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2024.3.23 藤井佯さんへ

藤井佯さんへ

今日は日付がモジモジしていますね。

お手紙を読み返して気がついたのですが、私が引いてきたのは前々回のお手紙の内容でした。記憶が混濁している…
「そのなかでも小説はなんでもできるので好きです。(中略)だからその次に好きなのは詩ですね。詩もわりとなんでもできるので。」の部分を読んで、私には詩の方が自由なように見えていたので意外に思った、という文脈です。少し思ったのは、詩はより無意識や感覚の部分に語りかけ働きかけるものであるがゆえにそれらに強く縛りを受けるのかな、と。目に見えず、姿を捉えられないものに縛られているのでイメージするよりも実は不自由なのかもと考えました。詩のことを考えたくて、輪郭を探るところから始めたのですがそもそも輪郭によって切り取れるものではなく、すぐに分別しようとするのは私の悪い癖です。まだまだ詩を読み足りないのだということも感じていて、葉ね文庫さんで購入した本もじわじわと読み進め、詩の呼吸に身体を慣らしたいと思っています。新しい文法を前に気が急くような、前のめりになっているのを感じるので何かを見落とさないよう落ち着かねばとも思います。
詩といえば、藤井さんが先日投稿されていた「春」が好きで、私も春というものに対して似た感情を抱いていると思い、勝手ながら、無意識同士でそっと相席できたような気持ちになりました。詩の素敵さというのはそういったささやかな交流でもあり、またそれとは全く別の地点もまた詩で、考えるほどに深みに嵌っていくように感じます。そもそも「詩」というものが先なのではなく、生まれたそれを「詩」と呼ぶことにしているという話なので正体を探ること自体がナンセンスとも思いますが、ナンセンスで何が悪い、と胎界主第2部を反芻しながら思います。

なるほど、すっと腑に落ちました。それなら理解できます、確かにその文脈での「あなた」にどうにかされるというのはかなり居心地が悪く、不愉快に感じます。私の文脈では、あなたというのは大きな波、流れの先頭に立つものであると同時に流れ全体も含みます。ピュアとその流れ全体を指してピュアである、と言っているイメージです。あるいは、うねりに乗ってあなた(このあなたは個を指します)が来た、ということに喜びを感じるのかもしれません。うねりの中から個を見出しそこに感慨を覚えるのは、先日の手紙に書いた鳥の群れに恐怖を覚える感覚と通じているのではとふと思いました。

「本って読めない人は本当に読めないんだな」、漫画を描いていた頃に何度も抱いた絶望や諦め軽蔑断絶そのもので、伝えるなんて綺麗事じゃないか、受け取る側の窓口がそもそも閉じているのだから、その上閉じていることを自覚していないのだから…と思ってしまいました。伝えることを放棄するのは創作者としての責任を放棄することだと思うのですが、そうは言っても、と思ってしまうのが現状です。誠実でありたいが、難しい。

先のあなたについての認識を踏まえて、確かにピュアと藤井さんには共通するものがあるなと感じます。第2部はピュアが話すたびに反発していたのですが、「命だけは助けてやってくれ」やハオウが今後もピュアについて行くと言ったのを見てよかった、と思ったのでどうにも憎みきれません。私も第3部は悪魔たちのことばかり考えていて、純子についてはもう少し時間をください、という気持ちです。

感覚ミュージアムはレポ漫画を読んで知ったのですが、かなり不思議な体験ができそうで楽しみにしています。カリンバって良いですよね。
このあたりもまだまだ寒いので仙台はなおさらだろうと思います。せり鍋を食べるのにはちょうど良いかも知れません。

ここしばらく天候も荒れがちで、どうにもなあといったところです。先週、先々週はほとんど布団の中で過ごしたのですが、ようやく起き上がれるようになってきました。もっと凪のような季節はないのかと常々思っています。ままならない日々ですが、お互い穏やかに過ごせますように。

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