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黙示録12章の「男の子」はキリストではなく 144,000人であるいう聖書的根拠

誕生した「男の子」に関する一般の解説や理解の間違いの証拠

この記事では、一般に解説、理解されている黙示録12章の「子」の誕生につての間違いの根拠を聖書から証明しています。そして実際に聖書が示しているその実態に付いて論証しています

先ず、問題の箇所を引用しておきましょう。

「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。」黙示12:5

どの宗派に限らず、ほぼすべての解説で、この「男の子」はキリストであると理解されているようです。
そして「女」はイスラエルであるということになっています。
(これも微妙に違うんですが、ややこしくなるので、この件は後回しにします)

さて、この「男の子」がキリストであるとする解説の根拠について様々な点が挙げられていますが、一番の根拠は「鉄の杖ですべての国民を治める」という記述がキーワードになっているようです。
これで、キリストであることは決まり! ということで、そのための他の参照聖句も挙げられています。

そのうちの一つは「黙示2:27」です。

しかし、この聖句こそが、「子」はキリストではない決定的な証拠となっています。

まずはその部分を引用しましょう。

「彼は鉄の杖をもって彼らを治める、土の器を打ち砕くように。」黙示2:27

黙示12章と同様の表現が見られます。
では「彼」とは誰でしょうか。
改めてその前後を含めて引用してみましょう。

「わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ。 勝利を得る者に、わたしの業を終わりまで守り続ける者に、わたしは、諸国の民の上に立つ権威を授けよう。彼は鉄の杖をもって彼らを治める、土の器を打ち砕くように。」黙示2:26,27

先ず、ここで度々目にする「わたし」とは誰でしょうか。
章の頭に戻って、文脈を見れば一目瞭然です。

「右の手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、次のように言われる。」黙示2:1

この方は明らかにキリストに間違い無いでしょう。
そして語り初められます「わたしは・・・」とずっと記述は続きます。
では種明かし的に「誰」を指しているのかを考えながら改めてお読み下さい。

「わたし(イエス・キリスト)が行くときまで、今持っているものを固く守れ。 勝利を得る者(誰?)に、わたし(イエス・キリスト)の業を終わりまで守り続ける者(誰?)に、わたし(イエス・キリスト)は、諸国の民の上に立つ権威を授けよう。彼(誰?)は鉄の杖をもって彼ら(諸国の民)を治める、土の器を打ち砕くように。同じように、わたし(イエス・キリスト)も父からその権威を受けたのである。」黙示2:26-28

もうお分かりでしょう。

ここでは、イエス・キリストは「鉄の杖」を受けるものではなく、授ける側です。
誰に? 「勝利を得る者」「終わりまで守り続ける者」にです。文脈から厳密に言うと、ティアティラにある教会のうちの誰かです。

「彼は鉄の杖をもって」と「彼」は単数形で記されていますが、全クリスチャンのうち「勝利を得る者、終わりまで守り続ける者」がただ1人ということはありえないでしょう。

これは明らかに、天の国で「王また祭司」として治めることになっている、召されるクリスチャンの一団を指して語られています。

ここまでで、ひとまず「鉄の杖ですべての国民を治める」のがキリストだけでないことが確認できました。

誕生した「男の子」の実態を時系列、タイミングから探る

では黙示12章に戻って、問題の「男の子」が誰なのかの検証に移りましょう。

この「子」がキリストであるとするのは、記述の時系列を無視し過ぎでしょう。
タイミングは「終末期」開始の直前です。

「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。 女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった。
さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、 勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。 この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。」黙示12:5-9

キリストは生まれてすぐに天に引き上げられてはいません。
1260日は患難期の前半の期間(3時半)です。
そして、天で戦争が起き、サタンとその仲間は地に投げ落とされる、という記述が続きます。
タイミング的には、「男の子」とサタンは入れ替わりとなり、終末期の開始となります。

この男子は「144000人」であるという聖書的根拠

では、終末開始直前に産み落とされる「子」とは誰でしょうか。

最初に「女」は「イスラエル」と密接な関わりがあることに注目しましょう。

「一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。」黙示12:1

この表現とリンクしているのは次の記述でしょう。

「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」・・・「一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。」創世記37:9,10

このことから、「太陽」はヤコブ(イスラエル)「月」はラケル(子たちの母)「12の星」は12 人の子供たち(12 部族の祖)であると捉えて間違い無いでしょう。
従って、黙示12:1の表現は、生来のイスラエルがアブラハムの胤を産み出すということを示していると考えられます。

ここまで確認した上で登場するのが黙示7章です。

「わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた。 わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、 こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」 わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。」黙示7:1-4

この後、イスラエル各部族から12000人ずつ選ばれます。タイミングは「終末期」直前です。
こうして、女から「144000人」という一団の「男の子」が誕生します。

彼らは生まれるとすぐ「天」に引き上げられます。

ところで、黙示録7章で、144000人と「大群衆」が別々に紹介されているのは、14万4千人は、大患難の前に天に復活する「初穂」であり、大群衆は患難を経て天に入る人々だからです。「大群衆」はいわゆる「患難後の携挙」と一般に呼ばれるグループに属するからです。(終末期の殉教者は「第1の復活」に含まれる)

「地上から贖われた十四万四千人の者たち・・・この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで」黙示14:3,4

彼らは大患難の前に「初穂」として「ひと足お先に」天に挙げられます。

「144000人」は大患難前に初穂として天に復活する(携挙ではない)

さてこのことに関して、次に挙げるパウロの実に不可解な記述を考慮しましょう。
【 】の語句に注目してじっくりと読んでみてください。

「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 何とかして【死者の中からの復活】に達したいのです。
わたしは、既に【それ】を得たというわけではなく、既に【完全な者】となっているわけでもありません。何とかして【それ】を捕らえようと努めているのです。・・ 兄弟たち、わたし自身は既に【それ】を捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる【賞】を得るために、【目標】を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で【完全な者】はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに【何か別の考え】があるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。 いずれにせよ、わたしたちは【到達したところ】に基づいて進むべきです。」フィリピ3:10-17

いかがでしょうか。
これから【】でくくった語、【それ】、【完全な者】、【賞】、【目標】、【完全な者】、【何か別の考え】、【到達したところ】を検討してみることにしましょう。
「既に【それ】を得たというわけではなく、既に【完全な者】となっているわけでもありません」
「それ」とは何を言っているのでしょうか。

「わたしたちの中で【完全な者】はだれでも、このように考えるべき」とはどういうことでしょうか。
「私達の中」とはクリスチャンの中でという意味です。ではその中の「完全なもの」だけに与えられる「それ」とは何でしょうか。
(言い換えれば、クリスチャンの中には「完全」では無い人もいるということです)
「完全な者」だけが抱き得る、特別な「考え方」があるということを示唆しているように思えます。

「あなたがたに【何か別の考え】があるなら」とはどういうことでしょうか。
「それ(賞)」を追い求めるのは全クリスチャンのあるべき態度ではないのでしょうか。

明らかにパウロは、自分の持つ特例的な「それ」に関する希望が、すべての人にあるわけでもないことに気づいていたのでしょう。
「わたしたちは【到達したところ】に基づいて進むべき」とはどういうことでしょうか。
各自【到達したところ】に基づいて、とは、すべての人が「クリスチャンとして到達すべき」ものとは異なる概念で語られているように思えます。

ここの一連の文脈から推察されるのは、すべてのクリスチャンのうち「完全」なものには、他のクリスチャンにはない「考え」があり、別の「賞」が待ち受けている、故にパウロは、「それ」を既に得た完全な者になっていないと自覚しており、何とかして「それ」をひたすら捉えようとしているのだと、述べているのです。

何のことかというと冒頭で述べている「死者の中からの復活」をです。
しかしパウロは、何度となく、確信を込めて、復活の希望について記しています。実際のところ、「別の考え」を抱いている一般のクリスチャンも、天の御国に召されるために「死者の中からの復活」を経験しなければなりません。
では、ここから種明かしです。

原語のギリシャ語で見ると謎が溶けます。

外の復活

「復活」と訳されるギリシャ語:アナスタシスは、字義的には「起き上がらせること; 立ち上がること」(「上へ」を意味するアナと「立つこと」を意味するスタシスからの語)という意味の言葉です。
その後に「ギ語:エクス 外、他)+「ネクローン 死」という語が続いていますので、「死の外への復活」という意味になります。

しかし、新約聖書中の唯一この節にだけ「アナスタシス」の前に接頭語の「エクス」がついているのです。
ですから字義的には「死の外への、外の復活」となっています。

この聖句について、 Robertson's Word Pictures in the New Testament(ロバート ソンの「新約聖書の絵画的描写」(1931 年,第 4 巻,454 ページ)では、次のような解 説をしています。 「明らかにパウロはここで、信者が死者の中から復活することのみについて考慮し,それゆ えにエクス [ 外 ] という語を 2 度用いているのであろう。」

実際、20以上の英語聖書を調べましたが、全て、「エクスアナスタシス」を「アナスタシス」と同一に、単に「復活(the resurrection)」と訳されていました。

人類一般の復活を、ここで度外視し、信者の復活だけに注目させる目的で、それを強調していると言うことですが、この解釈は、パウロの復活に関する他の記述から否定されると 言えます。

例えば一つ前の3:10の「復活(の力)」という部分は単に「アナスタシス」だけです。

フィリピ3:10

ちなみにパウロの記述の他の「復活」に関する幾つかの例も載せておきましょう。

コリント15 死からの復活

つまり、フィリピ3:11だけが例外で「死の外への、別の復活」ということです。
にも関わらず、ほとんどの日本語訳はこの「エクサナタシス」の「エクス」を無視して単に「復活」と訳しています。

さて私が探した、翻訳の中で、「エクサナタシス」を異なった表現で訳しているものが2つありました。「新世界訳」と「回復訳」聖書でした。

新世界訳では《何とかして早い方の復活+を経験したいと願っているのです。》となっており「エクサナタシス」を「早い方の復活」と訳しています。(しかし「エクス」に「早い方」などという意味はまったくありませんから、相当な意訳あるいは誤訳と言ってよいでしょう。)

( ※回復訳とは: 新約聖書回復訳はギリシャ語原文に忠実で、どなたにも理解しやすい注解(解説)付き聖書です。回復訳新約聖書の底本は、今までに発見された写本に基づいて決定されたギリシャの原文です。回復訳のほとんどは、Novum Testamentum Graece(26th edition) に見られるネストレ- アランドのギリシャ語テキストに従っています。
http://www.recoveryversion.jp/ )

そこにはこうあります。

《キリストと彼の復活の力と彼の苦難の交わりとを知り、彼の死に同形化されて、何とかして、死人の中からの格別な復活に到達するためです。》(フィリピ3:10,11;回復訳)

ここでは「エクサナタシス」を「格別な復活」と訳出しています。
明らかに、通常のというか一般のクリスチャンの天への「復活」とは別のクラスの「復活」があり、パウロは【それ】を鋭く意識して、「何とかして捉えたい」と願っていたようです。

聖書全体を考察すると、恐らくこの希望は、ヤコブの直接の子孫(イスラエル人)だけに啓示されていた可能性が高いと思われます。
「あなたがた(マケドニアのフィリピの異邦人からの改宗者)に【何か別の考え】があるなら」と述べていることからすると、限定された人にだけその格別の復活の希望があることの明確な区別の範疇をパウロ自身、十分には理解していなかったのかもしれません。

さて、この「エクサナタシス」のエクスをほとんどの聖書は無視して訳しているわけですが、当然のことながら、あえて別の単語で表記しているわけですから、そこには必ずパウロの明確な意図があったはずです。
この点をもう少し掘り下げてみたいと思います。

「エクサナタシス」という名詞は「エクサニステミ」という動詞から派生した語です。そしてこの動詞の方も「エクス」のついてない普通の「アニステミ」という語があります。
「アニステミ」は全部で108回、「エクサニステミ」はわずか3回だけ聖書中に用いられています。意味は「起き上がる、立ち上がる」というものです。
そしてこちらも、「エクス」を無視して「アニステミ」と同一に訳されています。しかし、本当に意味の違いは無いのでしょうか。それを検証してみます。

わずか3回という限定的に使われている「エクサニステミ」を引用してみましょう。【 】内が「エクサニステミ」に相当する部分です。

《先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がない場合には、その弟はその女を妻にして、兄のための子を【もうけ】なければならない。』》マルコ12:9

《先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もしある人の兄が妻をめとって死に、しかも子がなかった場合は、その弟はその女を妻にして、兄のために子を【もうけ】なければならない。』》ルカ20:28

《パリサイ派の者で信者になった人々が【立ち上がり】、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言った。》使徒15:5

おわかりのように、マルコとルカは、同一内容ですから実質的には、たった2回だけ「アニステミ」ではなく敢えて「エクサニステミ」が用いられている箇所です。
マルコ、ルカの方は「もうける」と訳されていますが、字義的には(子孫を)起こす(岩波翻訳委員会訳)ということで「エクサニステミ」が使われています。
ちなみに使徒15章の2節後にある《 激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った》の「立ち上がった」は普通の「アニステミ」です。

さて、どこが違うのでしょうか、なぜ、この3つの記述だけ異なる単語が使われているのでしょうか。よく読むと共通点が見えてきます。
文脈をみると、その概念の違いは「改めて~」というニュアンスを含んでいることがわかります。

つまり、この「エクサニステミ」に先行した「起こし、立ち上がり」があったと、もしくは目論まれていたいうことです。

子供を残さず死んだ人の兄弟は、その妻を娶り、子を起こし直す、改めて子を起こすという必要があったということです。つまり「別の起こし」に言及しているということです。

使徒15章の方では、《ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。》(使徒15:1)それ故論争が起き、解決を図るためにエルサレムに登り長老たちそのことを報告したのですが、何と《パリサイ派の者で信者になった人々(までも)が【立ち上がり】、同じことを言い出したのです。ここでも「改めて、立ち上がる」ことが生じたということです。

つまり単独の行動の場合は、単に「アネステーミ」ですが、このわずか3例の場合の共通点はいずれも、初回とは別の行動を指す際に使われているということです。
ですから、当然ですが「エクス」がついているということは「別の」ものだたということです。

話が長くなりましたが、ともかく通常の復活である、再臨の際の「第一の復活」とは別の復活があり、それこそが患難前に選定された、イスラエルの各部族からの12000人、合計14万4千人が「初穂」として挙げられる「格別の復活」のことであるに違いないというのが、わたしの考察です。

この男子の誕生こそが「先の者が後、後のものが先になる」ことの本当の意味であるという根拠

実はこのことは、イエスの言葉の中に、何度か匂わされています。

天への復活が「第一の復活」だけであれば、ほぼ一斉に行われると考えられますが、(誰が先、とか後というような長期間を要することはないでしょう)しかし確かにイエスは「召される」ことには順番の違いと変則的なルールがあることを事あるごとに話されていました。

《人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある》(ルカ13:29,30 )

ここから分かるのは天の王国に復活する人々は、全員一斉にではなく、時間差があり、しかも、順序の逆転が生じる場合があるということです。

同様のフレーズはマタイ19章の中にも見いだされます。

「イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。 わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」」(マタイ 19:28-30)

そして、さらにこの後、《天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。…」という例え話を語られ、最後にもう一度、「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。》(20:16)と繰り返されています。

この譬え話について、やれ「賃金」は何々を表し、「先のもの」はユダヤ人で、とか、様々な解釈をしている人は少なくないようですが、そんなことは殆どどうでもいいことです。どの場合もそうですが、たとえの話の目的は最後に、つまり「適用」にあります。
この場合「このように・・」ということは、イエスがこの譬え話をされた目的は、「後の者が先、先の者が後」になることがあり得ることを示すためです。
この結論とそれを伝えるためですから、考えようによっては全く違う「お話」でも一向に構わなかったと言っても良いでしょう。

さてここから、まとめと結論です。

黙示録12章の「女」が「子」を生んだ、という記録は、イスラエル(厳密に言うと「上なるエルサレム」という母である、現代のエルサレムに象徴される)の中から、歴史上と大患難前までに存在した「完全な者」として刻印を押された(選定された)14万4千人が「初穂」として格別の復活をし、天に挙げられるということを示しているものです。

そして、現代に近い方の「後の者」が、患難前の先に復活し、1世紀に近い「先の者」が患難後の第一の復活の際に預かるという順番の逆転が生じるということです。

 
 


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