「黙示録の〔封印、ラッパ、鉢〕に関する前代未聞の発見及び考察」
(※この記事は、2011年5月にHP上にpdf文書で著した4部作と、後の一部改定を扱った短い記事をすべて合わせた上で、加筆し〔note〕用にリニューアルしたものです。)
【伝統的な「入れ子」構造という理解の見直し】
伝統的な解説として、この3つはそれぞれ「入れ子」状態になっており、7番目の封印の中に7つのラッパの出来事が含まれ、さらにそのラッパの7番目の中に7つの鉢の出来事が含まれるとされています。
これは、私の知る限りどの宗派でも変わりはないようです。
しかし、このとらえ方は、誤りである可能性が極めて高いと言える、聖書的な根拠をこの記事で示してゆくことにしたいと思います。
そもそもなぜそのように捉えられているのでしょうか。
[封印],[ラッパ],[鉢]に関するこれらの記述がいわゆる「入れ子」構造になっていると考えられている理由は、7番目の封印の開封時にラッパに関する言及があること、及びそれぞれの記述は「ここまで」という明確な文章が存在せず、曖昧なためであろうと考えられます。
【一連の記述を概観して、共通項から、そのロジックを解き明かす】
改めて、第7封印以降の記述を外観してみましょう。(簡潔にするために主要な部分以外を端折って引用します)
《第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。 それから七人の御使いに七つのラッパが与えられた。
もうひとりの御使いが出て来て、香炉を取り、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。
すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。》
この記述から、七人のみ使いにラッパが配られたのは、第7封印の開封後と受け取れること。
「すると」七人は吹く用意をした。 最初の一つだけが吹き鳴らされた。
こうして読んでゆきますと、依然として第7封印の範疇にあると思えます。(このことは後で詳述します)
そのまま第7のラッパまで記述が進み、11章に入って15節でようやく、第7のラッパが吹かれます。
《第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。》
という重大な発表が行われ、それは同時に、裁きの執行を意味するものとなるということでしょう。
11章の最後は記述はこうです。
《それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。》
12章に入って、「七つの頭と十本の角とを持つ大きな赤い竜」や、サタンと悪霊たちが天から放逐されるなどの記述が続き、13章では海と地から獣が上り、獣の数字666などが示されます。
そして更に14章では、シオンにいる14万4000人、大バビロンの裁きの発表、地のぶどうの刈り入れなどの記述などがつづいてゆきます。
(ところで、第7ラッパの話は結局どうなったのだろう、と思っているところへ)15章で「七つの災害を携えた七人の御使いたち」が登場します」
そして16:1で《行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。》と、あって、やおら[鉢]の記述が始まります。 もっとも15章ですでに「七つの災害を携えた」という記述から、「鉢」という単語はありませんが、それに関係する話は15章から始まっています。
さらに17章に入ると「大淫婦へのさばき」の詳細が示されますが、それをヨハネに見せるのは「七つの鉢を持つ七人の御使いのひとり」ですから、[鉢]に関連する話はまだ終わっていないと言えるでしょう。
「大バビロンの裁き」は18章に移り、更にその詳細が綴られ、「倒れた!」という発表とその消滅が言い渡され、19章に入ると、もうすべての裁きは終了している記述になります。
こうして流れを追ってゆきますと、[封印],[ラッパ],[鉢]はいずれも開始時は分かりますが、いつ完結したのかは何も記されていません。とりわけ[鉢]の記述が第7ラッパの中に含まれていると捉えられるべき明確な記述は存在していません。
しかし、[ラッパ]は第7封印に「含まれている」ように思えるため、「鉢」の記述も「第7のラッパ」の後に記されている故に同じ構造になっていて、[鉢]は第7ラッパに「含まれて」るのだろうと推察した結果なのでしょう。
果たして、本当に第7番目の[封印]の中に[ラッパ]の記述の出来事自体が含まれているのでしょうか?
そして同様に第7番目の[ラッパ]の中に[鉢]の記述のすべての出来事が、・・つまりは、一切合切は全部、[封印]の記述の中に包含されているのでしょうか。
問題は、それぞれの記述が、何処で終わっているのかを見極める事にかかってきます。
それぞれの記述の起点ははっきり分かります。また、7つの内、最初から6番目までは、次の出来事の開始の直前までがその区切りであることが分かります。
しかし、いずれの場合も7番目については、何処までが、その内容の区切りであるのか明確に判断するのが難しい状況にあると言えます。
これを何も考えず、読み進めてゆきますと、確かに第7の封印が解かれた時の内容の中でラッパが吹き鳴らされているように読み取れます。
しかし、全てが入れ子構造になっているとみなして(つまり、「第7封印」の記述が厳密に何処までを指しているかのを問題にせず)読んで行くなら、いつの間にか最後まで読み終えてしまうでしょう。つまり、その後の黙示録の記述は全部「第7封印」に含まれることになってしまいかねません。
なぜなら、ここまでが、「第7封印(ラッパ、鉢も同様)」についての記述であると明確に記されている記述はないからです。
そうであれば、黙示録の大半の記述は「封印」についての記述で終始しているということになります。
しかし12-14章や、17章以降の内容には、「封印」「ラッパ」「鉢」の内容とされる記述とは明らかに別の内容が記されている(あるいは挿入されている)と言えます。
ですからやはり、各出来事が、何処で区切られているのかを正しく理解する必要があるでしょう。
論理をはっきりさせるために、ここで、結論的なことを先に述べておくことにしましょう。
つまり、「封印」「ラッパ」「鉢」は全て同一の期間に生じる同様の出来事を視点を変え、目的を変えて、3通りの方法で表していると言う事です。
記されている聖句をつぶさに、徹底的に考察することによりこうした結論に至りました。
殆どの人にとってこうした捉え方は前代未聞であり、奇想天外に聞こえると思いますが、この記事ではこれを徹底的に証明してゆきます。
すでに話しましたが、「7つの鉢」が「第7ラッパ」の中に包含されると読み取れる明確な記述は存在しません。
問題は、第7封印が開かれた時と、7人のみ使いのそれぞれにラッパが与えられたのを見た。それから1番目のラッパが吹かれた。という記述は、時系列的に継続されているのかどうかということです。
言い換えれば[封印]に付いての記述、すなわち第7封印の話は「ここまで」ということが明確になるなら、「封印、ラッパ、鉢」の出来事は「入れ子構造」であるという伝統的な解説が覆されることになります。
1番目から6番目は、その都度何らかのイベントがあったように第7番目の[封印]にも特有の、「第7封印」としての何らかのイベントが起き、その後継続して[ラッパ]内容が生じてゆくのか、それとも第7封印開封は、単にラッパに移行するためだけの合図でしかないのかを見極める必要があります。
【翻訳文の単語によって生じる理解の誤導】
この視点はとても大事です。なぜなら、これによって、全体の捉えどころが変わって来るからです。
それで、移行してゆくタイミングの部分に注目するために、改めて8:1から引用してみましょう。 下の引用文中の【 】はギリシャ語の接続詞「カイ and そして」が見られる箇所を(訳文では省略されている部分を含めて、【】で表記し)現しています。
《【】小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。 【それから】私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。【】彼らに七つのラッパが与えられた。 【また】、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。【】彼にたくさんの香が与えられた。【】すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。 【】香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。 【それから】、御使いは、その香炉を取り、【】祭壇の火でそれを満たして【から】地に投げつけた。【すると】、雷鳴【と】声【と】いなずま【と】地震が起こった。》黙示8:1-5
《【すると】、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。 第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。》黙示8:6,7
この短い文章の中で、省略されている箇所が6箇所、他に「それから、また、すると、・・してから、と」などの様々な単語に訳されていますが、原文は全て同一の「ギ語:カイ」という語が使われています。
ここでなぜ、敢えてこれを取り上げているのかと言いますと、訳し方によって、時系列が変化する場合があるからです。
「そして、また」では前と後では、時間的に継続しているか、直後かということは定まりません。
しかし、「それから、すると、してから」などと訳すと、時間的に継続している、直後のことというイメージに断定されてしまうでしょう。
例えば7節の「雷鳴と声といなずまと地震が起こった」という文章では、これらは別々にほぼ同時期か、あるいは、全くシンクロしてすべて同時にということなどが考えられます。
しかし、「雷鳴がしてから声 すると いなずま それから地震が起こった」と訳すなら、雷鳴-声-稲妻-地震はこの順番で生じたと理解します。地震が雷鳴の前に起きることや、全て同時は〘絶対にない〙と思い込みます。
上に引用した、省略されているものも含め、全てを「そして」と言い換えて読むなら、訳文の呪縛から開放されて、ニュートラルな時系列上に置かれた、単なる出来事の羅列として再考察することができます。
【[封印]と[ラッパ]の明確な区切りめを見極める】
ちょっと話が横道に逸れましたが、これを踏まえて、ラッパが吹かれる直前の出来事に注目しましょう。
7人のみ使いを見た。 彼らにラッパが与えられた。
〔香炉に関する記述〕
彼ら7人がラッパを吹く準備をした。 一人がラッパを吹き鳴らした。
改めて注目すると、他の2つと比べると「ラッパ」の開始時だけ妙に描写が細かいことにお気づきになると思います。
「封印」と「鉢」の場合、例えば、「封印を渡された」「封印を解く準備をした」などというようにはなっていません。
まず、「封印」の場合、次に示すように、単純に始まります。
「七つの封印の一つを解いたとき」(残りの6つも、その数字を変えただけの同一表現が用いられています)
「鉢」に関する描写もまったく同じで「第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。」と単純に一つずつ紹介されます。ぶちまける対象となる場所の名前を差し替えただけの同じフレーズが使われます。
「ラッパのときだけ、(その細かい描写が何故必要? と思わせるような)カット割り(脚本に沿って区切りをつけ、アングルや構図などを撮影前に決めること)が存在するのです。
こうして単純に捉えると、明らかに言えるのが8:7の「第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現れ・・・」からが、ラッパの記述の本来の開始時であると思われます。
であるなら、その直前の記述、「香炉を地に投げ付け、雷鳴と声といなずまと地震が起こった」という記述は、第7封印を解いたゆえのできごとであり、この一文をもって、第7封印に関する記述は終了していると考えることができます。
つまり、ラッパの記述は、時系列的に継続した、直後の出来事ではなく、封印の記述とはまったく別個のものだということになります。
厳密に言うと「香炉を地に投げ付け」ることこそが、第7封印開封で示される内容であり、それが、続く「雷鳴と声といなずまと地震が起こ」るのを引き起こしたものですから、第7封印はこの内容で締めくくられているのです。
そしてこれと同様の内容は、実は他の2つの記述の最終部分に共通して現れるフレーズなのです。
改めてまとめてみますと。
《・・・すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。》(黙示8:5)
《・・・また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。》(黙示11:19)
《すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。》(黙示16:18)
この「雷鳴、声、稲妻、地震、雹」などに関する描写は、16:18以降、17、18章にかけて記されている「大バビロン」の滅びに関する描写です。人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもの、文字通りの未曾有の 人類史上初の大地震、つまり、それまでただの一度もそうしたことは生じていない事柄を指し示している。このタイミングで考えられるの大バビロンの滅び以外考えられません。
これは「第7鉢」に関する記述から明らかです。
《また、ひとりの強い御使いが、大きい、ひき臼のような石を取り上げ、海に投げ入れて言った。「大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、もはやなくなって消えうせてしまう。 第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した」と言った。
すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。 また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。
また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。》 16:17-21
つまりこの「大バビロンの滅び」こそが神の裁きのフィナーレです。
つまり「封印、ラッパ、鉢」それぞれの記述は、どれも「大バビロンの滅び」で終結する同一期間の同様な出来事の最終結果であるところの「雷鳴、声、稲妻、地震、雹」などの、同様な記述によって締めくくられていることが分かります。
このことから、「第7封印」に関する記述は、恐らく8:5で終わっており、「封印」に関する記述はここで完結していると言って良いでしょう。
【「封印」シリーズは「予告編」】
この記事で「封印」シリーズと呼んでいるのは、
《私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。》(黙示5:1)
と記されている「巻物」に記されている情報が「子羊」よって解かれ、ヨハネに知らされている内容のことです。従って、順に封印が開かれるとは、順に裁きの内容を「見る」ことができるようにされた。ということです。
解くことができるのは「ほふられたと見える小羊」つまりイエス・キリストだけです。ヨハネ自身が開いたわけでも、内容を見たわけでもありません。しかも聖書の記述は、順に封印が解かれた述べるだけで、なぜかそれを見たとか、読み上げたというような記述はありません。
ともかくヨハネは、開封の都度、様々なシーンを記してゆきますが、注意深く読むとそれらは開封に伴って実際に出来事が生じるということではなく「起きることになっている」事柄が伝えられているというもののようです。
実際に記述もそのようになっています。
《勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。》(6:2)
そしてどうなったのでしょうか。
「勝利を得ようとして」と書かれていますが。勝利は得たのでしょうか。
誰に対してどのように勝利は得たのでしょうか。具体的な行動、内容は何も記されていません。
《地上から平和を奪い取ることが許された。》(6:4)
許されただけで平和を取り去ったとは書かれていません。
《地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。》(6:8)
権威が与えられただけで、この時点で「殺された」形跡は見当たりません。
《人々が、互いに殺し合うようになるためであった》(6:4)
なるため、であって、殺し合ったとは記されていません
《彼に大きな剣が与えられた。》(6:4)
与えられただけで、それを使った様子は何もありません。
《天の星が地上に落ちた》(6:13)
《天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。》(6:14)
これがこの時点で起きていると、3番目のラッパの時に落ちることができません。
少なくとも第6の封印の時でさえ地も海も損なわれいません。
また第7の鉢の時に「すべての島は逃げ,山々は見えなくなった」が起き得ません。
《地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、》(6:15)
この時点でこんなに怯えているいる人々が、その後に続く災いを引き起こし、人々の大半を殺し、クリスチャンを迫害し、「子羊と戦おうと」するでしょうか。
あるいはまた《山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。》(6:16、17)
この時点でこんなに怯えているいる人々が、第七番の鉢が注がれた後でさえ「天の神を冒とくし,自分の業を悔い改め」ず、「全能者なる神の大いなる日の戦争」に勇んで参加するでしょうか。あり得ないでしょう。
《額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。》(7:3)第六の封印のこの時でさえ、この地上のどこも損なってはならないのに、[封印]の1から4番目が起きて過去のものになっていたなら、もうすでに損なわれているでしょう。
《大きな患難から抜け出て来た者たち》(7:14)
大患難は当然将来のことなのに、なぜこの時点でそこから抜け出て来た者たちが存在するでしょうか。
《もはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる》(7:16,17)
これがこの時点で成就していないのは明らかです。
以上のことから、「封印」シリーズは、予告編であって、実際に具体的に事が起きるのは本編で「ラッパ」シリーズからと言うことになります。
【「ラッパ」シリーズはサタンが地に落とされた結果の災い】
[鉢]の場合は行使者が明確で、み使いが「神の怒り」を注ぎますからそれによって生じる災いは確かに神からの裁きの表明だということが明らかに分かりますが、しかし、ラッパの方は行為者も、対象もはっきりしません。
しかし聖書歴史上に見られる多くの場合のように、具体的な災いをもたらすもの自体は、サタンの霊に動かされる野獣、あるいは偽預言者による人間的な野望に基づくもので、神はそれらを許されることによって、ご自分の裁きとされるという言うことでしょう。
《彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。》- 黙示 9:18,20
「悔い改めなかった」と記述されているということは「悔い改め」が期待されていたということに他なりません。ですから、[ラッパ]の災いも間接的に神からの裁きと言えます。
とりわけ第5のラッパの記述から明らかですが、例えば、「額にしるしのある者は損なわないように」と敢えて勧告を与えないと、み使いが、誰彼構わず損なってしまうでしょうか。言われなくともそうするはずです。従ってそう条件をつけられる必要のある者、つまりサタン側のものに、それは許されないというコントロールでしょう。
これらを考えると、ラッパシリーズの行為者はサタン側と言えます。
さて、[封印]シリーズは、実際に生じることではなく予告編のような記述であると既に述べました。
つまり、全体の外観図というか、終末期のシナリオというかそういう役割をもつものです。
そして、続く[ラッパ]と[鉢]の記述については基本的にこの二つは同時、同一の出来事を視点を変えた形で記されているに違いないという点は既に述べました。
ここではこの「視点を変えた形」でという部分をもう少し詳しく扱うことにします。
それは「ラッパの」災いをもたらす側が、「鉢」では災いを受ける側として描かれているということです。
後で詳述しますが、ここで一つの点を述べておこうと思うのは、こうした着眼点を得た理由ですが、具体的な書かれている内容とその期間(7年間の終末期のうち大患難はその半分、わずか3年半の間にすべてが生じる)を考慮すると7つのラッパが終わったら、もう一度同じ道をたどって、地に対する災厄を一つずつ繰り返すというのは、考えにくいことと思えます。
むしろ、同時期の同じ出来事を、改めて神の怒りの表明という観点から描いているのではないかと思われます。あるいは一つのラッパによって引き起こされる災いが、対応した鉢の報復で終息、次の災いが始まるという流れかもしれません。
ともかく「ラッパ」と「鉢」の出来事は実は全く同じ時点で生じるもので、それをサタン勢による攻撃を受ける側からの表現が「災い」であり、神の側からの表現が「怒りの表明」であるということです。
この点は後ほど詳述します。
【7つの[封印、ラッパ、鉢]はいずれも、[4+3]というロジックで構成されている】
まず注目できるのは、3シリーズで共通しているのは、「7つ」のうち最初の4つと後の3つを分けて考える必要がありそうだと言うことです。
■「封印」シリーズ ■
最初の 4 つは「馬」で括られています。
■「ラッパ」シリーズ ■
4つ目過ぎたところで、「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている 」。とあって、まるで前の4つは「災い」はなかったかのように、ここから「災い」宣言があります。
5つ目が過ぎたところで、「第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。この後なお二つのわざわいが来る。」 やはりここでも、過ぎた災いは「一つ」であると言われ、後二つの災いとカウントされています。なぜか5番目が1つ目なのです。
6つ目が過ぎたところで、「第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る」とあって、このことを三度強調しています。
まとめますと第5のラッパ=第 1 の災い 第 6 のラッパ=第 2 の災い 第 7 のラッパ=第 3 の災い
このように『ラッパシリーズ」でも最初の4つと後の3つは別扱いです。
■「鉢」シリーズ ■
鉢の記述だけからは、最初の4つを分けて考える根拠となる記述はみあたりません。
しかし、同じ7つからなる「封印、ラッパ、鉢」の三種類のうち最初の 2 つ「封印、ラッパ」はともに「4+3」という構成になっていること、また、「ラッパ」シリーズと「鉢」との内容の共通点を考えると、同様であると考えられます。
それで、一旦ここでまとめますと、
「封印」は終末期のシナリオ。
「ラッパ、鉢」は最初の4つはターゲットとして人間の活動領全体に及ぶという説明。ダイジェストのような役割。
そしてそれぞれ残りの3つ。
5番目は(7年間の終末期の)前半の3年半(1260日)の災い/報復
6番目は後半の3時半(1260日)の大患難の出来事
7番目は大バビロンの滅び
つまり、7封印、7ラッパ、7鉢の記述のうち、実際に生じることは、たったこの3つだけということです。
さてでは、この「4+3」はどういう区分け(ジャンル分け)になっているのかを次に考察してゆきましょう。
これは3種類のシリーズ全てに当てはまりますが、最初の4つは、聖書中によく見られる「四」の用法と同じですが、例えば「害をもたらすわたしの四つの裁きの行ない―剣と,飢きんと,害をもたらす野獣と,疫病―がある(エゼキエル14:21)
これは、全ての状況においてもれなく行き渡るための神の裁きの手だて四種類、「四人のみ使いが地の四隅に立ち,地の四方の風をしっかり押さえている」これは、地の四隅、東西南北という四方で、全てをカバーできるもので、どちらも全部、全体を示すものとなります。
従って、「封印」の最初の4つは、7つのうちの全体像、概観図であり、全体的な影響を象徴的な言葉で要約していると言えます。
そして、詳細図もしくは内訳として具体的な残り3つが詳述されてゆくという形式です。
そして、このパターンは、「ラッパ」「鉢」にも当てはまります。ですから、実際の出来事は実は3つしかないと言うことです。「ラッパ」「鉢」のどちらも、5,6,7に比べると、本当に簡潔に、文字通り箇条書きという扱いです。
もう少し具体的に検証してみましょう。
まず、「封印」の時は「馬」でしたが、「ラッパ」の1-4は「1/3」のキーワードで括られています。(第6ラッパでも1/3は出てきますが)損なわれる1/3は次の通りです。
1 地上の1/3 木の1/3 (青草が全部)
2 海の1/3 海の中にいた、いのちのあるものの1/3 船の1/3
3 川の1/3 水の1/3 (多くの人がその水のために死んだ)
4 太陽の1/3 月1/3 星の1/3(昼の1/3、夜の1/3)
ターゲットとなる4種類の場所である、地、海、川、太陽は、すなわち地球、海洋、河川、天空であり、「人間の生息域全体」を4つの領域で表現して、樹木、船などの表現でそれぞれの領域の主要な要素を表しているのでしょう。結果、その全世界の1/3が打撃を受けると言うことを示唆していると言えます。
逆に、文字通り、1から順にこの全てが成就すると解すると、矛盾が生じて来ます。例えば、(黙示録8:7)「第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現れ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。」(黙示録9:1,4)「第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。…地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで・・」
この2つを比べると、第1ラッパで、すでにすべて損なわれている、樹木、草木を第5ラッパの時に「損なわないように」と告げられることになります。従って、1から順に7つすべてが生じるという読み方は、意図されていないと言うことを、この2つの聖句は物語っています。
さて、ほとんどは1/3なのに若干の例外があります。「緑の草木は」残らず全部です。
そして、苦くされた水の1/3の影響で「多くの人」が死にます。少なくとも1/3以上ということでしょう。
それぞれの語句が実際に何を意味するかを、逐一考慮することはこの論文の目的とはそれますが、1/3に関してだけ少し、思いついたので、触れておきます。
ブリタニカ年鑑によると世界の宗教人口比率は、①キリスト教 33% ②イスラム教 21% ③ヒンズー教 13.5% ④無宗教12% ⑤中国の伝統宗教 6.5% ⑥仏教 6% ⑦その他
10% となっていました。偶然かも知れませんが、キリスト教世界はちょうど世界の1/3です。
これは推測に過ぎませんが、1/3という表現を考える時に、世界の様々な場所の打撃された部分を集計すると、みなどの場合もすべて1/3だったと言うことは考えにくいように思えます。
また、「地」の打撃は地球の1/3のある地域、また「水」の影響は別の地域というのも考えにくいでしょう。やはり、全ては同一の1/3の領域に生じると考えられます。
どう考えても、適当にめくら打ちをした結果や、集計された1/3ではなく、1/3を「占める」特定の部分がターゲットにされたと考えるのが理に適っているように思えます。
さて、この推測が当たっているとすると、「全ての青草」と「苦い水」の影響は、そこだけでは済まず、全世界、また相当な範囲に及ぶことになるということでしょう。
「主の日(終末期)」で何を終わらせるのか、「世の終わり」という表現もありますが、終末期のメイン舞台はイスラエルであり、メインターゲットはNew World Orderと「大バビロン」ですから、1/3もその関わりのある領域であることだけは確かでしょう。
(「大バビロン」については「31 大いなるバビロンの正体を見極める」をご覧ください)
さてすこし横道にそれましたが、次に「鉢」シリーズの1-4に注目してみましょう。
『「7つの鉢」キーワード抜粋』の表をご覧になればすぐに分かりますが、この1-4の注がれる領域と、「ラッパ」の1-4の領域は同じであることが確認できます。
したがって、鉢シリーズの1-4も「人間の生息域全体」に及ぶ影響について述べていると言うことができます。
しかし、領域は同じでも、書かれている内容に違いが見られます。
「ラッパ」に出て来る表現は、破壊、苦、死ですが、「鉢」の方は違う観点から書かれています。
つまり全体的な記述は「報復、返報」です。
《彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは、その血を彼らに飲ませました。彼らは、そうされるにふさわしい者たちです。 また私は、祭壇がこう言うのを聞いた。「しかり。主よ。万物の支配者である神よ。あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。》(黙示録 16:6,7)
【「ラッパ」と「鉢」は同時期に起きる事柄の、別の観点からの記述】
「ラッパ」と「鉢」は同時期に起きる事柄の、別の観点からの記述に違いないということを先に少し触れました。ここではそれを詳しく論じてゆきたいと思います。
第7番目のラッパについてですが、その直前に次の声が上がります。
《第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。》(黙示 11:14)
それで、第7ラッパが吹かれると、すぐ災いかと思いきや、
《すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。》(黙示11:15)
となっており、これが災いの表現とは思えません。それまでの災いに見られた具体的な『死」「苦難」「打撃」『衝撃」「破壊」などの表現がありません。
さらに後を見てゆくと「あなたの御怒りの日が来ました」「・・・地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です」という表現がありますが、これは、これから後それが具体的に行われる時節が到来したわけで、災い自体はここで起きてはいません。
それで速やかに来る「第三番目の災い」と思えるのはその次の記述です。
《いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。》(黙示11:19)
これは明らかに第7ラッパのゆえに「生じて」おり、他のラッパの記述と通ずるものです。これが「第三の」つまり第七のラッパによって生じる災いであれば、その後の記述は、7つのラッパのうちに含まれるものではなく、また別のものであるとしなければなりません。
逆に(一般に解説されているように)「7つの鉢」が「ラッパ」の第三の災いであるとするなら、「第七のラッパが吹かれた」という記述のすぐ後に出て来るこの「稲妻と声と雷と地震と大きな雹が生じた。」というこの災いをまったく無視しなければなりません。
まずこの事だけでも、「入れ子構造論」は崩れます。
さて、では「7つの鉢」が「ラッパの第3の災い」ではないということを裏付ける根拠があるのでしょうか。あります。
ここで、「ラッパ」シリーズに度々登場する「わざわい」という語と、「鉢」シリーズで使われている「災害」との違いについて、明らかにしておきましょう。
《第二のわざわい(ウーアイ)》黙示11:14
《これらの災害(プレガス)》黙示16:9
「ラッパ」と「鉢」の決定的な違いは、ラッパは「災いが起きることを告げる合図」と、その後のその実行であり、一方、鉢は、神の怒りを満たしたものが注がれることであり、どちらも神からもたらされる、あるいは許されることにより生じる出来事ですが、こ両者は言わば、「天災」と「天罰」の違いがあります。「わざわい」(ウーアイ)と「災害」(プレガス)と言葉を使い分けて訳されていることを無視せずに受け止めると、その違いに意味があることが見えてきます。
「鉢の災害」(プレガス)を神の民(是認された人)が被ることはありません。しかし彼らも、三時半の期間、獣の手に渡され「わざわい」(ウーアイ)を被るのです。
言い換えれば「わざわい」に会わない人は、「わざわい」を引き起こしている側の人間だけで、その他の人類は皆「わざわい」に会うのです。つまり神の民も例外ではないということです。
あるいは又この「わざわい」は龍が天から落とされた時に出された「地に住む者には災いだ(ウーアイ)」という叫びにあるように、誰であれ「地に住んでいるものは、災いに遭うということです。
聖徒たちの信仰と忍耐を意味するというのはこのことです。
そしてその災いは場合によっては殉教ということもあり得ることが示されています。まったく「わざわい」です。
ラッパの「第三のわざわい」が「鉢」を指しているのではないという理由はこれです。
つまり鉢の「災害(プレガス)」は、決して第7ラッパの「わざわい(ウーアイ)」という容器の中身ではないということです。
神からの裁きを「とんだ災難だ」と理解、表現するのは、神の意に反するでしょう。
そうした認識を示すのは、神を恐れない「地上の王たち」や「地上の商人たち」の内に見られます。
《それゆえ一日のうちに、さまざまの災害(ギ語:プレガス)、すなわち死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。》(黙示18:8)
神からの裁きのゆえに生じるこの災害を、当事者たちは、とんだ災難だと表現していることが分かります。
《わざわい(ギ語:ウーアイ)が来た。わざわい(ギ語:ウーアイ)が来た。大きな都よ。…》(黙示 18:10)
さて「鉢」が最後の「ラッパ」によって生じる直接の出来事でないとすると、改めて、「ラッパ」と「鉢」がどういうタイミングで起きるのかを考察する必要があります。
「ラッパ」と「鉢」が同時期に起きると考えられる一つの根拠としてあげられるのは、既に示したように、「封印」「ラッパ」「鉢」の最後は「稲妻と声と雷が生じ…大地震が起きた。…重さが一タラントほどもある大きな雹が天から人々の上に降り・・」(啓示 16:18‐21)というこれらの共通した表現で締めくくられているという点です。
この7番目の「鉢」の詳しい記述から見ると、この稲妻、大地震、雹などの災厄は「大バビロン」の滅びを描いていることが分かります。
《第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声が聞こえ、「事は成就した」と言った。そして、稲妻、さまざまな音、雷が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった。
あの大きな都が三つに引き裂かれ、諸国の民の方々の町が倒れた。神は大バビロンを思い出して、御自分の激しい怒りのぶどう酒の杯をこれにお与えになった。》黙示16:17-19
そして聖句は続く 17 章で、この「大バビロン」の滅びを改めて詳細に描いています。
それで、「封印」「ラッパ」「鉢」はどれも最後に、「大バビロンの滅び」を記して終えている。これが、「ラッパ」と「鉢」が同時に生じるとする根拠の一つです。
さらに、それぞれによって成し遂げられる事柄を比較しても同様の結果が得られます。
【「ラッパ」と「鉢」によって成し遂げられる事柄】
「ラッパ」によって成し遂げられる事柄。
《もはや時が延ばされることはない。 第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。》(黙示 10:6‐7)
「鉢」によって成し遂げられる事
《七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。神の激しい怒りはここに窮まるのである。》(黙示 15:1)
これらを踏まえて、改めて福音書の「終わりのしるし」について語られたところを思い起こしますと、イエスは、「災い(患難)」と臨在のしるししか語っておらず、最終部分で「選ばれた者たちに祝福が与えられる(王国を受け継ぐ)ことと、不忠実な追随者の裁きがなされてすべてが「終わる」とされています。
つまり、「封印」と「ラッパ」の部分と同様の内容を語っておられ、福音書とこれらは、きっちり、合致します。つまり「患難」の後に一連の「災害」が続くのではなく、「大患難」自体が裁きなのです。
【ラッパのタイミングから見る「王国」の誕生の時】
黙示録に於ける「王国」の誕生あるいは実現に関する言及は黙示録 11:15 と 12:10 の二カ所のみです。
《第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。
万物の支配者、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられた》(黙示 11:15、17)
さて、もう一つの王国の誕生と読み取れる記述は次の箇所です。
《今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。》(黙示 12:10)
これが王国実現に関する言及の2つめです。
なぜ、王国誕生時が2度あるのでしょうか。
11:15では第7のラッパが吹かれた時、12:10はサタンが天から放逐されたときです。
様々な証拠の示す所から言えば、この2箇所は明らかに別の時点です。まず、この点から確証しましょう。
第5のラッパ(第1のわざわい)は《一つの星が天から地上に落ちるのを見た。》から始まります。これは底知れぬ深みの使いで「ヘブル語でアバドン、キリシヤ語でアポリュオン」という名がある事から、この落ちた星はサタンに他ならず、ミカエルによって天から落とされた時から始まります。前半の3時半の開始です。
11章の最後は、第7のラッパが吹かれ、「王国樹立」と「大バビロン」の滅びを意味する「稲妻と声と雷と地震と大きな雹が生じた。」の記述で終わっています。
そしてそれまでに「地に対する災い」は全て終わっています。
改めて 11 章の最後の部分を考慮しますと、それがはっきり分かります。
《全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです。
異邦人たちは怒り狂い、あなたも怒りを現された。死者の裁かれる時が来ました。あなたの僕、預言者、聖なる者、御名を畏れる者には、小さな者にも大きな者にも報いをお与えになり、地を滅ぼす者どもを滅ぼされる時が来ました。」そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え、稲妻、さまざまな音、雷、地震が起こり、大粒の雹が降った。》(黙示11:17-19)
ここで、神の支配は開始され、クリスチャンたちに報いが与えられます。つまり殉教者は復活し、敵に対しては最終的な裁き、つまり滅びがあるだけです。この時点で、大患難と聖徒たちに迫害をもたらす3時半は終わっており、この後は大バビロンの滅びと、野獣と偽預言者は捕らえられて滅ぼされるという流れになります。
12章からは別のビジョンで、時系列も別の時に移っています。
12章は「女」が子を産み、それに前後してサタンが天から放逐される出来事から始まります。そして女の迫害(失敗)、1260日荒野で養われる、代わりにサタンは「女」の「子」の残っている者たちと戦うために出て行く。
そして13章に続いて、そのための手だてである「野獣を」起こします。そしてそれから、聖徒を迫害する「3時半」(ダニエル7章の記述参照)が始まります。
それで、サタン放逐から始まる12章は「地上の災い」の開始になります。すなわち、「七つのラッパ」の災いの開始となります。
つまり12章の時系列はラッパが吹かれて災いが始まる前まで戻っていることが分かります。 ここで「黙示録の章順と出来事順の時系列表」を掲載しておきます。
それで11:15の「王国」の言及は、全ての災いが終了した時点であり、一方12:10の「王国」の言及はサタン放逐の直前であり、11:15の時から遡ること1260+1260日(女が養われる期間+聖徒が砕かれる期間)の7年ほど前となります。
改めて、この二つの「王国誕生」記述を読み比べると、双方に明確な違いがあることが分かります。
《この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」》(黙示 11:15)
こちらは、「世の王国は神の王国と(たった今し方 なった! ) 」文字通り「王国の支配の開始」です。
この時点から7年前の、黙示 12:10の記述は、「神のキリストの権威が現れた」という表現です。
「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。」(新共同訳)
こちらは、その「権威」が現れたとされていますが、支配を開始したとか、「世の王国」に対する実力行使などを直ちに開始したとは読み取れません。
この「現れた」と宣言できたのは、「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」とその理由を述べています。そして、サタンが落とされるのと入れ代わりに、その代わりに彼らは「女」の子として「神のみもと、その御座」に引き上げられています。
すなわち、天ではもう王国は誕生し、その王権の継承者となる忠実なクリスチャンは王座に就いたということです。
※(この黙示12章の「女」の「子」についての詳細は、次の記事をごらんください)
それで「王国」誕生が2度あるわけではなく、先ず「王権」が確立し、その後、第7ラッパ時に、王権の行使を開始するということです。
第7ラッパ時に、もはやすでに「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。」のですから、更にその後も延々と「鉢の災害」などというものが継続する必要などは皆無だということです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?