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2024.3.21 藤井佯さんへ

藤井佯さんへ

年月日が4.3.2.1になっており、おっ、と思いました。

漫画において重要度の低い部分に関しては、どこをどう切り取るかは完全に好きにやっていると言いますか、感覚的に必要だと思ったら描くし、黒くしたければ一面ベタ塗りにするなどしてしまうのですが、流れそのものについては見たものをそのまま再現せねばならない、見えてしまった以上はそう描かねばならないという制約はあります。原稿を描くとき、描いている私は完全に道具であり翻訳するための装置であるような感覚だったなと記憶しています。長らく漫画は描いていないのでこの感覚は随分と劣化してしまったのですが。

私の感覚では小説よりも詩の方が自由であるように見えるので、前回の手紙で藤井さんが仰っていたことは少し意外でした。思っているよりも詩は不自由なのでしょうか、それとも小説がもっと自由なのでしょうか。詩が不自由であるならば何に縛られているのか、あるいは小説は何から解き放たれているのだろうかと思います。

確かに、その時対象とする“あなた”を設定すると、比例して“わたし”も濃く、強く認識されますね。川を自然に流れていきたいということだろうか、と思いました。あなたにどうにかされたくないというのは、他者との関わりを根本的に拒絶しているように感じたのですがどうなのでしょうか。私は世界に存在するということは、“あなた”(他者に限らず何かの刺激、無機物や事象、自分自身であることもあります)からの影響を受け、変化を余儀なくされ続けることだと感じています。常に対応と応答を求められている。変化は不愉快で苦手なのですが、必然であるとも思っています。

「托卵」拝読したのですが、文字を二重に重ねる表現や字間を詰める手法を見て自由だ、とうれしくなりました。小説という言葉が、紙の上で自由であるのを見てうれしくなったんですね。漫画においても同じことが言えるのですが、創作表現が紙の上で自由であるとうれしくなります。紙の上、という秩序に縛られた場においても自由である。電子よりも紙が好きなのは、より縛られているからかもしれません。

つい先日胎界主第2部を読み終え、今は第3部に入っています。第2部を読む間、ずっとピュアが苦手で、居心地の悪いような気持ちでした。
Webオンリー、楽しみですね。いつの間にか参加スペースが2桁になっていました。私自身はイベント参加も個人で本を作り販売することも初めてなので緊張しています。「井戸のあかつき」の試し読み部分を読み、胎界主を知らない人でも読めるようきちんと世界を説明してくれていることに誠実さを感じ純粋に尊敬しました。創作の中で読者に伝わるように世界を説明するのは私が一番苦手とするものです。胎界主という作品に対して、漫画であることの意義や必然性があまりにも大きい作品だと感じているのでそれの二次創作としての小説にはかなり関心があり、既刊の再販があれば是非購入したいと思っています。
「どうかしていた」という感覚、私も数年前の創作漫画を描き続けていた頃を指して常々そう思っています。私本人よりも生活よりも漫画が先にあった。創作に引きずられるようにして生きていたので、相当ボロボロでしたが目は爛々としていたように感じます。今の元気をなくした私にとっては当時のそれは羨ましいものでもありますが、不可逆だとも思います。

来週は、2泊3日で仙台へ行く予定です。感覚ミュージアムに行きたく、それの所在地が仙台だったためはるばる向かうことになりました。予定はあまり決めておらず、現地で流れに任せようと思っています。普段の生活から離れて過ごすのが楽しみで、とはいえ離れた先にあるのもまた生活なので何が違うのか、とも思います。故郷を出るということについて似たようなことを考えたことがあるのを思い出しました。

先日も雨と風が激しく、なん本もの傘がひっくり返るのを見ました。春の嵐と言うにしても激しすぎやしないかと思います。
穏やかな日々を願います。

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