祈りを手放さないための覚書

2019年7月18日午前。

京都市伏見区にある京都アニメーション「第一スタジオ」にガソリンと刃物を持った一人の男が立ち入り、建物に放火し、その結果33人の方が亡くなった。らしい。「らしい」と書くのは、まだ発生からほとんど時間が経過していないから、報道が込み入っていて、正確な情報は書けない、ということだ。それに、僕自身がこの事件に関するニュースを見ることができない。事件の情報を集めれば集めるほど、僕の心が悲しみに押しつぶされそうで、そのまま放っておけば心が壊れそうだった。だから報道の情報は意識的に今は見ないようにしている。

事件の詳細・背景などは、これから少しずつ明らかにされていくことを待つしかない。だから、この文章は事実ベースの事件についての情報にはならない。あくまで個人的な覚書で、それはまず第一に自分が落ち着くために書かれている。けれどできたら、この事件に悲しみの感情を激しく動かされた僕のような人たちに届けばいいと思うし、そう思いながら書いている。

この事件は戦後日本の犯罪史上に残るだろう。それが令和元年という、平成の次の時代の始まりに起きてしまったことは、偶然ではあるけれど、やはり悲しい。そしてまた、これは大きな文化的損失を意味する事件だ。この事件はきっと社会的政治的に大きな影響を与えることになる。そして同時に文化的にも大きな影響を与えるはずだ(アニメに疎遠でこの事件のイメージがはっきりしない人は、歴史ある美術館や博物館が、そこに居合わせた芸術家とともに焼き払われた、というイメージを浮かべてくれれば大体合っていると思う)。京都アニメーションという会社は素晴らしいアニメを制作し続けてきたクリエイター集団だ。その業績を一つ一つ書くことはしないけれど、いわゆるアニメファンの人々にとって、その名前は特別な意味を持つ。だから、国内外のアニメファンの悲しみは深い。こんなに深い悲しみを経験するのは人生で初めてという人も多いかもしれない。それは情報が明確でない現時点でもわかることだ。Twitterでは日本のファンも海外のファンも悲しみの言葉と、京都アニメーションを何らかの形で支援したいという言葉があふれている。

京都アニメーションは、アニメファンから愛されていた。そして、ファンにとって愛する人々が永遠に失われた。十代の青春期に京都アニメーションの作品に感動した人びとは、それを作り上げたクリエイターの顔も名前も知らなくても、大きな敬意をもっていたことだろう。それは愛と呼び変えてもいい。誰も口になんて出したことはないだろうけど、心の深いところで「京都アニメーションのスタッフのみんなが幸せでいてほしい」と願ったことはあるのではないだろうか。口に出さなくとも。愛する相手に抱く自然な感情として。そしていま、その願いが無残に理不尽に打ち砕かれた。僕を含めたファンの悲しみは、愛する者を永遠に失った悲しみだ。

この悲しみは巨大だ。簡単には消えない。長くひきずるに違いない。けれど、それは日常のなかで少しずつ目減りする。ゼロにはならないかもしれない。けれど、悲しみを生活のなかに馴染ませることは可能なはずだ。それは忘れることとも違っている。

社会学的文化的な考察や研究を今の時点で行うことは難しいだろう。ただ一つだけ言えるとしたら、日本のアニメ制作会社にテロ(この事件をテロと呼ぶべきなのかもまだ判然としないが、ひとまずそう呼ぶ)を仕掛けることで、日本だけでなく海外の人びとにまで深い悲しみを与えるという事実が判明したことは、恐ろしいことだと思ったということだけ書いておく。とはいえ、そんなことを書きたくて僕はこの文章を書き始めたわけではない。ただ僕は、いま自分の経験した悲しみを直視して言葉にしたかった。これはそれだけの文章だ。そしてできるなら、僕はいま祈りたいと思っている。

「支える」でも「願う」でもなく、祈る。

支援すること。アニメ制作の再開を願うこと。僕にはまだ、それはできない。もちろん僕もまた京都アニメーションの新作アニメが見れることを望んではいる。でも、仮に僕が当事者なら、苦楽をともにした同僚が数十人亡くなった職場・職業に復帰したいとは思えないかもしれない。別の職業に就くかもしれない。誰かがその選択をしたとしても、僕はそれでいいと思う。京都アニメーションという企業が今後どうなるのか、いまは誰にもわからない。だから僕には「今後の京都アニメーション」への支援の形はわからない。だけどその形がわかったら、どんな形であれ僕は支援をしたい。

いま、無力な僕にできることは、無力な僕にいま始められることは、祈ることだけのように思う。非論理的に聞こえるかもしれないが、僕は祈ることが、人びとの苦しみをほんの少し減らしてくれるような気がするのだ。だから、僕は祈るよ。

亡くなられた方のご冥福を祈る。被害者の方の無事を祈る。遺族の方の苦しみが少しでも和らいでくれることを祈る。国内外のアニメファンの人びとが、明日からの日常を悲しみに潰されずに過ごしてくれることを祈る。愛する者を失った苦しみが、人びとのなかから少しずつ目減りしていくことを祈る。

僕は祈るよ。そして明日も悲しみを生活に馴染ませながら生きるよ。




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