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旅は心を癒す?(ヘルスツーリズム)

心を癒す観光

 メンタルヘルスとは、心の健康や精神的健康のことです。WHO(世界保健機関) は、 メンタルヘルスを次のように定義しています。

 Mental health is a state of well-being in which the individual realizes his or her own abilities, can cope with the normal stresses of life, can work productively and fruitfully, and is able to make a contribution to his or her community.(World Health Organization, 2004)
 メンタルヘルスとは、個人が、日常的な生活ストレスへの対処、生産的な労働、地域社会への貢献が可能だと感じられるような良好な状態。

 メンタルヘルスの不調は、精神障害や自殺、ストレスや強い悩み、不安など、その人の心身の健康や生活の質に悪影響を及ぼすことにつながります(厚生労働省, 2017)。そのため、健全な社会生活を送る上ではメンタルヘルスを回復させたり、向上させたりするための活動が欠かせません。

 観光には日々の生活でゆがんだり、すり減ったりした心を癒す効果が期待されています。小口(2009)は人の心を癒すことを目的としたメンタルヘルス・ツーリズムには、①主体性・自律性の獲得による人間性の回復、②主体的な活動を通した時間感覚の回復、③地域の人との交流の機会を持ったりすることによる新たな所属集団・アイデンティティの獲得が期待できるとしています。

ヘルスツーリズムの定義

 心身の健康を回復・維持・増進することを目的に行われる旅行は、ヘルスツーリズムと呼ばれています。学術的には、以下のようにいくつかの定義がなされています。

 自然豊かな地域を訪れ、そこにある自然、温泉や身体に優しい料理を味わい、心身ともに癒され、健康を回復・増進・保持する新しい観光形態であり、医療に近いものからレジャーに近いものまで様々なものが含まれる(観光庁, 2010)。
 自己の自由裁量時間の中で、日常生活圏を離れて、主として特定地域に滞在し、医科学的な根拠に基づく健康回復・維持・増進につながり、かつ、楽しみの要素がある非日常的な体験、あるいは異日常的な体験を行い、必ず居住地に帰ってくる活動(日本観光協会, 2007)。
 健康・未病・病気の方、また老人・成人から子供まですべての人々に対し、科学的根拠に基づく健康増進(Evidence Based Health)を理念に、旅をきっかけに健康増進・維持・回復・疾病予防に寄与するもの(日本ヘルスツーリズム振興協会)。

 これらの定義を踏まえた上で、木村(2014)や竹田(2019)は、ヘルスツーリズムを構成する3つの要素を指摘しています。それらは、「治療・回復や健康増進という目的」、「その目的を満たすのに有効な自然資源の利用」、「健康に関連した施設およびサービスの活用」です。

ヘルスツーリズムのタイプ

 日本観光協会(2007)による『ヘルスツーリズムの推進に向けて:ヘルスツーリズムに関する調査報告書』では、ヘルスツーリズムの基本タイプが次のように分類されています。

1.温泉療法・・・温泉の効能利用を中心にしたもの。医学的な温泉療法ばかりでなく、温泉浴による心身のリラックス効能も含む
2.森林療法・・・森林の「癒し効果」に着目し、森林でのレクリエーション活動(森林浴など)をベースとして、リハビリ、カウンセリングなど多様な医療活動のメニューを盛り込んだもの
3.タラソテラピー(海洋療法)・・・海水や海藻、海泥などの様々な海洋資源を活用し、身体機能の向上を図るもの
4.気候療法・・・アレルギー要因となる物質(スギ花粉など)から回避(逃避)することで、免疫バランスを是正するもの
5.アニマルセラピー(イルカ療法含む)・・・動物の持つ癒しの力によって健康増進や病気の治療等を図るもの
6.食事療法・・・健康によい食物の摂食プログラムによるもの、断食による老廃物排除など
7.健康増進プログラム(スポーツ、健康体操を含む)・・・健康増進のためのセミナー受講や運動、睡眠などのプログラムの実施によるもの
8.脳トレツアー・・・温泉浴や自然探勝、手づくり体験、体操などのプログラムを取り入れながら脳をトレーニングし、活性化させるもの
9.地域交流体験・・・地域の人々との交流や自然・歴史・文化資源(農業体験、祭り、郷土料理など)との体験学習を通じたもの。グリーンツーリズムやエコツーリズムなど
10.人間ドック(PET検診除く)・・・PETを用いない普通の健康診断を旅行とパッケージにして行うもの
11.PET検診・・・PETを用いたガン検診を温泉地などへの旅行とパッケージにして行うもの

ヘルスツーリズムの科学的検証

 ヘルスツーリズムは、健康の回復・維持・増進が目的ですので、科学的な根拠や裏づけが求められます。これまで、ヘルスツーリズムの健康効果については、心理学的アプローチをはじめ、生理学や医学の領域においても検証されています(詳しくは、竹田(2019)を参照)。

 牧野ら(2008)は、大阪発西九州方面の2泊3日の添乗員付きツアーへの女性参加者を対象にした研究を行っています。旅行2日前、旅行1日目、2日目、3日目、旅行2日後の各1日3回(朝昼夜)において、唾液中のストレス物質(ポジティブストレスとしてのクロモグラニンAと、ネガティブストレスとしてのコルチゾール)の測定と、質問紙によるストレス評価(タイプA行動様式、健康習慣、ライフイベント、日常いらだち事、抑うつ度、健康度)を行いました。分析の結果、コルチゾールに関しては、統計的な有意差は認められませんでしたが、クロモグラニンに関しては、旅行中での上昇傾向が認められています。

 牧野ら(2010)は、温泉地での7泊8日の滞在客を対象とした研究も行っています。唾液を、旅行2日前、旅行1~8日目、旅行2日後のそれぞれ起床時に採取・測定した結果、日常的にストレス量の大きい人(群)では、滞在中にコルチゾールの下降傾向がみられ、クロモグラニンA については、滞在の途中段階までは上昇し、その段階を過ぎると下降する傾向がみられました。

 川久保と小口(2015)は、ある企業の従業員を対象に1泊2日の短期旅行が精神的健康に及ぼす心理的効果について検証しています。参加者は、宿泊施設で森林浴やヨガなど2日間で6時間のプログラムに参加し、旅行直前、旅行直後、一週間後に質問紙調査(気分評定、主観的幸福感、職業性ストレス、抑うつ度、睡眠の質)に回答しました(メンタルヘルス・ツーリズム群)。メンタルヘルス・ツーリズム群との比較のために、ストレス対処法に関する教育研修を集団で受講した研修群、調査の趣旨説明のみを受けた対照群も設定されました。研究の結果、メンタルヘルス・ツーリズム群では、旅行直後のポジティブ感情が有意に増加し、ストレス得点が有意に減少していました。ただし、1週間後には、その効果は消失していたことが報告されています。

 ヘルスツーリズムの科学的検証はまだはじまったばかりですので、健康効果に関する十分な根拠が得られているとは言い難い現状です。今後のさらなる検証が待たれるところです。

 仮に、ヘルスツーリズムの健康(心理)効果が科学的に認められたならば、その効果は何によるものなのでしょうか。言い換えれば、行き先、同行者、活動内容、期間などの組み合わせで構成される観光旅行のどの要素が健康効果をもたらすのでしょう。先にあげたように、ヘルスツーリズムにはさまざまなタイプがあります。健康効果が単に温泉浴や森林浴によるものや、親しい人と体験をともにする社会的な要因によって得られるのであれば、あえて「ヘルスツーリズム」とツーリズムの名を冠して呼称することも無いようにも思います。

 はたしてヘルスツーリズムには、旅行すること自体による効果や、旅行に温泉や森林を組み合わせることによる効果はあるのでしょうか?残念ながら、これについては、科学的な合意が得られた答えは今のところ見当たりません。あくまで仮説に過ぎませんが、ヘルスツーリズムが私たちの心を癒すのには、旅先での温泉浴や森林浴といった活動よりも、日常生活圏から離れるということが実は大きく影響しているように思われます。その理由については稿を改めて考えてみたいと思います。

引用文献

観光庁 (2010) ニューツーリズム旅行商品 創出・流通促進 ポイント集 https://www.mlit.go.jp/common/000114212.pdf 

川久保惇・小口孝司 (2015) メンタルヘルス・ツーリズムとしての短期旅行が従業員の精神的健康に及ぼす影響 日本国際観光学会論文集, 22, 179-185.

木村朗 (2014) ヘルスツーリズム(Health Tourism)に関する保健医療職のシーズについて 群馬パース大学紀要, 17, 71-80.

厚生労働省 (2017) 職場における心の健康づくり―労働者の心の健康の保持増進のための指針 https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11300000-Roudoukijunkyokuanzeneiseibu/0000153859.pdf

牧野博明・戸田雅裕・小林英俊・森本兼曩 (2008) 旅行のストレス低減効果に関する精神神経内分泌学的研究 観光研究, 19(2), 9-18.

牧野博明・戸田雅裕・小林英俊・森本兼曩 (2010) 温泉地での長期滞在によるストレス低減効果の検証及び短期ツアーとの比較 観光研究, 21(2), 31-39.

日本ヘルスツーリズム振興協会 ヘルスツーリズムとは https://www.npo-healthtourism.or.jp/about/

日本観光協会 (2007) 『ヘルスツーリズムの推進に向けて : ヘルスツーリズムに関する調査報告書』 日本観光協会

小口孝司 (2009) メンタルヘルス・ツーリズム―心を軽くする旅― 日本観光研究学会全国大会学術論文集, 24, 321-324.

竹田明弘 (2019) わが国におけるヘルスツーリズム研究の現状と課題 観光学(和歌山大学観光学部紀要), 21, 35-44.

World Health Organization(2004)Promoting mental health : concepts,     emerging evidence, practice Geneva: World Health Organization.