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2024.3.8 藤井佯さんへ

藤井佯さんへ

お名前を入力する際、いつも「よう」からの変換だとなかなか見つからないので「いつわる」から変換して送り仮名を削除し「藤井佯さん」としているのですが、名前を「いつわるさん」と入力するのはなんだか悪いような面白いような気持ちになります。

藤井さんが以前ツイートされていた「ぶんぶくちゃがま(友人とすると良いとされること)」がまさに言い得て妙だと思い気に入っているのですが、ちゃ、がま、ぶんぶく の順に共有する難易度が高く、また本質的な重要度、求めている度合いも高くなるように感じます。私も今現在「ぶんぶく」部分を共有できる相手は身近にはおらず、特に「ぶん」、そういった話をストレスなくできる相手をぼんやりと求め続けています。そう都合の良い存在などいません、とも思いますがある程度都合が悪くとも人と「ぶんぶく」したいものです。
このお手紙は私にとってある種の「ぶん」欲を満たしてくれるものであり、また私にとって藤井さんは「ぶん」の人なので嬉しく、ありがたく思っています。

戯曲キャンプ、お話を聞けば聞くほど「羨ましい」という感想ばかりが出てきます。その場にいる全員が抽象的なことを考えることに対して積極的であり、話が通じ、互いを創作者として認めあっているという場はあまりにも恵まれていて、素晴らしいものですよね。私にとって学校という場は、ある部分でそれを担っていた(担うのが理想である)のかなと思いました。思考し、言葉を交わし、認め合うという点でです。学校を出て世界に放逐された今、そのような場をどうやって探せば良いのだろうということをずっと考えています。新しい世界に向けてアンテナを張るのが苦手なのだと思います。

課題、悩んでおられた、初めてした会話についてでしょうか?
「自分が戯曲の形式であると思っていたものは非常に狭義なものであった」、もし良ければ詳しくお聞きしたいです。私も戯曲については詳しくないのですが、関心はあります。演劇、舞台も漫画と同じく地の文のない表現という点で少し親近感を抱いています。時間/瞬間の切り取り方は漫画と小説が近いように思うのですが、世界の見せ方、理解させる方法は漫画と舞台、あるいは映画が近いですよね。見せてわからせる。それぞれの手法ごとの相違点や共通点、それを選ぶことのメリットデメリット、その手法を選ぶ意義や必然性についてよく考えます。私が創作の手法として漫画を選ぶのは、「伝えたい」よりも「わかってほしい、いや、わかれ」あるいは「これがわからないのなら、もうわかってもらわなくて良い」というような気持ちが強いからだと自己解釈しています。小説もほんの少し書くのですが、地の文がどうしても苦手で。説明するのが苦手なんですよね、これは本当に必要か?面白くないだろう説明なんて、と思ってしまって。
藤井さんは小説の人ですよね。藤井さんはなぜ小説なのか、お聞きしてみたいです。あるいは藤井さんがそれをどう語るのかということ自体に興味があります。

そうですね、戯曲キャンプのあたりからお元気そうな様子をみて他人ながらぼんやりとよかった〜と思っていました。結局何をするにも活力が必要で、元気がないと活力は生まれないんですよね。故郷喪失アンソロジーの公募締切まであと一週間ちょっとでしょうか。良いものになることを祈っています。藤井さんにとってそれが必要である以上、わざわざ祈らずとも良いものになるだろうとも思います。

「方位は正しい、だが距離までは知れない」、あまりに気が遠く、希望と絶望が同居していて、ものすごく力をもった一文ですね。胎界主は本当に、力をもった文章やコマが多いと感じます。凄まじい漫画すぎる…。
私は「方位は正しい、だが距離までは知れない」道のりをただ歩み続けることができる人のことが好きなのかもしれません。現実、創作問わず。ある種の愚直さや諦観のようなものと、そして希望を見ます。バラムも凡蔵稀男さんもこれに当てはまるように勝手ながら思います。

同じく継続して物事を進めるのが苦手なので、軽率にもわかります、と言いたくなりました。つい先日も溜めていたメイン更新分を一気に進めたところです。自分のペースでやるのが続ける上で一番だよなと思うのでメギドに関して無理はしないようにしています。メギドはやめたくないのです。

『運命綺譚』、気になったので購入しました。

表紙が美しく、うれしくなりました。文庫サイズなのもありがたいです。
線と面というを見て、川には流れがあるから好きなのかなと思いました。前回の手紙で秩序と書いた部分の言い換えかもしれません。海に対してどこか停滞した、濁って重たく息苦しいような印象をもっています。べたつくこともあり、海は苦手です。川はさらっとしていますよね。特に上流の方が好きです。苛烈で無駄や怠惰を許さない。激しい流れの中で同じ位置を保ち続ける魚に美しさを感じます。ただ、上流の川は厳しさゆえに人として付き合うのは難しい(危険が伴う)ので、人の身としては下流の方の、幅の広い川も好みます。仰る通り、河川敷は良い場所ですよね。秩序(川の流れ)が敷かれた上での自由さ、息のしやすさを感じます。

鳥の群れに対して、少し恐ろしさのようなものを感じます。一斉に飛び立つ鳩の群れや、地面に落ちた何かを啄む雀の群れなど。イワシの魚群にも恐れを抱くのですが、群れて一見ひとつの塊のように見えるそれば実際は全くそうではなく、粒だったひとつひとつの膨大な集まりであることが恐ろしいのかもしれません。特に地面に降りた雀の群れは個の集まりであると強く認識します。それらの恐ろしさは、同時にうれしさも含みます。

凡蔵稀男さんの顔を布で再現する上で、既に面に変換されたものがあるのはとてもありがたいことでした。絵は線ですがぬいぐるみは面であり、表現を変換する必要があるので…。私は刺繍で面を埋める作業が苦手で、なので私の凡蔵稀男さんぬいぐるみの顔は刺繍ではなくフェルトでできています。刺繍だと糸がキラキラするのが素敵ですね。
藤井さんの凡蔵稀男さんぬいぐるみは、服ごとに素材が違いますよね。こだわりが感じられて素敵だなと思いました。私はとにかく急を要したので、家にあった材料でやりくりしました。白いふわふわの布が残りわずかだったのでぎりぎり助かりました。

そうですね、私も人間みの濃いものほど多くの人に好かれ、流行り、多く生み出されているように感じます。その中で人間みの薄いものを世に放ってくださる存在は希少でありがたく、出会うとうれしくなります。是非追求していただけたらうれしいと、勝手ながら思います。
“私”とは、最も身近な他者であると感じます。私が他者なら他者もまた私であり、それとはまた少し別の話ですが私も自他境界を引くのが苦手です。私にとって世界は「私」と「あなた」のみで表されます、なので「あなた」によって大いに傷つけられ、あるいは喜びを与えられうるのだと思います。
書いていて、藤井さんが仰っている全ては繋がっているがゆえに個々の部分を取り出す意味が薄く、結果個が薄れていくということと反対のことを考えているように思いました。私は、全ては繋がっているがゆえにそこから派生したそれぞれ異なる部分、個の部分を照らし合わせてみたいのだと思います。

不親切な漫画ですが、遅ればせながらあらすじを申しますと不定期に敵からの襲撃がある世界で、骨が不意に身体がバラバラになるという原因不明の病にかかります。組み立てれば一時的には治るのですがまた崩れる、そしてその周期が段々と短くなっている。触角は医者として病の原因を探りながら、骨の病のことは本人の意思を汲んで他の者たちには秘匿する。けれど皆に知らせてしまい、なぜ教えてくれなかったのかと責められる。医者はただ治療のみをする存在ではなく、患者に寄り添う者であると触角は主張する。そんな中、病の根本的な治療法はおろか原因すら特定できず憔悴していく触角を見かねた翅は、自分の身体を使って原因を特定する。ふとしたことで触角は翅が自身で人体実験をしていたことに気づき、傷つき怒りを露わにする。翅は自分の片手と、治療法の確立に役立ててくれという書置きを残して自ら敵に食われてしまう。残された触角は医者としての役目を捨て、自らも翅の後を追う。というものでした。触角の手袋や白衣に“医者”という概念を背負わせています。私は漫画的表現を心底愛しています。惚れ込んでもいます。

鳩アンソロジーは、気ままに読みたいと思っています。鳩の本なので。表紙が美しい本ですね。

シンポジウムは、無事に終わりましたでしょうか。どのようなものを得られたのか、また良ければお聞かせください。

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