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本の感想/『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』

小さい頃はずっと絵本を読んでいて、学校では図書館に入り浸り、いつも貸出制限限界まで本を借りていた。
それが、いつからか本を読まなくなった。読めなくなった、という方が感覚的には近いが、なんだか本から離れた言い訳みたいで嫌なので読まなくなった、と書く。
本を読むのに、ものすごくエネルギーを必要とするようになった。というか、もしかすると元々そのくらいのエネルギーを使っていたのだが、全体のエネルギー量が減ったことで「こんなにコストかかってたの!?」と気がついただけなのかもしれない。詳細は不明だが、とにかく文字を負えなくなり、必然的に本も読まなくなった。

それが何のきっかけか、本を読みたいな〜とふと思った。今年の3月頃だったと思う。
今まであった、本と向き合うことに対する肩肘を張ったような気疲れ(と、気後れ)もあまり感じなかった。今なら読めるかも〜、と思い、手始めにずっと手元にあった『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』(品田遊)を読むことにした。

品田遊さんの小説に興味があったのと、反出生主義についてぼんやりとは考えたことがあるけれどあまりきちんとは理解できていないな〜と思っていたのとがあって購入したような記憶がある。

この小説は少し特殊で、まず左始まりの横書き。そして、登場人物たちの会話形式で物語が進んでいく。
よくある右始まりの縦書き、主に地の文で展開していく小説よりも読みやすいのでは?と思い、これを読むことにした。というのもあるし、純粋に内容に興味があったというのもある。反出生主義について考えたかったのだ。

反出生主義と言えば、中高生の頃一番仲の良かった友人が反出生主義だった。当時の私は「自分が産まない、というのは分かるけどそれを他の人間にも求めるのは妙じゃないか?その人の勝手では?」としか思えず、今思うと友人にとっては「そうじゃないんだ」という感じだっただろうなと思う。
上で言っている「その人の勝手」というのは、「人には勝手に子どもを産み、それを幸福にしたり不幸にしたりする“自由”がある(あってしまう)」という意味だ。この文脈での“自由”はポジティブな意味だけでなく、ネガティブな意味も含む。つまり、そんなこともできてしまう、という意味。人には、人を殺す“自由”もあってしまうわけなので。(当然、それを行使して良いか、行使したらどうなるかと言うことは全くの別問題)

こうして小説を読み始め、反出生主義についての理解も以前よりは深まっていった(「ブラック」という反出生主義の人物の発言量がとても多いので、おのずと反出生主義の主張をよく知ることになるのだ)のだが、それでもやはり反出生主義に賛同はできなかった。

「ブラック」は道徳的観点から反出生主義を唱えるが、それを見ていると何だか壮大な詐欺にかけられているかのような気分になるのだ。確かに理屈の上ではそんな気もするけれど、何かおかしくないか?という気持ちになる。
実際、小説内の人物たちもそのようなことを言っていたが、それらの意見はブラックに「感情論を言われては困る、論理的に話せ」と一刀両断される。
私自身も普段、議論の場で感情論を持ち出されると「え!?それってあなたの感想ですよね!?」と思うタイプなので、確かにそうなのだが…そうなのだが……。

と思いながら読み進めていると、ほとんど終わりかけの頃に、突然流れが変わった。
今までほとんど議論に参加せず、各人の主義が列挙されているページでも「?主義」とされていた人物「シルバー」が、口を開いたのである。

彼は、「この世界に存在するのは“僕”だけさ」と主張した。自分が認識できるのは、今現に自覚している“この私”だけ。心理学か何かでそういう王様の話を聞いたことがあるような気がする(自分以外の人間には、自分にとっての“この私”にあたるものがないと考えていた王様の話…だったような気がするが、曖昧な記憶であまり自信はない)

シルバーの話はなんだか狐につままれるようで、今までの長々とした議論がばからしく思えるものだった。(というか、小説を読みながらどこかでそのような感情を抱いていたのが、シルバーの発言によって顕在化したのかもしれない)
そして、この小説自体も、そのような流れのままに終わる。いともあっけなく、今まで散々丁重に扱ってきたロウソクの炎に、何の情緒もなくふっと息を吹きかけて消してしまうようにして。

それが痛快で、何よりも「そうだよな」と思った。途中書いたように、「人には人を殺す“自由”が“あってしまう”」のだ。同様に、大切だったロウソクの炎を突然消してしまう自由も、ある。

その“自由”を行使すること自体ではなく、“行使できてしまう”ということを改めて証明された、見せつけられたことがとても嬉しかった。…ように思う。

人は自由で、そして“自由”というのは万能の、魔法の言葉ではない。自由だからこそ自律せねばならないし、“自由”という言葉はその範囲の言動を保証してくれるものでもない。
ただできますよ、というだけで、私たちは普段、目の前の相手を害する自由を持ちながら、それを行使することなく生きている。

“自由”が好きだ。ふわふわとして頼りなくて、大きな危険を含み、どこまでも行ける。


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