているからということです。(2コリント:4:14)

では、神のかたちと神の栄光とはどんな関わりがあるのでしょうか。
人間(男女とも)が「神のかたち」に造られているなら、なぜ、女性は神の栄光を映すものではないのでしょうか。
改めて「神のかたち」というキーワードに沿って、創世記の人間創造の記述を読んで見ましょう。

《神(へ語:・エローヒーム「複数形」)は仰せられをた。「さあ人(へ語:ハー・アダーム[単数」)を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せ・・・神(エローヒーム)は人(アダーム)をご自身のかをたちとして創造された。神(エローヒーム)のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。》創世記1:26,27

ここではアダム(単数形)をご自身のかたちに創造されたと記されています。同様の内容の別の記述ですが、

《これはアダムの歴史の記録である。神は人(へ語:アダーム[単数形」)を創造されたとき、神(エローヒーム)に似せて彼を造られ・・・男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名を人(アダーム[単数形])と呼ばれた。》創世記5:12

アダムは「エローヒーム」という複数形のかたち、「エローヒームに似せて」という表現は厳密に言うと、常に「人」(へ語:アダーム)に関してのみ用いられていて、「女」(へ語:ネカバー(雌))に関して「神のかたち」という直接的な言及はありません。

さまざまな聖句から総合的に捉えると、聖書が指し示す「女を創造」したとは、神のかたちに造られた「男」から「出た」ということのようです。
別の表現で言えば「ひとつの人間」を創造して、それを二人の男と女にした。というようなニュアンスを伝えているようです。

《人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ・・・》創世記2:22

第1章で遺伝子の話を取り上げました。
この時アダムの染色体は「XY]です。エバに母親はいないので、この時のエバの染色体「XX]は2ともアダムからのものです。
「神のかたち、栄光」というのは、エローヒームという複数形が示す異なる2種類の「XY]という染色体を有することと関係があるのかもしれません。

《男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。・・女は男の栄光の現われです。なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのでありまた、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。》1コリント11:7-9)

この聖句の文脈ではパウロの言う「神」はキリストとは別の存在として描かれていますので、当然ここでの神[単数」はみ父を指します。

ですから、男はみ「父のかたち」であるゆえに、そのみ父の栄光を映すものとして存在しているということなのでしょう。

1コリント11:7の他の翻訳
「男性は神の似姿および神の栄光」(岩波翻訳委員会訳)
「男は神の姿と栄光を映す者」(新共同訳)
「神の像また栄光」(前田訳)
「男は「『神の影像』であり、反影である」(塚本訳)
「男は、神のかたちであり栄光である」(口語訳)

キリストについては「見えない神のかたち」と表現されていますが、実際に私たち肉の体を持つものである人間がどのように神に似ているのか、どういう意味で「神のかたち」であるのか今ひとつ捉えにくいように思えますが、この一連の記事の冒頭で、この記事を書く事となった、ふとした発想が「人が神に似せて造られたなら、神はある意味で人に似ていると言えるだろうか」ということを記しました。

そして、そのヒントが「遺伝子」にあるかもと思わせたのが次の聖句です。
この聖句はそれを理解する良いヒントになると思います。

《アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。》創世記5:3

アダムとセツを比較して「彼に似た、彼のかたちどおり」という表現は、創世記1・26の神が人を造られた際の記述と同じ単語、表現が使われており、これは今日私たちが理解できる、生物の特徴として働いている「遺伝の法則」という比喩で捉えることができると思います。


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