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おかゆな日々を

すべては結果論。
人は通り過ぎた道のことしかわからなくて、今いる場所についてはほとんど知ることはできないと思う。主語を「人」にするのやめよう。
わたしは、そうだと思う。

ここ数年、正確に言うと2016年からつい先日まで、わたしは嵐の中にいた。
はじめは靴がびしょぬれになるくらいの、次に傘がこわれるくらいの、さらに一晩電気が止まるくらいの被害が出ていたがまだ笑えていたし、嵐を乗り切れる自分に興奮していた。
そのうちに、外は激しい風雨で人の声が聞こえなくなったり、家を無くした人々に避難所を開設して自分の備蓄を誰かにあげまくったり、電気のない部屋のなかで詐欺みたいな希望のある話をして人を元気づけたりしていた。
足りないものを政府に訴えたり、反抗したりもした。

結論から言うと、人が生きる・助かるには各々が自分を鍛えるのが一番はやく正しく歪みが無い。
「助け」は基本間に合わないし、歪だし、正確に言えばたぶん存在もしない。
何年もかけて、大げさに生きて、手に入れた事実はこれだった。
みんなはとっくに知っていたのだろうか、わたしは知らなかった。
人がよりそって生きることに価値はある。
でも助け合えるかと言われると、それは難しいのかもしれないと思う。
やろうとしちゃったよ。

この結果を嘆いてはいない。なぜならわたしは常に全力だったし、「こういうことがうまくできる個体に生まれればよかった」とは思うけど、「あの時こうすればよかった」とは思わない。
いつも考えて考えて最善と思う道を選んできたから。
これ以上の結果は出せなかった。そこに揺らぎはない。

前置きが長くなった。
最近のうだうだは、この嵐から抜け出すための諸々の最期の精神的な準備と処理だった。その一環として、抜け出した後の準備も、つたないながらしていたつもりだった。
ところがいざ嵐が過ぎて(ある結論を出して周囲に伝えて)数日たってみると、色々と自分の変化に気が付いた。
一つ目は自己否定が和らいだこと。
自己否定が和らいで、自分を責める(結論が出るまで長時間反省する)という時間が減ったのでそれに使っていたパワーが余るわけだ。
と、思っていた。
現状に対する結論を出し、責任から解放されて自己否定もやわらいで、これからなんでも出来そうな気がしてたのにパワーが出ない。
物資が無い、という言葉が近いかもしれない。
ふたつ目の気づきはこれで、わたしはいつの間にか負傷した状態で焼け野原にいて、身の回りには何も見当たらない。よく見れば焼け焦げた生活用品が散らばっていてどれも使い物にならない、たとえその何かをとろうとして動こうとしても足が痛くて動かせない、そんなイメージが浮かんでいる。

つまり、自分の意志で自分を傷つけたり他者に渡してきたこと、詐欺めいた言葉を伝えてきたことの代償はわたしのなかにしっかりあって、今、わたしは結構やばいのかもしれないと思った。
自分をないがしろにしてきた罰、誰かに認められたい欲におぼれた罰。
しっかり当たってる。
ゼロからやり直し、なんて甘かった。
自分のどこが傷ついていて、修復可能なのか不可能なのかまずちゃんと見ないといけない。必要なら人にも手伝ってもらって。背中とか、見えないところも見てもらって。立て直しなどではなく回復なんだ。

ご飯でいったら元気を出すための焼肉ではなくてまずはおかゆなんだ。
わたしはこれからおかゆな日々を過ごさないといけない。
味がしないとか食べた気がしないとか言っちゃだめだ。体と心にむりのないものを摂取するんだ。

気づけて良かった。
ここまで来れて良かった。
嵐のなかも、楽しかった。それも嘘じゃない。
まちがいの代償も残っててよかった。
ぜんぶ抱えて生きてく。
まずはおかゆを食べながら。










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