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旅が心に効く理由(移動がもたらす健康効果)

疲れたらどこか遠くへ

 観光における移動は、目的地に存在する魅力的な何かに近づくための行動と捉えがちですが、裏返せば、今いる場所を離れたり、そこから逃避する行動と捉えることもできます。

 『どこでもいいからどこかへ行きたい』の中でphaは、旅行の目的について次のように述べています。

 多分、僕が旅に求めているのは珍しい経験や素晴らしい体験ではなく、単なる日常からの距離だけなのだ。

 いる場所を変えるだけで考えることは変わる。特に家からの距離が重要で、同じように見える街でも家から1時間の場所と3時間の場所6時間の場所にいるのでは気分が違ってくる。物理的に遠くに離れれば離れるほど、普段自分が属している世界を客観視しやすくなる(pha, 2020)。

 アメリカ心理学会(通称APA)は、科学的に効果のある5つのストレス低減策(①ストレスの原因から離れる、②運動する、③笑顔と笑い、④サポートを得る、⑤瞑想)を提唱しています。その一つとして、ストレスの原因となるストレッサーから物理的に距離を置くことを推奨しています。その場を離れ、ストレッサーから一時的に逃避することで、問題に対して違う見方が出来たり、それを解決する方法を考えついたりするからです。つまり、場所が変わると視点が変わるということです。渦中にいては見えないものが、外から眺めることで、見えるようになるのです。

 ストレスの原因の一つとして、認知(ものの見方、捉え方)の歪みは、よく指摘されることです。その歪みの原因は、本人の偏った思考方法や考え方の癖によるところもあるのですが、実は、問題を近くで見過ぎているからなのかも知れません。近すぎるがゆえに、大局的に捉えることができないのです。

 このように、日常の生活環境から物理的に距離をとることは、日常となっている家事や仕事、その他の雑事から心理的にも離れることにつながります。このような心理的分離は、精神的疲労やストレス低減に関する注意回復理論や、リカバリー経験においても重要な因子と考えられています。

注意回復理論

 私たちが仕事や各種の作業を行う際は、意図的な注意の集中(選択的注意)が必要です。このような選択的注意は、私たちに精神的疲労をもたらすと考えられます。一方で、緑、水、雲などを眺めたりする場合は、注意を集中する努力は必要なく、ただ魅了されながら、ぼんやりと眺めるような注意(自動的注意)の状態です。

 Kaplan & Kaplan(1989)が提唱した注意回復理論(Attention Restoration Theory: ART)では、このような自動的注意の状態が、選択的注意による疲労回復をもたらすと考えられています。Kaplanらは、回復特性を有する環境の構成要素として、「逃避」、「広がり」、「魅了」、「適合性」の4つをあげています。それらは、次のような内容です。

「逃避」・・・日常の出来事から離れ、リラックスできた感じられる程度。心理的にも物理的にも日常からどれだけ分離できているか。
「魅了」・・・何かに心を奪われ、魅了される程度。興味を引きつけるような特徴がその環境にどれだけ含まれているか。
「広がり」・・・その環境の広がりや環境に含まれる要素が豊かであるか。環境から時間的、空間的な広がりの感覚が得られるか。
「適合性」・・・その人の意向や目的が環境と調和している程度。その人がとろうとしている行動に、その環境がどれだけ適しているか。

 注意回復理論にもとづくと、旅行によって、日常生活圏から物理的に離れることは、「逃避」につながり、旅先で出会う美しい自然風景や歴史的街並みは、観光者の心を引きつけ「魅了」するために、精神的疲労からの回復をもたらすといえるでしょう。

休息をもたらすリカバリー経験

 ストレス研究では、仕事後や休暇中の過ごし方が、ストレス軽減や疲労回復に影響することが明らかにされています。就業中のストレスフルな体験によって消耗した心理社会的資源をもとのレベルに回復させるための活動は、「リカバリー(回復)経験」と言われており、次の4つの側面で構成されています(Sonnentag & Fritz, 2007; Shimazu, Sonnentag, Kubota & Kawakami, 2012; 窪田・島津・川上, 2014)。

「心理的距離」・・・仕事から物理的にも精神的にも離れている状態であり、仕事のことや問題を考えない状態。
「リラックス」・・・心身の活動量を意図的に低減させている状態。
「熟達」・・・余暇時間での自己啓発(会社や職場の指示によらない自発的な勉強)の程度。
「コントロール」・・・余暇の時間にどのような過ごし方をするのか、自分自身で決めることができる程度。

 やはりここでも、仕事から物理的にも心理的にも離れることが、休息を生み出し、ストレスの軽減につながると考えられています。Chenら(2016)は、1139名のアメリカ人を対象としたインターネット調査で、直近の休暇旅行でのリカバリー経験について尋ねています。その結果、観光旅行におけるリカバリー経験の4因子(心理的距離、リラックス、熟達、コントロール)はいずれも人生満足度を高めることを明らかにしました。その中でも特に「リラックス」による影響が大きいということが報告されています。

そうは言っても旅行は疲れる?

 ここまで、日常生活圏からの移動が、精神的な疲労の回復や、ストレス軽減につながることを述べてきました。しかし、「旅行をすると逆に疲れるのでは?」という疑問もあるかと思います。たしかに、長距離の移動は身体的な疲労を蓄積しますし、敏感な人にとっては、環境の変化がストレッサーとなることもあるでしょう。しかし、そもそもストレス刺激そのものは、あくまでニュートラルなものなのです。それを本人がどのように捉えるかによって、意味が違ってくるのです。一般に、ストレスには、良いストレス(ユーストレス)と悪いストレス(ディストレス)があることが知られています。自ら好んで出掛ける観光旅行の場合は、自発的で主体的な行動ゆえ、ディストレスになりにくいと考えられます。

引用文献

American Psychological Association (2020) Five tips to help manage stress. https://www.apa.org/topics/manage-stress

Chen, C-C.,  Petrick, J. F., & Shahvali, M. (2016) Tourism experiences as a stress reliever: Examining the effects of tourism recovery experiences on life satisfaction.  Journal of Travel Research, 55(2), 150-160.

Kaplan, R., & Kaplan, S. (1989) The experience of nature: A psychological perspective. Cambridge University Press.

窪田和巳・島津明人・川上憲人 (2014) 日本人労働者におけるワーカホリズムおよびワーク・エンゲイジメントとリカバリー経験との関連 行動医学研究, 20, 69-76. 

pha (2020)  どこでもいいからどこかへ行きたい 幻冬舎

Shimazu, A., Sonnentag, S., Kubota, K., & Kawakami, N. (2012) Validation of the Japanese version of Recovery Experience Questionnaire. Journal of Occupational Health, 54, 196-205.

Sonnentag, S., & Fritz, C. (2007) The Recovery Experience Questionnaire: Development and Validation of a Measure for Assessing Recuperation and Unwinding From Work. Journal of Occupational Health Psychology, 12(3), 204-221.