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KとSって①Kのこと

9月に発売された「荻窪メリーゴーランド」。
恋人同士のKとS。二人の恋の顛末が美しく鋭い短歌で描かれていく。
ふつうの歌集は書いている人は一人でも「主体」がばらばらだ。
この本はひたすらKがKとして、SはSとして短歌を通して話したり思ったりしている。
一首で人間を想像するよりも情報も多いし、その分空白も多い。
情報と空白をもとに想像しすぎて、もはやわたしの中にはKとSが実在している。
距離感的には、「職場で起きた痴情のもつれ」くらいの感じ。
本当のことはわからない、でもふたりの性格や普段の言動から想像するにさ~え~わたしだったら~というくらいの感じ。

この物語は進行にいろいろと仕掛けがあって、それも「まじか」となるのだけど、それは置いておいて、主に前半から3~4首引用して、KとSの恋愛感と人間と私が思ったことについて書く。
KはSのことしか考えてないし、Sは誰が相手でも結局同じだと思うので、ふたりがいつどこでだれにこの短歌(のような気持ち)を持ったかはあまり気にしないで書いていく。
今日はKのことを。

ずぶ濡れのままめくれない見開きのようにきみとは離れたくない

この一首を読んだ時、「あ、このひと無理だ」と思った。無邪気に恋を楽しんでいると見せかけて、人間と人間の境目を無くそうとしている。もう元の姿には戻れないし、無理にはがそうとすればやぶれる。けど、それを願う。とんでもない欲望じゃないかそれは。(それが恋という意見もあるか)
でも「ずぶ濡れのままめくれない」の不快感すさまじい。さわりたくない。
あと、おんぶして位置情報を重ねなくても、同じ家にいれば違う場所にいても位置情報は大体重なるでしょ。でもより厳密に重なっていることがうれしいのかな。人の心身は、重ねようと思えばいくらでも重なり合えるけど、重なり合わない部分もより厳密になっていくのに。

必要になればいつかのページから呼ばれる栞でもぼくはいい

「ずぶ濡れの…」の一首のとなりのページにあるのがこの歌。必要な時だけ呼ばれるだけでもいい…。ずぶ濡れじゃ栞もくっついちゃうじゃん。これ、わざと隣に並んでいるのかな…。読んですぐ「はい嘘~」と思ったけど、Kにいつも嘘はない。これはこれで本気でそう思っているんだろう。関係に名前を付けずにいられないのに、こんな感情と覚悟を持てるはずがない。こういう、ちぐはぐなことを思いながら心も体も生活も欲しがるKを気持ち悪いと思ってしまう。
でもきっと、Kは嘘をついていない。全力でSが好き。
それがわたしには薄気味悪いし怖かった。

あたたかい星に復路の燃料をうなづきながらぶちまけ終わる

覚悟がないのに不相応の重なりを欲しがっていると思っていたKに対して、同情と少しの共感と「なんだ、覚悟あったんだね…」と思わせられた一首。3周目くらいでそう思えた。
はっきりとKは復路の燃料を失っている。自らの意思で。もう、Kは戻れない。アメリカの映画みたいに追加でロケットが飛んで助けに来ない限り、KはもうSという星から離れられない。そういう仕組みを自分で作った。ずぶ濡れの見開きにしようとした。その仕上げがKにとっての行為だった。(やっぱちょっと気持ち悪い)
でも、多くの人が「一人の運命の人を探す」という、神か社会にかけられた呪いにかかっているので、Kにとっては「やっと見つけた」だったのだろう。見つけたから、全身全霊で欲しがる。ふつうかもな。わたしがその呪いとそれにまつわることを恐ろしく感じているだけで。

ただ、Sという星はそんなに甘くなかった。

この星の外に出てしまわないように繋いでおいたくちびるだった

ここにも、覚悟がないのに欲しがる人がいた。行為は一人ではできない。
不安が強いだけで、Sも嘘はついていないと思う。

ただ、Sはいつも、どこでも、だれが相手でも復路の燃料を切らさない人。




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