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日本人の死生観 天国って何じゃい?

お坊さんの私は、
お葬式などで「天国」と聞くと
大きな違和感を覚えます。

「天国で安らかに・・・」とか
「いつか天国で会いましょう」とか。
この言葉を聞くたび、モヤッとします。

仏教に「天国」はありません。
「天国」はキリスト教の用語。

チコちゃん風に言えば、
天国を何かも知らずに、
「死んだら天国へ行く」
と信じている人のなんと多いことか・・・

今日は
死後の世界と向き合うって大事!
ってことを書いてみます。

死んだらどうなる?

多くの人にとって
死後の世界がぼんやりしたものになっています。

「死んだらどうなるの?」
と子どもに聞かれたら何と答えますか?
「天国へ行くんだよ」と答えますか?

死生観は人によって様々です。
けれど、「死んだらどうなるんだろう?」
って考えておくことは大事です。

死ぬことは誰でも怖い。
でも、必ず、例外なく、いつかやってくる。
だから「死んだらどうなるか」は
誰にとっても重要な問題のはずです。

人生100年時代。
長生きするということは、
死と向き合う時間も長くなります。
「死んだらどうなるか」はちゃんと知っておくべき。

学校では教えてくれないことだけど、
とても大切なことです。

自分が死と向き合うときや、
大切な人を見送ったとき、
死後の世界がぼんやりしていては
心穏やかに過ごせない。

「死んだら何もなくなる」とか、
「どこへ行くか分からない」というのでは、
不安で仕方ないはずです。

平和な時代、日常で「死」を意識する機会は
ほぼ無いかもしれません。
けれども、いつか自分の身に必ず訪れることと
向き合うきっかけになれば嬉しいです。


最後に蓮如上人の御文を紹介します。

誤解を恐れずに一言でまとめるとすれば、
【人間の一生とは、儚いもの。
死後の世界(後生の一大事)と向き合って、
阿弥陀仏に頼りましょう】
ということです。

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの
世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身を受
けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

蓮如上人 御文 五帖目第十六通


次回は、
仏教での死後の世界(六道輪廻や極楽)について書こうと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。
素敵な1日をお過ごしください。


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