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預言の成就とされている聖書解釈を斬る -3 イスラエル建国は預言成就ではないという聖書的根拠

※ ↓この記事は「朗読音声付き」です。下記リンクから再生しながらお読みいただけます。

このシリーズの記事の初めに「1 成就か否かの見極め方」の中で、エゼキエル書のマゴグのゴグについての預言に触れましたが、この記事では、エゼキエル書の全体のテーマとなっている「イスラエルの復興、ユダヤ人の故国への帰還」について考察してみたいと思います。

このテーマに関して、多くのところで同様なメッセージが見られますが、その中の一例として次の聖旬を引用しておきます。

「それゆえ言え。『神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。…』それゆえ言え。
『神である主はこう仰せられる。わたしはあなたがたを、国々の民のうちから集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを連れ戻し、イスラエルの地をあなたがたに与える。』」エゼキエル 11:16、17

そして、この約束には、単に故国への帰還の実現だけでなく、付随する重要な目的が伴っています。

「わたしがあなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集めるとき、わたしは、あなたがたをなだめのかおりとして喜んで受け入れる。わたしは、諸国の民が見ている前で、あなたがたのうちに、わたしの聖なることを示す。」エゼキエル 20:41

あなたは、現在のイスラエル共和国を、神が「宥めの香り」として喜んで受け入れていると、本気で思えますか?

また、ご自身の「聖なることを示す」、つまりユダヤ人の罪のゆえに失われた神の栄光の回復であり、ユダヤ人だけでなく、むしろ異邦諸国民に対して、汚名を返上し、ユダヤ人の神が実在し、まったく不可能とみなされていたことを実現する力を持つ主権者であることを目の当たりにさせるということです。
「諸国の民」がイスラエルを通して、神の存在を認めるようになるということは、言い換えれば、よほどの例外的な人を別にして、全世界に「無神論者」はほぼ存在しない状況だということです。

さて、ご存知のように1948年にイスラエルが建国されました。それ以降確かに「自称ユダヤ人」が各国から移住して来ました。

この出来事は、上記の預言が成就した証であると見倣されています。
この見解は、殆どの宗派で共通した認識のようです。
果たしてそれは本当に聖書預言の成就でしょうか?

この預言は、聖書全体の大きなテーマであり、単なる神の先見を示したものではありません。
これは他ならぬ神のわざであり、神ご自身がユダヤ人のためというより、ご自身の栄光のために取り組まれる最重要な事柄のーつです。

もし、それが預言の成就と些かでも関わりがあるなら、そのことのゆえに、そこに神の目的であるところの「神の主権」が全地に認識されたか? 
ユダヤ人の神を聖なるものと認めた異邦人がどれほどいるのかを考えれば自ずと明らかでしょう。

現在の「イスラエル共和国」の存在は、預言とは何の関わりもない、神の働きも導きもない、単なる人為的な、しかも極めて政治的な、特定の人間の私利私欲のために、目論まれ、でっち上げられたものでしかありません。
それは、「イスラエル国」建国にまつわる歴史的な流れや、誰がどういう目的で製造した国家なのかを少し調べてみるだけで明らかなのではないでしょうか。
ここでは、長くなりますので、読者ご自身でお調べになってください。
一つだけ挙げておきますと、シオニストは端的に表現すれば詐欺師です。
シオニズムによる、現イスラエル共和国は、ロス・チャイルドが英国を使って作ったもので、その目的は主に石油利権です。
自称ユダヤ人の大半は、ユダヤ教に改宗したということでそう呼ばれているだけで、本来の神の民とされたセム人つまりアブラハムの子孫ではなくヤペテ人(白人)です。

聖書預言の成就であるためには、建国の努力がなされ、国際的に承認され、人が各地から引っ越してくればいいというものではありません。
いえ、仮にそうだったとしても、さらに重要なこととして、連れ戻された後のユダヤ人の生活はどんな状態なのかという点にあります。

例えば、次にあげた数節を読んで、それがどんな環境、生活なのかイメージしてみてください。

「まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。
牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。
わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。
わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。
わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。一一 神である主の御告げ。一一 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。」
エゼキエル 34:11-1

神自ら、ご自分で「捜し出し、連れ出し、集め、救い出し、憩わせ、世話し、養う」と言われています。そして、それゆえにこそ、諸国はそこに神のみ手を認めることになるという目的が果たされているなら、それは預言の成就といえるでしょう。

しかし現実は、戦争、騒乱に続く騒乱、混乱などです。
また、彼らはもはや二つの民ではなくーつの民となる、と約束されていますが、実際は、スフアラディとアシュケナージに別れ、殆どの場合、経済的にも社会的にもスフアラディ(セム系のヤコブの子孫とされる)はアシュケナージ(ユダヤ教に改宗したゆえにユダヤ人と見倣されている、もしくは自称しているが、血族的にはヤペテの子孫)から虐げられている現状です。
そこには「神のみ手の働き」どころか、極めて悪魔的なもので満ちています。

ごく近い将来、9.11や3.11の事件を含め、他の様々な極悪非道な行いの背後にある真実が暴露される時、その黒幕、首謀者が誰であったかが白日のものとにさらされる時、イスラエル共和国が、全世界から猛烈なバッシングを受けるのは必至でしょう。

その今のイスラエルを牛耳っている政権、指導者層のゆえに、イスラエルの神の名は、諸国民から「聖なるもの」どころか、イスラエルの全歴史の中で最も疎まれることになるでしょう。

この「イスラエル共和国の現状」を預言の成就であると主張し、すなわち、神はこのイスラエルの現状を「喜んで受け入れて」おられるとするなら、それは神に対する冒漬、最大限の侮辱であると言わねばなりません。

最後にもうーつ、
神みずから国民を捜し、連れ戻して誕生した国が、共和制(君主が存在しない政治形態)ということがありうるでしょうか。

リンカーンの有名なフレーズの「Government of the people, by the people, for the people」に代表されるように、一般に民主政治こそ理想的な政治形態のように見做されていますが、古代イスラエルは王を戴く君主制であり、ダビデの王座は神の主権を地上で代表するものでした。
聖書が指し示す政治形態は王政。時代が違うからという問題ではありません。
預言の中でも、「ダビデ王」が、連れ戻されたユダヤ人の君主となるとはっきり宣言されています。

「わたしのしもベダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。…そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、わたしのしもベダビデが永遠に彼らの君主となる。」エゼキエル 37:24,25

これが文字通りになされるためには、メシア王国 ( 千年王国 )で、ダビデが復活して、イスラエルの民の王となる必要がありますが、少なくとも、神自らの働きによる帰還によって建国されたのであるなら、集め始められた当初から、神権統治であり、共和制、民主主義ということは絶対にあり得ないでしょう。
彼らにとって「主」は「民」ではなく「神」だからです。
ですからその政体は「Government of God, by the king, for Jew.」(ユダヤ人のための、王による神の統治)という感じになるはずです。


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