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『特別な人』になりたかった幼少期の話〜あの頃の私に伝えたいこと〜

こんにちは。葉です。
今夜は仕事でもなく最近の出来事でもなく、今思うことを書いてみたいと思います。
まだまだ書き始めだばかりのnote。
方向性が定まっていないからこそ、色々書いてみます。

私は小さい頃から『特別な人』になりたいと願う子どもだった。
集団の中で1番になる人。何かしらの突出した特技や個性があって、「すごいね!」と周りから言ってもらえる人。

そんな人になりたいと願う私は、小学校時代は勉強も運動もよく頑張っていた。
平々凡々のくせに子役オーディションまで受け、自分の中にあるかもしれない『なにか特別な力』『すごいと思ってもらえる力』を子どもながらに必死に探していたのだ。

自分には何もないと気がついたのは、小学校4年生に転校してからだ。小学校生活の後半〜中学生になった頃。文章に書き起こすのは心苦しいと思うくらいに、人間関係も勉強も、上手くいかなくなってしまったのだ。
幸い学校には通えていたものの、なんともったいない3年間を過ごしたのだろう、もっと色んな解決方法があったはずなんだよと、あの頃の私に伝えたくなる。

中学の同級生が誰ひとりいない高校生活が始まったことで、少しずつ人間関係も変わり始めた。平凡なりに色々あったけれど大学まで卒業し、保育士としてなんとか仕事も続けることが出来ている。

そんな私も今年で31歳。
あれだけ願っていた特別な力なんてものは何ひとつ開花せず、ごく普通の会社員(保育士)として実に平凡な生活を送っている。

保育士としてたくさんの子どもたちと日々接する中で、ふと、あの時の感情はなんだったのだろうかと思い出すことがある。
どうにかして特別な力が欲しい。1番ですごいと言われたい。可愛いねとかかっこいいねとか、そういう褒め言葉がたくさん欲しい。
そんなことを持っていた感覚が、今でも残っているのだ。

子ども時代の話とはいえ、どうしてここまで他人からの評価を絶対としていたのだろうか。
決して両親から認めてもらえないとか、兄弟で極端に比べられてきたとか、そんなことはなく沢山の愛情を注いでもらったと今でも感じている。
やりたいこともやらせてもらっていた。

なのにどうして?

それは多分、『周りの人からの評価が自分の価値』だと思っていたからだろう。人に褒められたことが『すごいこと』であり、『私の魅力』だと思っていたのだ。

足が速くてすごいね、算数の計算が速くてすごいね、笑うと可愛いね。

大人から放たれるそんな言葉が、子どもにとっては自分の全てなのだ。

確かに当時の私が頑張っていたことであり、子どもながらにそれなりの結果を残していたことだったので、褒めてもらえることが自分の自信に繋がっていたのは確かである。

ただ徐々に、かけっこでも計算でも『速い』のレベルには上の上のがいること、『可愛い』というのは顔も体型も性格もたくさんの人から評価されないと、そう認定してもらえないこと。
転校先で、自分以上の『すごい子』が世の中わんさかいると気づいてから、自分は大した人間ではなかったのだと感じてしまったのだ。

足が速くてすごい、ではなく
『足が速くなりたいから一生懸命練習をしていることがすごいね』
算数の計算が速くてすごい、ではなく
『計算問題を繰り返し集中して、難しくても諦めないところがすごいね』
笑うと可愛いね、ではなく
『○○を見て楽しそうにしている葉ちゃんの笑顔が素敵だね』

こんなふうに言われていたら、何か違っていたのだろうか。

人は完璧ではない。
完璧に見える人にも悩みはあるし、欠点もあるし、気分が落ち込むこともある。
社会人となって仕事をする中で、たくさんの人に叱られ、たくさんの人に褒められ、感謝したし、感謝されてきた。

自分は自分で良いのだと、今ならあの頃の私に伝えられそうだ。

子どもには子どもの悩みがあるけれど、大人にも大人の悩みがある。
そしてそれは、自分だけでなく、誰しも見えないように隠しながら抱えて生きているのだと思う。
そして人が持っていて輝いて見えるものを自分が手に入れても、同じように輝かないこともあるのだ。

あなたはあなたらしく、好きなことをすればいい。
それを見守ってくれる人たちに感謝の心を忘れずに。

ずっと母が伝え続けてくれたのに、気がつくのが遅くてごめんね。
『特別な人になりたかったあの頃の私』に出会うことができたのなら、ぎゅっと抱きしめ、笑顔いっぱいに、同じことを伝えてあげたいなと思う。






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