■ 20230803/猫とまがいもの
子どもは、思いもしないところで複雑で、期待したところでとても単純、という話を電話で母とした。毎日のように母に電話をかけてしまう。精神的自立が二十五になるまでのわたしの課題であるけれど、まだまだ難しい。
仕事場で子どもに、女なのに食いしんぼうだねと言われ、わたしはわたしだから食いしんぼうなだけなんだよと伝えた。仕事で子どものジェンダーバイアスに触れたとき、いちいち立ち止まって、子どもの言葉を否定しないように注意しながら、自分の意見を子どもに伝えようとする執拗さをわたしは捨てない。
固執すぎているかもしれないけれど、いつか、あなたのジェンダーバイアスがあなた自身を苦しめませんように、大切な人を傷つけたくはないあなたが、あなたの必死な固定観念で傷つけてしまいはしませんように、という願いよりも燃える思いがわたしにはあって、わたしがわたしの形をもたぬまま、あなたにとってのちいさなバイアスになればいいという過激な気持ちも頭のすみにあるのかもしれない。
だけど、あなたの真実がどうしてもあなたの真実であり、あなたをあなたたらしめているのならば、それをわたしに変えさせてはいけない、世界を放り投げて、あなただけにそう思ってしまう、一種の葛藤がときどき自分の中に生まれるのもまた事実だ。
仕事終わりに、行きつけの中華料理屋で炒飯と唐揚げと餃子を食べる。七月終わりから、おかあさんが韓国、おとうさんが中国にしばらく行っていたようで、そのお土産をいただいた。お腹いっぱいになって帰ってから昼寝する。一度、満足に眠れない夜があると数日睡眠負債がたまり、なかなか本調子に戻らない。わたくしの睡眠負債管理会社は利子をとりすぎである。
夕方に目覚め、散歩がてら近くの喫茶店にアフォガートを食べに行こうと家を出た。途中で、知らない家の窓、カーテンのすみに猫がいて、歩みを止めないまま見つめていたら、途中でそれが本物の猫ではなく置物であったことに気づいた。
なんだか、この世のどこかにきっとある恋や憧れが失われる過程みたいだと思った。本物だと思って見つめて、そうして生まれたたくさんの喜怒哀楽を抱えていたら、それが自分にとっての真実ではないのだと気がついたとき、本物だと思って見つめていたものは、どこにいくのだろう。まがいものだよすべて、そう断言する女の物語を書いてみたいと思った。
散歩途中で仕事で接している子どもたちに会う。かわいくて、仕事場で会うよりもちいさく見える。街にいるわたしとあなたのあいだに契約はなにひとつないからかもしれない。本当の大きさに戻ったのだと思った。
子どもたちと別れ、本屋で柳原恵津子の歌集「水張田の季節」をつい買ってしまう。頁をめくったときに、光っていたからだ。かぐや姫が竹に置き去りにされることがなかったくらいの必然に、喫茶店でアフォガートをスプーンですくって味わいながら、お金がないのに何をしているのやら、と遅れて呆れた。
お腹を壊しぎみなのに、夜もクリームソーダをつくって飲んだ。甘くて冷たくておいしい。
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