鳴らなかった携帯電話

8時46分。携帯電話の画面に娘から不在着信。
とっくに学校に行ったはずなのに訝しく思いつつ開くと、メッセージが届いていた。

”痴漢にあった”

ただそれだけを、放り投げるみたいに送りつけてその前後がまるで無い。
時間を見ると今より40分も前に送ってきたもので、電話にもメッセージにも気づかなかったことになる。
慌ててリダイアルすると、今から警察と一緒に帰ってくるという。

「ごめん、電話に気づかなくて。大丈夫?」
「うん、大丈夫。色々やることあるんだって。あとでね」

背後で聞こえていたざわざわという風景音をぶった切るように、電話は鎮まる。
音を鳴らしていなかったのだろうか、とチェックをしたが、鳴る設定になっている。

少し離れたところに置いておいたとはいえ、どうして気づかなかったのだろう。息子もいて、どっちかが気づいても良さそうなのに。
連絡をくれた頃は、ちょうど朝ドラを見ていた。
ひなたの英語がうまくなったな、練習相当したんだろうな、偉いな、なんてことを思っていたけれど、周りが見えなくなるほど夢中になっていたわけではない。

娘のエマージェンシーに気づかなかったことを申し訳なく思い、すぐにでも飛んで行ってあげられなかったことを悔やむ。

一方で、どんな被害だったかもわからず、泣いたり、精神状態が不安定になっているんじゃないかと、電話をかける直前まで心配だったけれど、

――大丈夫

その声は平時とそう変わらなくて、少し拍子抜けした。

警察や鑑識の人たちを引き連れて物々しく帰ってきた娘だったけれど、今しがた痴漢に遭った人とは思えないくらい普通で、受け答えも淡々と、調書を作るのに協力している。

すれ違いざまにスカートに手を入れられ、お尻を触られたという。
まるで”肩を払われた”とか、”頭を撫でられた”と同等くらいのテンションで。

大丈夫?

何度も聞いたけれど、何度聞いても答えは同じだった。

――うん、大丈夫

被害がそこまでではなくて良かったなと思った。

「被害届を出されますか?」と聞かれて、出さない選択なんてあるんだろうかと思う。同様に、不審者メールを配信してもいいかと問われ、是非やってくださいと答えたが、ダメと言ったら配信しないのだろうか。だったら、流れてくる情報はすべてじゃないと考えなくてはいけないのじゃないか。そんなことを思う。

調書は警察官が代筆し、それが正しければ署名をして欲しいと言われ、娘がサインをした。
ではここに住所を――と指示がなされたがすかさず鑑識の女性が「それは不要」であると指摘をしてくれて、それを聞いた警察官が大仰に、
「そうだった!あっぶねー。あっぶねー、書くところだったあっぶねー」と繰り返し言うのを聞き、その落ち着きのなさに笑いそうになった。でも、起きたことから考えるに、笑うのは多分違うと思い、唇を噛んで堪えた。あとから聞くと娘も同じことを考えていたようで、だったら笑っても大丈夫だったかなと思った。

よく晴れた空模様だった。
洗濯物を外干しするにはまだ気温が足りない。除湿器をセットして家を後にする。
学校まで車を走らせながら、起きたことを聞いたがところどころ要を得ず、出来事のすべてを伝えられたのだろうか、と少し不安に思う。

それでも普段と変わらない様子には安心させられ、あとから怖さが来るかもよ、と言ってはみたものの、大したことないと高を括っているみたいだった。
よく聞くと、「追いかけたら捕まえられるんじゃないかと思って少し追ったけど、見失った」と言う。
平気のレベルが想像を超えていてどっと疲れた。

***

猫が眠り、古い除湿器の立てる機械音が響いている。
息子が区民プールに出かけ、娘は学校にいる。
家に帰りつくと、さっきまでの喧騒が嘘のように穏やかだ。
簡単にモップをかけただけの床の上にぺたりと座り、今日はこれからどうしようと考える。
正午を過ぎ、あっという間に時が経ったというのに、まだ今日という一日がこれからのようにも思える。

とりあえず、携帯電話の音量を最大にしよう。
考えるのはそれからだ。



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