見出し画像

きみの「幸せ」を、僕は定義したくない

なんだこの小説の題名にありそうなタイトルは。こんなタイトルつけて駄文をつらつら書き綴ろうと思ったけど、これで小説を書くのもありなんじゃないか、なんて思った。あとこの記事は数日に渡って書いていたから内容的な被りとか飛びがあるかもしれないけどそこはご了承くださいませ。

余談と注意書きはさておき。

「きみ」っていうのは勿論"むこう"のことで。

「むこう」っていうのは所謂"彼女"のことで。

前にツイッターで話したけど、うちはむこうのことを彼女呼びするのが嫌い。たまに付き合っている相手のことを"あいつ"っていう人いるけど、自分の中ではあいつ呼びも彼女呼びも同じ感じがしてしまう。なんだか相手のことを見下しているみたいで凄くいやだ。だから自分は誰かとの会話で相手のことを指すときいつも"むこう"で表してる。どこか場所を指しているわけじゃないよ。

そもそも、自分の中での感覚としては、むこうのことはずっとあくまで「好きな人」だと思ってる。彼女っていうより、そっちのほうが相応しい気がする。もちろん中3の時にちゃんと(?)告白してお互い同意の上でずっと付き合っているから、関係性を表す言葉として「彼女」のほうが正しいんだろうけど。

「付き合う」っていう関係性になると、少し思い上がってしまうことがある。恋人同士は手をつなぐのは普通のことだとか、少し距離が近くなるのだって当然だとか。

うちは小学生ぐらいの頃から恋バナとかは好きだったし、ラブコメ的なものは多少見ていたから、付き合ったら毎日会って、お互いのことは下の名前で呼び合って、会うたびに手をつないだり、たまにハグしたりとかするのが普通なんだろうなと思っていた。多分これを読んでいる人の中には同じように思っている人が多いと思う。

でも実際にはちょっと違って。そりゃ何でもかんでもラブコメ通りじゃないっていうのは当たり前だけど、むこうとの場合はちょっと特殊(?)だった。むこうはパーソナルスペースがかなり広い人で、(今は多分多少平気になっているんだと思うけど)女子同士だとしてもあまり自分に触れられるのが好きではなかったらしい。そもそもむこうはあまりラブコメとか、恋愛への興味がほとんど全くない。だから手をつなぐこととか、そういうことに特に憧れがあるわけでもなく、なんなら結構感情がさっぱりしている人だから「嫌なものは嫌」という感じ。だから最初のころは特に、「好きな人が相手だから特別」みたいなことはあまりない(多分)。

最初はそのことを知らず気づかなかったけど、少ししてから気付いた。その時に、自分にとっては普通だと思っていたことがむこうにとっては少し負担になっていたかもしれないということに初めて気付いた。

自分にとっては嬉しいことも、むこうにとっては少し苦手なことだったりするわけで。もしかしたら自分がむこうを傷つけているかもしれないわけで。

自分が今でもむこうのことを「好きな人」と思うのはきっとそういうことに対して自分への戒めがあるんだと思う。「恋人同士だからむこうにとって苦手なことでも多少は許してくれるだろう」みたいな、少し身勝手な考えを相手に押し付けるのが嫌だから。むこうにとっての「幸せ」を、うちは定義したくない。

高校はお互い別々のところに行った。むこうは隣町に引っ越した。隣町だから、別に電車で数十分移動すれば会える距離だったけど、お互い予定が合わなかったりで会う頻度は数か月に1度ぐらいだった。会えなかった分、久々に会ったらその時に溜めてた寂しさが全部こぼれそうになる。けど別にむこうはあんまり寂しさを感じない人だから、こっちからむこうに甘えるのもなんか憚られるわけで。こっちがむこうにくっついてむこうが少し嫌な気持ちになるくらいなら、こっちが寂しさを我慢するほうがマシ。傍らから見たら悲しいことなのかもしれないけれど、うちはこれで充分幸せだって言える。

以前、友人(女子)に「手繋いだりハグしたいならしたらいいんじゃない、付き合ってるんだったらそこまで遠慮する必要ないんじゃない?」と言われた。別の友人(男子)には「寂しいって思うなら存分に甘えた方がいいんじゃない?自分の心が壊れちゃう前にさ」と言われた。確かにその通りなのかもしれない。けど、今の状態だってうちは満足しているし、そうしてきたからこそむこうは他の人に対しては拒否することもうちに対しては多少許してくれてるんだと思う。今の状態が幸せだって言える自分は既に壊れているのかもしれない。

なんにせよ。

うちは今の状態でいい。自分が臆病なだけなのかもしれないけど、むこうにとってうちの存在が少しでも心地いいものになるのならそれ以上のことは望まない。


むこうの幸せを、うちは定義したくない